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東北旅2日目は仙台から会津若松へ
向かいました。
会津若松
駅に着き周遊バスを待ちますが、雪の
為大幅に遅れてます。
やっと来た「あかべぇ」に乗り、「鶴ヶ
城入口」で下車。
若松城は地元では鶴ヶ城と呼ばれていま
す。
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14世紀、蘆名直盛が築城した東黒川館
が始まりとされています。
蘆名氏は、関東の名族三浦氏からの分流
で、室町期に会津守護として現れ、戦国
期には伊達氏と並び称されるほどの勢力
を誇りました。
しかし1589年、伊達政宗が蘆名氏を
滅ぼし、黒川城を手にします。
政宗は秀吉に臣従し、会津を召し上げら
れます。
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蒲生氏郷は天守閣を設け、近世城郭に改
造。城下町を整備し、町の名を黒川から
「若松」へと改めます。
一時上杉景勝が120万石で入封するも
、家康は西軍に加担した景勝を30万石
に下げ、米沢に移封します。
1643年に保科正之(家光の弟)が
23万石で入封、以後会津松平家の居城
とまりました。
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(白虎隊十九士のおもかげ)
1868年(明治元年)の戊辰戦争では
、5千人の老若男女が1ヶ月間籠城しま
したが、ついに降伏、開城しました。
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現在の天守閣は、1965年に造られ、
内部は博物館になっており体験型の学習
ができます。
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(天守閣最上階から)
1990年には茶室「麟閣」が移築復元
されました。
蒲生氏郷は千利休が自害したのち、利休
の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子
少庵を会津に匿い、家康と共に千家復興
を秀吉に働きかけました。
その後、3人の孫によって裏・表・武者
小路の3千家が興されました。
「麟閣」は氏郷少庵ゆかりの茶室です。
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(麟閣)
「麟閣」の南側に「荒城の月」の歌碑が
あるとのことで探しましたが、雪が深く
てあきらめました。
土井晩翠が詞を構想したとされる、仙台
の青葉城址とここ鶴ヶ城址に歌碑が設置
されているとのことです。
話がいささか脱線しますが、ジャズピア
ニストのセロニアス・モンクは「荒城の
月」を「Japanese Folk
Song」としてとりあげているそう
です。
映画「ラ・ラ・ランド」ではこの
バージョンが使用されています。
今、敗者から見た歴史が話題になっていますが、滅びゆく人々の思いも胸に迫ります。
『ある明治人の記録、会津人柴五郎の遺書』(中公新書1971)は、最近名著復刊されました。
切々と胸に迫る会津の人と歴史に、
涙なくして読めません。
今回の旅日記は、特にしみじみと見させていただきました。
ありがとうございます。