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これは、若干(じゃっかん)わかりにくい表現だが、動物なら「まったく制約なしに<性>的な自然行為(性交)を体験として習慣化」できるかもしれないが、もはや人間とはよべない、ということだ。なぜなら、どんな感情(かんじょう)も意識(いしき)もない人間を人間とよぶことができないからである。
それゆえ吉本は、「エンゲルスのいう集団婚の存在(そんざい)は、結果(けっか)ではなくてむしろ逆に人間が<嫉妬>から解放されるための前提(ぜんてい)として考えなければならない。つまり現実(げんじつ)が先(さき)に、感情は後(あと)にというわけだ」と続(つづ)ける。そして、「ところが人間には、人類史のどの時期をとってきても、エンゲルスのいうどの場合もありえなかった。人間は歴史的などの時期でも、かつて男・女として<嫉妬>感情からまったく解放されたことなどなかったのである」と結(むす)ぶ。
繰(く)り返すが、かれらが集団婚にこだわったのは、どうして人類史に母権・母系制が存在していたかについての説明が必要だったからである。
エンゲルスは、集団婚家族の子供について、母親はわかるが、父親が誰であるかわからなくなる、という。しかし、子どもの母親だけは、確実にわかる。それゆえ、血統(けっとう)は母方を通じてのみ証明され、そのため、母系を中心とした社会が形成されるのだ、と。
こういう論理に対しても、吉本は否定的である。というのも、エンゲルスらが想定した社会は、「現代と比(くら)べて少数(しょうすう)の、しかも空間的(くうかんてき)にもまばらな地域(ちいき)に共同体を営(いとな)んでいる種族内(しゅぞくない)のことをとり扱(あつか)っている」のだから、「原始的な種族員がみんな聾(つんぼ)か唖(おし)であり、この女性が白痴(はくち)であるとでも想定しない限り、エンゲルスの理屈(りくつ)は成り立ちそうにみえない。原始的な共同体が強固(きょうこ)なほど、噂(うわさ)は千里(せんり)を走ることになることは確かだからである」と。
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