華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「自己責任」という言葉を使うな

2007-02-06 23:34:06 | 本の話/言葉の問題


 柳沢厚労相、今度は「若い人達は、子供は2人以上という健全な考え方を持っている」と発言した。まだ言ってるのか、このヒト。何もわかってないんだね。先日の「女性は産む機械、装置」発言も、ゴタゴタ言う奴が多いからいちおう頭下げておこうかと計算しただけで、何が問題なのか全くわかっていないということがアリアリ。健全だとか美しいとか、あんた達は判断する立場じゃないんだってば。

 ……ということで柳沢厚労相のことをしつこく書こうかと思ったが、あの顔を思い浮かべるだけでも不快なので(ついでに、擁護した都知事の顔まで浮かんだりしてさらに不快である)、別のことを書こう……。と言っても、楽しい話題じゃあないけれども。

◇◇◇◇◇

「不愉快な言葉」や「引っかかる言葉」は、たくさんある。世の中にはそれが満ち満ちていて、時折心が酸欠状態になりそうな気がしたりする(むろん逆の言葉、希望を感じさせてくれる言葉も多いのだが、最近ははもともと美しかったはずの言葉にまで泥を塗るようなヒトが多くて困る)。これまでも「嫌いな言葉」についていろいろ書き散らしてきた覚えがあるが、今日は日常会話の中で使われる言葉をひとつ取り上げてみる。

 たとえば「生活習慣病」。これも私としては非常に引っかかる言葉だ。もう何年も前から普通の言葉として定着しているふうで、私の母などでさえ「生活習慣病の予防」がどうのこうの――と、旬の野菜の話をするのと同じようなさらりとした口調で語る(もう、予防という段階ではないと思うが……)。

 だが私はいまだに違和感が拭えず、文字にする場合は「いわゆる生活習慣病」とか「生活習慣病と呼ばれる病気」という書き方をする。生活習慣病という言葉には、「アンタの生活習慣が悪いからだ」という価値判断が入っているからだ。

 以前は「成人病」と呼ばれていた。これも納得できる言葉とは言い難いが、まだマシだったと思う。この呼び方は、いったいいつ変わったんだっけ。正確なところは記憶に残っていないが、「自己責任」という言葉がじわじわと広がり始めた頃と軌を一にしていたような気がしてならない。

 そう言えば少し前に、「生活習慣病になったのは本人の責任。全然同情できない」という言葉を聞いたことがある。いや、政治家や有名人の「発言」ではない。私的な席で、何かのついでという感じでこんな発言が出たのを聞いたのだ。発言者は酔いに任せて、「そんな病気に健康保険を適用する必要はない」とまで言った。さすがに非難の声が上がり、本人も言い過ぎたと認めたけれども、「生活習慣病は本人の責任」あたりまでは同感に近い人もいたような感触を受けた。その時の何とも言えない不快さを、私は今も引きずっている。

 最近、メタボリック・シンドロームという言葉が広まっている。これも何だか「そうなったのは本人が悪い。もっと厳しく自己管理しろ」ふうな匂いがつきまとうが、職業性のストレスが多い人の場合、メタボは平均の2倍もに跳ね上がるという報告もあるのだ(医学関係の論文であるが、私は原文で読んだわけではなく引用を、それも翻訳されたものを見ただけだし、出典も忘れた。調べている時間がないので、すみません……。何せブログは私の覚え書きに過ぎないので。って、こればっかり言ってるな)。 

 ちなみにストレスの多い職業というのは、必ずしも「激務」とはイコールではない。むろん、残業に継ぐ残業でボロボロになったサラリーマンもストレスが多いことは確かだが(私は自分の親父が過労死した人間なので、この辺は自信持って言える)、労働時間が過剰でなくたってストレスの多い仕事はいくらでもある。正社員と同程度の責務を負わされながらも、報酬が低く、いつ契約を切られるかわからない不安に苛まれ、そして裁量権などほとんどないという派遣やパート・アルバイトの人達も、日々激しいストレスにさらされているのだ。

 話が混乱してきたが、生活習慣病だって――中には百も承知でわざと暴飲暴食続けたあげく、という人もいないとは言えないが――本人が好きこのんでなるわけではない。

 生活習慣病になるのも、リストラされるのも、子供抱えて路頭に迷うのも、過労死するのも自己責任。馬鹿言うんじゃないっ! この国はいつから、こんなうそ寒い国になったのだろう。「みんなで幸福になりたい」「ひとりでも不幸な仲間がいたら、辛くて耐えられない」という、生きとし生けるものの素朴な感覚を失ってしまったのだろう。いや、昔々っからそんなものは幻想だったのかも知れないけれど、人間には見果てぬ夢というものがあるはず。一歩でも近づきたい地平、というものがあるはずではないか。そんなものはないというのであれば、私は――人間をやめたい。やめて野良猫にでもなって、ムルと一緒に暮らしたい。


〈蛇足〉

 阿弥陀の本願に、たしか「すべての人が救われるまで、私は極楽浄土に行かない」というふうな言葉があった(原典調べて書いているわけではないので、言葉としてはかなり違っていると思う。私が受け取った感覚で書きなぐっているだけである。だから実際の文章と違っているなどのご指摘は御容赦願いたい。私は学者でも評論家でもないから、細かな字句は実のところどうだっていいのだ。いや、むろんきちっと書くときは、正確を期すべきだということぐらいはわかっているけれども、何せこれは寝言ふうのメモなので。正確な文章知りたい人は、個々にお調べくだされ)。

 私がごく若い頃に読んでひどく心に残り、何度も読み返した高橋和巳の『邪宗門』(これは既に絶版で、手元にもない。誰かが借りて行ってそのままなのだ。誰が持っていったかももう忘却の彼方だが、思い出したら返してくれ~)にも、同じような言葉があった。これは大本教をモデルにした小説なのだが、その教祖のお筆書きに、「すべての人が救われるまで……」という誓願があったのだ。 

 私はリッパな人間ではないから、とてものこと「すべての人が救われるまで」などと言う自信はない。無理矢理言えば自分自身のヘソが茶を沸かしそうになるが、最低これだけは言える。「私ひとりだけ、いい目を見るのは嫌だ。せめて、転んだ友人達の痛みを自分も分かち合い、彼らに手を延べて、一緒に歩いていきたい。たとえオロオロ、ウロウロとであろうとも」。



  
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする