脳のミステリー

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271.許されざる事

2008-05-13 21:23:22 | Weblog
☆☆☆自然は神の黙示であり、芸術は人間の黙示である☆☆☆

こういうフレーズを聞いた事がある?
黙示という言葉は、キリスト教に僅かでも興味を持った人間には多少の馴染みはあると思う。しかし、年の暮れになると日本中がクリスマスムードの中で大騒ぎになるのだから、チョッとは覗いてみるのも良いだろうと思う。だからと言って、宗教を語るのではない。
宇宙における人間として生まれてきたのならば、誰しもが「自然と芸術」を両手に生きているのではないかと思うのである。誕生はともかく、我々は、大人も子供も、利口も馬鹿も、貧者も富者も、死においては平等である。自然界ではこの教訓が生きているが、人間界となると、チョッと首を傾げる事がある。良きにつけ悪しきにつけ、動植物は常に変わらぬ姿勢だが、人間には心というクセモノがあって、これが厄介なことに結構夫々の人を左右する。一番のクセモノは損得かな、と私は考える。
芸術を語ればエンドレスになってしまうだろう、と思うのと同時に、どうしても私の場合本業の美術館の話に流れていってしまいそうなので、今回は「自然」しかもその中の動物でもチョッと限定して、馬から犬の話を私なりに綴ってみたいと思う。

今朝、ひょんな事でホースセラピーなる言葉に出会った。セラピーという片仮名が巷に溢れ出して久しいが、今や美容にも診療にもこの外来語が使われている。
ホースだから、勿論馬の事である。そして、無論、アニマルセラピーのひとつである。
アニマルセラピーとは、動物を使ったセラピー手法のことで日本での造語である。中々快い響きがある。言葉だけでも癒しになるような気がする。これは人間の友達である動物が絡んでくるからだろう。ここで「昨日の友は今日の敵」という言葉は思い出したくはない。
話を先に進める前に、アニマルセラピーをもう少し理解した方がいいような気がする。
医療に携わる人が治療の補助として用いる動物介在療法(Animal Assisted Therapy)と、動物との触れ合いを通じた生活の質の向上を目的とする動物介在活動(Animal Assisted Activity)に分類されることは最小限知っていた方がいいと思う。
ハワイ辺りではイルカのセラピーがあり、タイ王国には象のセラピーもあるが、今回は馬のセラピーから始める事にする。
アニマルセラピーは、動物と触れ合わせることでその人に内在するストレスを軽減させたり、自信を持たせたり、精神的な健康を回復させることができると考えられている。情緒面での好作用によるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の改善といった期待も持たれている。子供達の心療にも高齢者医療や難病患者医療にもかなりの期待が持たれている。
人は面白い歴史の道を築く生き物ものだと考えるのは、私だけだろうか。一昔前の人間には薬草なるものが色々あって、現在は様々な動物が引き合いに出される。金八先生の口癖ではないが「人という字はお互いに寄りかかって」という言葉を無断寸借すれば、人間は決して独りでは生きていけず、植物にも動物にも助けられて生活しているという事である。
植物に関してはまたの機会にして、先ずは馬の話に戻る事にする。
ホースセラピーは密かに増えてきていた。しかし、最近の穀物相場騰貴が行政の援助を充分に確保出来ないという事実に拍車を掛けて、その経営が危ぶまれている。
競馬は大人の心の遊びの助けになり、乗馬は子供にも人気が出始めている。乗馬をすると、自ずから正しく歩く姿勢に導いてくれる。勿論、象さんも。背中にまともに載せて貰えば、自然と馬や象が理想的な歩行を行ってくれる。この事実に基づいてホースセラピーなるものが年々増加を辿って来たのだろうが、その場が日本では僅か30で英国では700だというが、その数の違いに驚く前に流行期間の短さにため息が出てしまう。
人間は「自分が生きていかなければ」と思うのかも知れないが、動物だってそうだ。人間の都合で野生界から人間界に誘い出したのにお手上げだとは何事だと言いたくなる。
アニマルセラピーの問題点は、単なる一例だが犬のヨガ(YOGA)即ちドガ(DOGA)というらしいが、これが日本では「飼い主もご一緒に」が宣伝文句になっているのが多いのに気付いた。人間が一緒にヨガドガをするという事は授業料がそれなりに高額になる筈だ。言い換えるとTwo in Oneという犬とワンセットで初めて受講が可能になるわけだ。中々商魂逞しい。まあっ、それはそれでいい、日本経済の成長を確かなものにするのだから。だが、費用がかかるからと言って、商売などに力や存在を提供してくれた動物を使い捨てにする等は以ての外と言いたい。

私は奇しくも、この春から「盲導犬の引退犬募金」に微力ながら協力しようと、思い立ったところである。残念だが、とかく日本人は目先の事ばかりで、ペット犬のような愛玩犬にだけ関心が集まり、やっと最近になって少し盲導犬、聴導犬、介助犬、救済犬といったような作業犬が話題になるようになってきた。
日本でも昔から鳥猟犬や獣猟犬は勿論いた。
海外旅行に出かけると、豪州やニュージーランドではチョッと郊外に出れば牧羊犬にあったりする。牧畜犬は日本より海外の方が多い。狩猟で働いてきた犬が引退すると処分するという話を聞いた事がある。正に冒頭に触れた「昨日の友は今日の敵」であると言わざるを得ないだろう。確かに食費が掛かる、病気になれば高額の医療費が掛かる。どこからその費用が出るのか。一般的に考えると、人間はお金を作る事が出来る。自分の欲望の為にだけでなく、引退犬などに「これまでの感謝を込めて」お金を使う。このような考えの流れが自然に出てくる望みはないのだろうか。お金は稼いで、貯めて、使わないのでは経済は止まって回らない。使い方が問題であると思う。先ず、自分の欲望の為に使う事は大切である。そして、次に各人が有意義に使うのが望ましいと思う。
私の場合は稼いで、勿論後悔しないように自分の為に使って、それから自らも隠居者予備軍として盲導犬の引退犬の飼育に掛かる費用に少しでも援助出来たらいいな、と考えてライフワークにしようと思い立ったのである。やりがいがあるし、これからの本職に大いなる意義を感じる筈だ。