長篠城を訪ねた後、道路脇の看板に目が行きました。
そこには、この付近一帯が長篠設楽原の戦いの戦場だったとのこと。
この戦いは、歴史の教科書にも載っていました。
今までの刀、槍、弓が中心の戦いから、最新兵器の鉄砲が主流になっていく新しい戦いです。
「織田徳川連合軍足軽鉄砲隊 VS 最強武田騎馬隊」
一人車を運転しながら、想像を膨らませワクワク。
ということで、見られるところだけでもと思い、戦地を訪ねることにしました。
解説はこちら。
馬場信春による丸山占領に続いて、勢いに乗じた真田信綱・昌輝兄弟や土屋昌次らの諸隊が次々と繰り出され、激戦が行われた場所である。
ここには連合軍から羽柴・丹羽隊が、武田軍から内藤隊が加わるなどし、さらに戦線は拡大していった。
続いて、あの有名な馬防柵。
解説は、こちら。
設楽原に布陣した連合軍は連吾川の西に陣を敷き、平地部分の川沿い南北2Kmにわたって馬防柵を構築させた。
信長はあらかじめ岐阜を出発する際、足軽雑兵に至るまで、みな柵木と縄を携行させた。
その柵木と周辺の雑木を合わせ、設楽原中央を流れる連吾川から10mは沼地のため、その西側に作られた田圃の畦に二重三重に柵の縦杭を打ち込んだ。また、付近の農家を買い取って、戸・障子・畳・柱などを使い、柵の出撃用の木戸口を設け、また柵の下部に弓矢を防ぐ畳を置くなどして、あたかも城壁を設けたような陣営を作り上げた。
さらに各陣地前には空濠を掘り、土塁を築いて補強してあった
信長の鉄砲隊が、武田騎馬隊に向けて、3段構えで撃っていったところです。
激戦地だったところ。
さて、思い立って立ち寄ったところなので、場所等がわからず残念。
下調べをしておけば、武田軍の有名な武将のゆかりの地を訪ねられたのに・・・。
ちょっと後悔です。
それでも、感動もしました。
それでは、戦いの詳細は、こちらを参照ください。
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