脳のミステリー

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06.31.社会人と会社人

2006-03-18 05:27:36 | Weblog
 最近、ちょっとTVの画面から遠ざかっているジョージ・フィールド氏というオーストラリア人をご存知の方は大勢いると思う。日本人より流暢な日本語を話す豪州人である。私が留学以来、頻繁に日豪の間を行き来している頃、日本にドップリ浸かっていたとジョーク交じりの会話が弾んだ事がある。つい数年前、フィールド氏が日本社会に於ける社会人と会社人なる人間を語っていた。なるほど、色々な言葉を駆使して生きてきた人間は言葉遊びが実に上手だ。
 日本人である私は是非とも日本社会に於ける自分を考えねば、と思った。
 オギャーと生まれ出てすぐに家族という仲間に迎え入れられるのは家庭という社会である。公園デビューとやらで幼児社会、幼稚園という園児社会、小学校、中学校、そして高等教育の場、といった具合に学生社会が誰もの人生の半分を先ず占めるのである。
 自ら振り返れば、小学校低学年の頃まで私は母の手が届く社会で屈託ない生活を送っていた。母は率先して末っ子の私の為にPTAの役員を引き受けていた。近所の公立小学校には役員だけでなく連日のように近所のオバサンがやってきていた。おとなしい男の子の両親は和菓子舗を営み、季節の菓子を自転車に載せて職員室に運んできた。ヒイキだのゴマスリという言葉は殆ど聞かなかった。「季節を愉しんでください」という純粋な気持ちからのオバサンの行動は誰もが頷いていたのである。その事がきっかけで男の子が虐めにあうなどの行為は全くなかった。何時の日からか、大袈裟に言うと学校と家庭の関係がギクシャクしてきた。距離ではなく本当の意味での関係が妙になって来たのである。
 自分の子供が通っていた逗子の海辺の学校でもそれを感じたのは否めない。かつては若布の時期がくれば生若布が、芽昆布が、干し若布が、学校に運ばれたという。初鰹はその昔は鎌倉の八幡様に献上されたが、寺子屋が学校に変わっても逸早く恩師に配られたという。ここでも何時の頃からか、贈る事も受け取る事も罷りならんという風潮が蔓延るようになった。何とも味気なく、侘しい現代である。鎌倉の中学ではPTAの事を親師会と呼んでいる。何といい感じの呼び名である。あの学校には様々な家庭から子供達が通って来ていた。商人、職人、お寺さん、文化人、勿論、医者も弁護士もサラリーマンも・・・親の職業は色々だが、先生はみんな師と仰ぐ人物である筈だ。そんなほのぼのとした関係が最近は全く薄れている。
 しかしラッキーな私は自らの子供時代は昭和の良き時代の最後を経験したようで、子供達の学校生活では湘南の地でまだ残っている良き親師関係に触れる事が出来たのである。
 社会人になってから、私も会社人生活を十数年経験した。会社という枠に自らをはめ込んで社会人として生きるのはエスカレーターに乗ってしまったようで、時には自分を無視しなくてはならない事もある。最近の風潮と違ってかつては「サラリーマンは気楽な家業・・・」と流行歌にもあったように大企業の傘の下は比較的安心だった。沢山の人の中から企業をバックに出世するのも夢ではなかった。名刺を出せば何でも通ると言っては過言かな? ただ、難問は自分の勝手気侭はダメだった。
 自由人仕事人間になってから十数年、障害社会に突然、私が身を置いたのは企業から離脱した社会で一般人として復帰する事が出来た喜びは何とも嬉しい事だった。自分なりに送ってきた人生が社会人として過ごした時期、会社人として活きていた時期、そして今再び、社会人として第二の人生を送る事が出来る自分は幸せ者だと、実感している。児童、学生という時代の社会を巧く活きるという事は、続く会社時代を上手く過ごし、自ら高齢社会を迎えて美味く生きる事が出来るに繋がるのである。このエスカレーター人生がうまく作動していくには人間という生き物をじっくり考えたらいいのではないだろうか。私なり人間学に、乞うご期待!

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