撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

メキシコ「銀の道」の教会めぐり(2)

2017-03-02 00:48:49 | 海外生活

 ケレタロ (Queretaro) その2

6.サン・アントニオ教会 (San Antonio Map # ❸)

  市内で最も古い植民地時代の教会のひとつで、フレイ・ペドロ・サン・アントニオ率いる

  フランシスコ会の修道士達によって1613年に着工し、1629年に完成した。

  当初は貧困な下層階級の民衆を対象にして「はだしの修道院」と呼ばれていた。

  1867年からスペイン軍の兵舎として使われていたが、1878年に現在の形に改修され

  教会に戻った。

  

  

   

 質素な外観の作りに対応し、内部の祭壇もさほどの派手さはなく落ち着いた重厚感が漂う。

 

7.サン・フランシスコ教会 (San Francisco Map. # ❺)

  教会は1640年に創立され、市街地のちょうど真ん中付近に位置する。

  手前は現在、セネア公園(Jardin Zenea)になっているが、1550年には既に修道院がこの地に存在して

  いて、その広大な敷地の中の庭であった。

   

    

                                                正面入口

 

 主祭壇はネオクラシックのバロック様式で1809年に現在のように修復された。

   

 主祭壇からみた教会入口側

 

   コンチェロ(Conchero) のダンサー像と祭壇の丸天井ドーム、    そして尖塔

 

8.グアラルーペ修道院教会 (La Congregation de Gualalupe  Map # ❿)

  1680年に建立、二つの塔との間にメキシコの聖母グアラルーペの像を飾ってあるファーサードが特徴。

  

  

  

  

  

   白色を基調にした内部は聖母に相応しい清潔感が漂う。 祭壇中央に飾られているグアダルーペ

   の画像は1778年に描かれたものである。

 

<聖母グアダルーペの雑学>

  カトリック教では聖母のことを「神の母(スペイン)」「神を生みし者(東方教会」「イエスキリストの母

 (西方教会)」と崇められています。 彼女の事をどう呼んでいるかと言うと、

    ・「Holy Mother」.... 聖母    ・「The virgin Mary」....処女マリア 

    ・「Saint Mary」....聖女マリア  ・「Our Lady」....我らが貴婦人(特にフランス)のようです。

  メキシコでも、聖母は民族の象徴になっており、メキシコ独立革命の指導者ミゲル・イダルゴの蜂起の宣言

 (ドロレスの叫び)では「聖母万歳!」と唱えられています。

  又、メキシコ革命の指導者であったエミリアーノ・サバタの軍隊は聖母の徽章を帽子に付けていました。 

  メキシコ人の多くは、グアダルーペの聖母とキリスト教が入る以前のアステカの女神トナンツィン(Tonantzin)

  とダブらせているのではと言う人もいる。 何故ならば、グアダルーペは自分達と同じ肌の色だと信じられて

  いるし、12月12日は聖母グアダルーペの日として、全国的な休日となっている。 そして誰もが、

    ・「Nuestra senyora de Guadalupe」or 「Our lady of Guadalupe」...我々の貴婦人と叫びます。

 

9.サンティアゴ主教区教会 (Parroquia de Santiago  Map #なし、❿の筋向かい)

  1680年にイエズス会の僧侶達によって創立され、この地域(Santiago)の教区教会の元締め的な教会。

        柱の建築デザインが、サンタ・

                                        ロサ教会に似ているような。

       

        祭壇

        聖歌隊席(教会入口側)

 

10.サンタ・クルス修道院 (Santa Cruz  Map # ⓭)

   この教会の起源には、有名な伝説がある。 1531年にケレタロに攻め込んで来たスペイン軍と

  アステカ王国のオートミ族の連合軍を迎え撃っていたのが先住民のパメ族で、戦いの最中に日食が

  起こり、辺りが暗くなって、空に十字架が浮かび上がった。 それを見たパメ族は戦いを中止し、

  カトリックに改宗した。 その戦場跡に建てられたのがこの教会だという。

   

   

           尖塔の横にある銅像は両者の友情と団結を表わしたものである。

 

    主祭壇

    ステンドグラスも素晴らしい。

    主祭壇側から見た聖歌隊席

   

   撮影したこの日は、12月25日、クリスマスで特別に飾られたベツレヘムに朝日が

   差し込む(御光では?)

 

<ハンガリーの為の歴史雑学>

  時は1867年2月、ナポレオン3世の命によりメキシコ皇帝として送り込まれたマクシミリアンは

 メキシコ軍との戦いで苦戦をしいられ、この地ケレタロに撤退してきたのであった。

 彼はハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨゼフ1世の弟である。

 結局、戦いに敗れ、処刑前に幽閉されたのが、このサンタ・クルス修道院であった。

 彼が処刑されたのは、ケレタロ市の西側にあるセロ・デ・カルパスの丘(俗称:鐘が鳴る丘)で

 享年35歳(1867年6月没)の若い生涯を異国の地で閉じた。

 

最後に、教会巡りとは言え、ケレタロを語るにスキップしてはいけないスポットが、サンタ・クルス

修道院脇にある展望台から眺める石造りの水道橋である。

 

 

           

                  ラ・カナダ (La Canada) 渓谷の泉からケレタロ市の水を供給する為に、

                 1726年~1738年に築かれた。    全長 1,280 m,  平均高さ 23 m,  幅 20m

 

    これで、「ケレタロ(メキシコ)の教会その2)はお終い。

 

 

 「バラトン遍路の旅」