今、返すがえすも、蒲生町の郷土史を所有していないことが悔やまれるが、ここで予想しておこう。おそらく、ここの郷土史にも、この赤塚源太郎らの記載はない、と。
こう予想する一つの理由として、私は、帖佐の黒江豊彦らと同様、初めて耳にする人物名だったからである。平成版の『姶良町郷土誌』はともかく、黒江の出身地である帖佐の戦前の郷土史では、西南戦争の項目すら除かれていたのだから、少なくとも、蒲生地区でもタブーだったはずだ。だからこそ、誰もかれらのことを口にしなかった。
それでは再度、どうして出水の伊藤祐徳だけが、非難され続けたのだろうか。それはおそらく、かれは簡単に無視できない「大物」だったからだろう。それに比べて、黒江や赤塚の場合は、無視できる「小物」だった。そうして、無視することのほうが、あるいは沈黙することのほうが、戦後の薩軍の生き残りや子孫にとっても、さらにその地域の人々にとっても都合がよかったのだ、と。
話は意外な方向に向ってしまったが、この辺で修正しよう。『縣史』に関しては、また別な機会に譲る。赤塚源太郎らの名前は、「巧妙」(注)に無視していたが、黒江や伊藤のことをどう記述しているか知りたい読者もいるだろうから。
では、『小林市史』(昭和41年刊)に移る。落胆したと言ったものの、まだ2,3触れておかなければならないことがあるからだ。
その一つは、6月13日、薩軍が小林に本営を置き、その前後の河野主一郎の動静や官軍の動向を詳細に論じているのに、前にも言った通り、河野の命令による14日の大河平地区焼き払いや、翌日15日の大河平一家の惨殺事件など一切触れていないことだった。ただ、そのあと一つわかったことは、19日に薩軍は、小林本営にいる薩軍600名ほどを飯野(川内川の対岸?)にいる官軍に総攻撃を加えていることである。そして、3方に分かれて進軍した薩軍の一隊は、大河平を経由して飯野に向っている。
(注)・・・(18)の『縣史』の抜き書き部分を再読して欲しい。人吉隊長犬童治成以下二百八十名の次に赤塚らの名前はなく西郷軍二百名と続いている。『鹿児島縣史』なのだから、本当はこちらのほうを具体的にかつ詳細に書かなければならないのに。
こう予想する一つの理由として、私は、帖佐の黒江豊彦らと同様、初めて耳にする人物名だったからである。平成版の『姶良町郷土誌』はともかく、黒江の出身地である帖佐の戦前の郷土史では、西南戦争の項目すら除かれていたのだから、少なくとも、蒲生地区でもタブーだったはずだ。だからこそ、誰もかれらのことを口にしなかった。
それでは再度、どうして出水の伊藤祐徳だけが、非難され続けたのだろうか。それはおそらく、かれは簡単に無視できない「大物」だったからだろう。それに比べて、黒江や赤塚の場合は、無視できる「小物」だった。そうして、無視することのほうが、あるいは沈黙することのほうが、戦後の薩軍の生き残りや子孫にとっても、さらにその地域の人々にとっても都合がよかったのだ、と。
話は意外な方向に向ってしまったが、この辺で修正しよう。『縣史』に関しては、また別な機会に譲る。赤塚源太郎らの名前は、「巧妙」(注)に無視していたが、黒江や伊藤のことをどう記述しているか知りたい読者もいるだろうから。
では、『小林市史』(昭和41年刊)に移る。落胆したと言ったものの、まだ2,3触れておかなければならないことがあるからだ。
その一つは、6月13日、薩軍が小林に本営を置き、その前後の河野主一郎の動静や官軍の動向を詳細に論じているのに、前にも言った通り、河野の命令による14日の大河平地区焼き払いや、翌日15日の大河平一家の惨殺事件など一切触れていないことだった。ただ、そのあと一つわかったことは、19日に薩軍は、小林本営にいる薩軍600名ほどを飯野(川内川の対岸?)にいる官軍に総攻撃を加えていることである。そして、3方に分かれて進軍した薩軍の一隊は、大河平を経由して飯野に向っている。
(注)・・・(18)の『縣史』の抜き書き部分を再読して欲しい。人吉隊長犬童治成以下二百八十名の次に赤塚らの名前はなく西郷軍二百名と続いている。『鹿児島縣史』なのだから、本当はこちらのほうを具体的にかつ詳細に書かなければならないのに。
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