脳のミステリー

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268.言葉は受け取りよう

2008-05-08 16:06:21 | Weblog
私のような脳出血の後遺症を受容した者に、何らかの形で接触のある医者は異口同音、こう言います。
「再発はない!」
私は同意します。
でも、世間では「再発」という言葉をよく耳にします。
そうかと思うと
「段々よくなってきてますね~、頑張っていらっしゃるから~」
私はそんなあまり根拠のない言葉を投げかける人には多くを語らず、簡単に「ありがとうございます」とだけ言います。
何故なら、私のH13脳出血の場合と限定して「再発」とか「快復」という言葉の出番はないと自ら明言できるからです。
H13脳出血とは、私だけが使う呼び名という事です。
平成13年9月23日に私を急襲した病魔は完全撤退したし、だからと言って新しい病魔が生まれ出てきているかという事は私自身にも分からないのです。
とかく不謹慎で、呑気屋の私は「ケセラセラ!なるようになる!先のことなど分からない!」と歌ってしまうのです。自らに余談を許可すれば、あの名曲が「知りすぎた男」という映画の主題歌だったという事が私には可笑しく思えてきてしまうのです。
こんな「お喜楽女」に任せてはおけないと仰る人はこのブログをすぐに閉じても構いません。成る程!話を逃すだけですから・・・

脳出血で倒れて以来、しばしば自分の脳内の写真を見ながら私は医者の説明を聞きます。
自分を襲った病気とあの時強引にくれた後遺症をよくよく考えて様々な本を読んで、自分の脳と身体に改めて反映してみるのが私の癖になってきました。そして、その後、私にはハイパーグラフィアが盛んに顔を出すようになってきているのです。
これは、私自身はかなり素晴らしい事だと思っています。何故なら、経験という貴重な事実を私という人間の体の中で体験させて、更にそれを書き留めておくという事は、私という脳障害後遺症者の存在の証になるからです。
確かに、人は様々です。経験も様々です。でも他人の経験は何処かで、何らかの形で重宝する事もあるのです!
私が襲撃を直に食らった場所は完全に塞がれて、黒い点だけが傷跡として残っています。
その脳に残された黒点と引き替えに私の右半身には過酷な日々の変化があたかも人生のタスクと思わざるを得ないように、毎日のように手を変え品を変えてやってくるのです。変化は私の身体を寸借したり、勝手に長逗留したりします。これらの変化ほど傍若無人で勝手気侭なものに私はこれまでに会った事がありません。だから、私は興味津々なのかも知れません。

若い人には無理かも知れませんが、明らかに半世紀も生きてきた人には考えて欲しいと思うのです。言葉は捉えようだ、ということです。善し悪しといういい言葉があるじゃないですか。いつも言いますが、善し悪しという言葉はバラすと「よし」と「あし」になりますが、葦という稲科の植物は「ヨシ」とも「アシ」とも呼びます。故に「よしあし」は「よいとも悪いともすぐには判断できかねる状態であること」になるわけです。

本題に戻って、私の病魔の再発とか後遺症の回復を考えるにあたって私は自分らしく、こう思うのです。
先ず、病気の再発はあり得ない筈です。もし、再び脳出血に襲われたら、私の脳内の別の箇所で偶然脳出血という名の病魔が襲ったのだという事です。詳しい説明をされた後、もしその病魔が、同じ右脳被殻出血と名乗ったら、あまりにも偶然だが、それでも全く同じ箇所という事はあり得ないと私は明言できるのです。
だから、私は「再発」という言葉を受け容れがたいのです。
更に、回復という言葉を考えてみます。
今日もリハビリ病院で、こんな事がありました。
私は、ベッドの上で胡座の練習をしていました。何も釈迦になるつもりも、鎌倉の茣蓙の大仏に弟子入りするつもりもありません。
病後一年目は、足を投げ出して座るのも到底無理な姿勢でした。胡座は二年経っても三年経っても苦痛でした。痛みを感じるわけではないのに出来ないという事実に対する苦痛だったのです。そして、いつしか胡座がかけるようになったのです。あの時、私は確かに心の中で小躍りをしていました。何故? 痛みを感じなかったからです。
少し痛覚が蘇った今私は、胡座をかくという行為が本当に苦痛なのです。本当に痛いのです。痛みは胡座の上には出ません。爪先近くに出る痛みは即、顔面に走るのです。誰がこんな事、分かりますか? 胡座をかいて、その痛みが爪先に出て、更に顔右半分を襲撃するなど・・・その走りのスピードは表現できない程の早さです。
そんな状態の時、誰かに「よくなりましたねえ!」なんて言われたいですか? 私は決して出来た人間ではありませんから、内心「何? 人の気も知らないで余計な事を」と言いたくなります。
これは明らかに「変化」なのです。悪い変化ではありませんが、私という人間の心にとっては決して良い変化だとも言えないのです。
声をかける人も、悪気はなく、良かれと思って「よくなってきましたね!」と言うのですから、その気持ちを汲んであげてチョッとだけ微笑んでさらりと「ありがとう」と言ったらいいのです。私がその言葉をどう、受け取ろうと私の勝手だという事です。
表面に出さなければ気まずくはなりません。
表面に殆ど出ないが最悪の辛苦と言える痺痛と年がら年中闘っていると「顔で笑って心でこん畜生!」と言ってたっていいわけじゃん!という事になります!

要は、言うも人それぞれ、それを受けるも人それぞれ・・・自分の考えを無理に押しつける事はないし、嫌々受け容れる事もない、それが世渡りがうまいかどうかという事だろう。少なくとも生きている以上、人間と世間は切れない関係にあるだろうから。

長い長い戯言にお付き合い下さってありがとう!