脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

06.32.人間学の上にある医学

2006-03-19 07:15:23 | Weblog
 本当の医学は人間学だと思う。
 最近「白い巨塔」というテレビドラマがアメイジング・グレイスのテーマ音楽をバックにリバイバル化した。一般人にしてみれば、医学会での外科医は最高峰と言っても確かに過言ではない。心臓を、肝臓を、脳を、何十年も診てきた医者は確かにその知識と技術を高く評価されるのである。
 今、巷では在宅医療という言葉が右往左往している。リハビリで病院に毎日のように顔を出すと大勢の入院患者に出会う。彼等は異口同音、退院の日が近づくと誰もが嬉しそうに語る。住み慣れた家に帰るという事は誰にも好ましい事なのである。設備の整った、冷暖房が完全な素晴しい建物でも自宅に勝る場所は無いのだ。自宅が立派とは限らない、光熱費を考えながら電源を入れたり切ったりしても自宅がいいのだ。住み慣れた我が家には自らの歴史があるから・・・
 一つの病院で権威ある医者より色々転移してきた医者は様々違う患者に会う。色々な人に出会うという事は色々な人間関係に出会うという事である。
 人という字は・・・と始めるとテレビの金八先生を思い出す人は大勢いる筈だ。二画の人という字をじっと見詰めていると色々な事が考えつくものである。先ず一画が外れると二画目が倒れるのは明らかだが、最初に二画目が外れても一画目が落ちるのも確かな事である。では、という事で二画目に突っかえ棒を付けていくと崩れる事はなく、それをどんどん続けると網の目のようになっていくのである。人と人の間には細かい網が張り巡らされていくわけだ。
 漆塗師の姉の仕事場で極細の篩を見た事があるが、私には網ではなく繊細な布のように見えた。しかし、姉がその篩に粉を入れて揺らすと見えないような穴から細かい細かい粉が落ちる。そして、篩の中にはゴミとは思えないような細かいカスが残っていた。
 人も出会いが多ければ多いほど、人間の網の目が細かくなって不用な人はいないという事を実感するのではないだろうか。
 明治生まれの実父は入院1ヶ月後に病室で混沌とした状態で酸素呼吸器を付けたまま84歳の生涯を閉じた。入院前に、その父が「素晴しい人生だったよ」と私に語った事がせめてもの慰めとなったのは否めない。それより遥か以前に、90歳を超えていた慶応生まれの義祖母は自宅の畳の上で静かに息を引き取った。京都祇園の自宅は料理屋を兼ねた建物で、当日も義祖母縁の客人が来ていた。自らが出演する歴史劇の主たる舞台は自宅だという事である。
 このように考えると家族とかご近所さんという人間の網が張られた在宅医療は正に死計に入れる資格は充分にある。
 生まれてくるのは一生にたった一回だけ、勿論、死ぬのも一回だけ。ならば、悔いの残らないような逝き方をしたいと思うのは当たり前の事である。生まれてから、失敗は何度もやり直しが出来るが、死ぬのは正に一回限りでやり直しは出来ない。それは五体満足であろうと不満足であろうと、健康で便利な身体の持ち主でも障害者で不便な身体の持ち主でもみな同じなのである。僅か足掛け5年という短い障害者生活の経験者だが、私という本人が思うのだからこれは本当の話である。