脳のミステリー

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256.サクセスフルエイジング

2008-03-26 06:26:20 | Weblog
ひょんな事でお目にかかった老年学の柴田教授とは、た~まに接触がある。未だ未だ盛年期真っ盛りの教授には教壇では学際的老年学者の名が相応しい。
教授が掲げる言葉にサクセスフルエイジングというのがある。中々魅せられる表現だと思う。私らしく勝手に解釈するとサクセスフルエイジングというのは個々に様々、成功の時の時が夫々違うような気がする。
教授はサクセスフルエイジングに3つの項目を掲げている。先ず、長寿、これには疾病予防期間を含む生命の量を問題にしている。生命の量? 奇抜な言葉だと思うが教授と歓談する機会を持つ事が出来る幸せ者の私としてみれば、何となく理解できる。
寿命、疾病、余命と連ねると、確かにそれまで元気印の名を欲しいままにしてきた私としては少々気になるが未だ未だ高齢者予備軍を名乗りたいので、あえてスゥーッと通過したい言葉である。
次に教授の言う言葉は、QQL言わば生活の質である。これは人間、誰にとっても大切な言葉だと思う。QQL向上に夢中になると必然的に命の量は増える。豪州の親友が昨年の私のバースデープレゼントに記してきた言葉が蘇る。曰く・・・
Birthdays are good for you. The more you have, the longer you live.
より長く生きる人間が目指すQQLに続く言葉は「社会貢献」という事になる。
教授は「QQLと社会貢献を促進するには・・・」と繋げ、私は社会貢献と世代間問題を取り上げたくなるという訳だ。
教授に習ってQQLと社会貢献を同時に考えると、食と栄養、生涯体育(いい言葉だなあ!)、知的活動(好き好き!)それに生活環境とくるらしい。
社会貢献を、かの慶大商学部の中島教授の言葉に重ねると、有償労働と無償労働というのが脳裏に浮かぶ。つい最近、ある事を私だから出来る事をやってあげた時、私より年上の障害者に「お金貰うの~?」と怪訝な顔をされて、その人とはプッツリ縁を切った。有償と無償を決定するのは自分であって、他人ではないというのが私の持論である。何もかもが「タダ」ではやる気をなくす。すべて国とか公の世話になって、年金(障害者年金を含む)を貰って自分の能力を無償で、と思うと何もかもが嫌になってくるのは当然なのではないだろうか。自らを社会から抹殺したくなってしまう。
社会貢献には高齢者へのサポートと若い世代へのサポートがあると老年学教授は言うのである。高齢者の端くれに引っかかっている私は先輩たちへのサポートなんておこがましくってと思ってしまうが、それは私は未だ未だ教えて貰いたい事がいっぱいあるからだと思う。若い世代へのサポートは公私ともに私が張り切ってやりたくなる分野である。世代間の問題で重要なのはエイジズムと共生という事になると、教授は言う。
エイジズムageizumは人種差別racismに倣って造られた語である。強制退職とか居住家屋追い出しとか職場や家庭から高齢者を差別して排除する、所謂、老人差別を意味する。
共生は、元はと言えば19世紀半ばに造られた科学用語で長年共棲という漢字で表現してきた。Symbiosisのsymは共にという意味でbiosisは生きるという事である。その後かの建築家故黒川紀章氏が故椎尾元増上寺官長から教えられた「ともいき仏教」を発展させて使った社会学用語というのが「共生」である。共棲ではなく共生がクローズアップされ始めたのは1990年の「国際花と緑の博覧会」で「自然と人間との共生」をテーマにしたのが発端だというから科学→仏教→一般という流れは実に面白い。お得意の余談になるが、故椎尾増上寺官長の奥さまには幾度となくお目にかかっていたのはもう40年近く前になるが「私、蝶が大好きで網持って世界中飛び回って行っちゃうの!」と言って笑いを取っていたのを懐かしく思い出す。自然との共生をあの頃も夢見る人間はいっぱいいたのだ。
自らも老いと粋に生きる老年学教授の素敵な言葉「サクセスフルエイジング」を噛み締めて老年街道をまっしぐらに進んでみたい。不便の感じる右手に「障害」を我が物顔の左手に「生涯」を携えてバランスよく歩きたいものである。