「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”ウソつきは泥棒のはじまり” 36人が集団万引きしていた学校

2015-03-11 05:28:46 | Weblog
横浜にあるキリスト教系大学の付属高校の1年生36人が市内のスーパーなどで集団万引きしていた。異常な事態だが、これを発表した学校側の措置は”登校謹慎”、つまり、通学を許しながら生活指導するというもの。これを受けて店側も被害届を出さないことで一件落着したという。学校側は”二度とこういうことが起きないよう教職員一同指導に当たる”というコメントを発表した。

この大学はかってはラグビーの強豪校として知られ1997年から2006年まで大学選手権に出場、6回も優勝しているが、部員の大麻吸引が発覚して対外試合禁止となり、今は2部校に低迷している。大麻事件の時も”二度とこういうことは....."という常套句で謝罪をしていた。どこか学校側のタガがゆるんでいるとしか思えない。

この大学の教授の一人に”従軍慰安婦”問題について、ありもしない”事実”を韓国の新聞に発表している人物がいる。戦時中インドネシアのバリ島へ旧海軍が慰安婦200人を連行したとか。旧仏印(ベトナム)で旧陸軍が中国人に売春させたとかー。戦前、売春制度のあった時代には、当たり前の話を捻じ曲げて、あたかも”性奴隷”かあったかのように、韓国の新聞に”公表”している。

この教授はマレーシアでも、単なる戦闘行為を”虐殺”にして朝日新聞に売り込み、日本の兵隊が赤ん坊を宙に投げ、これを軍刀で斬る、というおよそありえない話を英語の教科書に採用するよう教科書会社に働きかけたことがる。朝日新聞が”謝罪”して以来は、今度は直接外国に”ウソ”を流している。キリスト教の十戒には”汝盗むなかれ”とあり、わが国の俗諺には”ウソつきは泥棒のはじまり”といのもある。

東京大空襲と”トンガリ帽子の赤い屋根”

2015-03-10 06:30:03 | Weblog
毎年3月10日が来るとあの東京下町大空襲の夜を想い出す。当時五反田(品川区)に住んでおり被害には会わなかったが、70年経った今でもあの夜の事は鮮明な記憶にある。9日午後11時過ぎに発令された空襲警報はいつまでたっても解除されず、やっと10日午前3時5分解除され外に出ると、東北の空が真っ赤に染まっている。風の強い寒い夜だった。相当な被害が出たとは思っていたが、まさか10万人もの犠牲者がでるとは考えも及ばなかった。

産経新聞の「大空襲70年」という連載記事によると、全国各地の空襲で、両親や家族を失った”戦災孤児”が12万3511人いたとという。改めて戦争の残酷さを痛感させられたが、このうち引き取り手もなく、長い間、街をさまよって生活していた子供が7117人もいた(昭和23年厚生省調査)と知り、あの過酷な時代を思い起こされた。20年6月、僕は江戸川運河の浚渫工事に勤労動員され、集合場所の上野の山に行く途中、駅の地下街には確かに真っ黒な顔をした”戦災孤児”が大勢たむろしていた。

まだ戦災の焼跡が残る昭和22年、NHKラジオの連続ドラマ「鐘の鳴る丘」が人気を呼んだ。復員してきた主人公が”戦災孤児”と一緒に信州の山里の施設で元気に共同生活を送るドラマは ”緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台”で始まる主題歌とともに当時の少年たち間で大人気であった。しかし、現実は昭和30年大ヒットした宮城まり子が歌う「ガード裏の靴磨き」のように”おいら貧しき靴磨き、夜になっても帰れない”戦災孤児”がまだいた。社会福祉が充実していなかった時代である。戦争はいかに悲惨なものかを物語っている。

”モスリンの郷”モスルの文化遺産を破壊するISの蛮行

2015-03-09 05:43:10 | Weblog
「イスラム国」(IS)がイラク北部の町モスル近くにある2000年前の世界遺産ハトラの都市遺構を破壊し始めたという。ISはすでにモスル博物館にある古代の石像をハンマーや電気ドリルで壊している。彼らは7世紀前後のイスラム創生期の文明以外は認めず、偶像崇拝禁止のイスラムの誤った原理に従って、この擧に出ているらしい。

モスルの名前を聞いて、僕は半世紀以上前、新聞社の新年企画”アラビアン.ナイトは生きてる”という連載を書く時読んだ「千夜一夜物語」の中の”モスルのイアサク”を想い出した。内容はすっかり忘れてしまったが、たしかイアサクというモスルから来た商人が色々珍しい話をお姫様にする話ではなかっただろうか。その時、僕はモスルが、日本で”モスリン”と呼ばれている布地の産地の語源であるのを知った。モスルは昔、砂漠を行く隊商宿だったらしく、ここで出来た布地が遠く日本にまで伝わってきた。

日本にも明治維新の前後に”廃仏毀釈”運動があって、全国の仏教の寺が壊されたり仏像が破壊された。奈良の興福寺にあった食堂や千葉の鋸山の五百羅漢の仏像などは、この時破壊された。”廃仏毀釈”は仏教を廃し釈迦に反対するという意味だが、本来は神仏習合を廃止して分離しようという運動だったらしいが、これが誤って解釈されたようだ。

モスルは世界三大文明発祥の地、チグリス.ユーフラテス地域にあり、その歴史は日本の比ではない。2000年、3000年の悠久の歴史の中で残存してきた歴史遺産が、偏見ともいえる宗教観からこのように破壊されるのは見るに耐えない。世界人類共通の財産である。ユネスコは世界各国に呼びかけて即時ISの行動をスットプさせなければならない。

強制連行をいまだに発信している「アジア女性基金」

2015-03-08 05:50:14 | Weblog
昨日僕はいわゆる”従軍慰安婦”の虚妄についてサイトなどを通じて、史実を世界に発信している会の事務局長、茂木弘道氏の講演会を聞きに行った。千葉県船橋市の会場は入りきれないほどの人で一杯、いかにこの問題の関心が強いかを物語っていた。茂木氏らは日本語サイト(http://hasssin.org/)と英語サイト(http://www.sdh-fact.com/)のほか英語の冊子を発行、韓国のいう”従軍慰安婦””性奴隷”が如何に虚妄にみているかを発進続けている。

僕はこの運動に共感している。幸い日本国内では昨年の朝日新聞の誤報謝罪から、軍による慰安婦強制連行を信じる者はいなくなったが、残念ながら世界的にはまだ国連をはじめ欧米では、日本軍が戦争中20万人もの韓国女性を連行し、”性奴隷”にしたといった話が横行している。朝日新聞が誤報を訂正したらといって、すぐに”はい、そうですか”という声にはならない。本来は日本政府が、これを取り消す声明を出すべきなのだがー。

ところが逆なのである。この問題の”元凶”ともいえる村山富市元首相が作った「アジアのため女性基金」のサイト「レジタル博物館」には、基金が解散したにも関わらず、基金の歴史考証委員の一人であった、倉沢愛子元慶応教授のインドネシアでの慰安婦強行連行が依然として流れている、しかも日本語のほかハングルと英語である。

インターネット上に「慰安婦問題の基礎知識Q&A」という、ある地方の私立大学の女性教授のサイトがあるが、これには”日本政府と政府に協力した「女性基金」に基づくものだ”と断り書きがしてあり、この中で倉沢教授の強制連行の話を引用している。日本の大学の教授でさえ、これなのだから、外国人が読めば、慰安婦の強制連行はあったと信じるのは当然だ。解散したのに、こんなインチキな話を依然、流す必要はない。このサイトには村山富市の署名がある。村山元総理は、せめての”罪滅ぼし”である。今すぐに、これを撤去すべきである。

(倉沢教授は戦争中スマとラ.ブキティンギにあった旧日本軍司令部で防空壕建設の際、現地人労務者を虐殺したという百パーセントウソの話を自著に書いた人物、1996年には名古屋の民放番組のコーディネ―ター役として,インドネシアの慰安婦番組制作に協力、あたかも日本軍による強制連行があったかのような番組を作っている)

オランダ350年の植民地終焉の地、カリジャティを知らない日本人

2015-03-07 06:00:52 | Weblog
カリジャテイ(Kalijati)といっても大方の日本人は知らないかもしれない。カリジャティはインドネシアの西ジャワ州サバン県にある小さな町だが、73年前の1942年(昭和17年)3月9日、オランダの東印度軍が、上陸してきた日本軍の全面攻撃に会い、僅か10日足らずの戦闘で敗北、降伏式が行われた地である。インドネシア人は学校の歴史でこれを学び、和蘭350年の植民地終焉地として皆知っている。

1942年3月1日、ジャワ島の3か所の知から上陸した今村均将軍率いる第16軍は、東印度軍の激しい抵抗に会ったが、僅か4日で首都バタヴィア(ジャカルタ)を占領した。この結果、オランダの植民地政府、東印度のチャルダ提督とテル.ボール総司令官は、降伏を申し入れ、空軍基地のあったカリジャテイで、9日今村司令官との間で調印式が行われた。この調印式の建物は今「歴史の間」(Rumah Sejara)という名の博物館として残っている。

カリジャティは今もインドネシアの空軍基地として使われているが、その敷地内に73年前の戦闘で戦死した旧日本兵の記念碑があり、インドネシア空軍が管理してくれている。数年前までは、戦争中この地にいた陸軍航空隊のOB会「カリジャティ」会が毎年8月15日に訪れ参拝していた。しかし、今は会員の高齢化で訪問できなくなっている。「カリジャテイ」会としては在ジャカルタ日本大使館に、年に一度、代わって墓参してくれと申し入れていたそうだが、実現したかどうか。

空軍管理内にあるので、手続上、墓参が難しいことは解るが、ジャカルタから百数十キロ、2時間あれば行ける距離である。管理してくれているインドネシア側への感謝をこめて、大使館がダメなら、日本人会が変って、年に一回ぐらいは墓参して貰いたいものである。

NHKは何故「軍歌」を放送しないのか

2015-03-06 06:20:05 | Weblog
NHKは「軍歌」の取り扱いにについて何か特別な放送基準があるのだろうか。昨日の早朝のラジオ「深夜便」の”日本の歌心の歌」コーナーで作詞家佐伯孝夫の特集があるというので楽しみにしていたが、彼の戦時中の名曲「ラバウル航空隊」が流れてこない。変って「明日はお発ちか」放送された。二つの歌とも、戦時中少年時代を送った僕には懐かしかったが、どちらかといえば「ラバウル航空隊」の方が当時ヒットした作品ではなかっただろうか。

「深夜便」は放送開始25年だそうで、先日東京でファンの集いがあって盛況だった。僕もそのファンで、特に午前3時代の「日本の歌心の歌」を楽しみにしているが「軍歌」が放送されたことがない。戦時中を生きてきた世代にとっては、毎日のようにラジオから流れてくる「軍歌」は、数少ない娯楽のようなものであった。今からみれば、軍国主義を煽動した”悪物”かもしれないが、当時はそうではなかった。

”歌は世につれ、世は歌につれ”と俗にいうが、確かにそうである。佐伯孝夫の作品を改めて調べてみる、日支事変前の「こんがらがっちゃ嫌よ」(昭和11年)は、戦争前の退廃的な空気を反映しているし「森の小径」(15年)「燦めく星座」(15年)は戦時中とはいえ、大東亜戦争前の歌である。大東亜戦争期の歌は「明日はお発ちか」(17年)「ラバウル航空隊」(19年)が代表作だ。そして戦後は、がらっと変わって「東京の空の下」(23年)「東京のカンカン娘」(24年)である。

視聴者としては、佐伯孝夫の作品を通じて、その時代時代の自分の生きてきた道を振り返ってみたくなる。「明日はお発か」を久しぶりに聞いて僕は嬉しかった。多分「明日はお発か」は”勇ましくない”「軍歌」なので放送されたのかもしれない。同じ内容でも、”わが大君に召されたる”で始まる「出征兵士の歌」(生田大三郎作詞)は金輪際、NHKの電波に乗ることはなく、忘れられていく運命にある。

忘れられた「3月4日」のわが街の空襲

2015-03-05 06:36:05 | Weblog
70年前の昭和20年3月4日の日曜日、集団学童疎開で地方に疎開していた東京の6年生は、中等学校(旧制中学校、高等女学校)受験のため帰京したが、まるでこれに合わせるかのように、早朝、B-29爆撃機の編隊が飛来し谷根千(谷中、根岸、千駄木)地域を中心に爆弾や焼夷弾を投下した。それから6日後の3月10日の下町大空襲が10万人もの大犠牲者をだす惨事だったためか、この「谷根千」空襲は都民の記憶に薄い。

この「谷根千」空襲と同じ朝、今、僕が住む目黒区柿の木坂の江戸時代からあった末広稲荷が爆弾で破壊され、たまたま甲府の学童疎開先から家族の許に帰ったばかりの近くの6年生の女性徒も直撃弾を受けなくなっている。この空襲については、近くに住んでいた警視庁カメラマンの石川光陽氏の写真も残っているが、末広稲荷境内の掲示板には”3月の空襲で焼けた”とあるだけで日時の記載はない。目黒区の区内の空襲をを記録するHPにも書いてない。

昭和19年11月から始まった米軍による東京空襲は敗戦の20年8月15日まで、ほとんど毎日のように続き、僕も5月23日の空襲で自宅近くに落ちてきた焼夷弾の破片を”火たたき”で消火したことがあるが、当時空襲の実態や被害については公表がなく新聞も伝えていない。だから、70年経った今では、体験者も年々すくなくなり、風化し始めてきている。わが家の近くの繁華街、自由が丘の空襲を伝えるHPには、3月10日の空襲で駅前が焼けたと記載されているが、僕の記憶では5月23日の空襲である。しかし、どちらが正しいかは断定できなくなってきた。

戦前 戦中 戦後 バナナの想い出

2015-03-04 05:47:32 | Weblog
タマゴと共に物価の優等生と言われたバナナが、このところの円高のせいか値上がりしている。散歩がてらに行く近くのミニ.スーパーでは一房百円は百円だが、小さな房が僅か三本だ。健康食として毎日ヨーグルドと一緒に食べている僕にとっては、値上がりは痛い。

バナナぐらい、その時々の想い出のある食品は少ない。初めての想い出は戦前昭和の頃、家の近くの駅前通りに出ていた夜店のバナナのたたき売りだ。戦前バナナは”おなかに悪い"という理由から、子供には買ってくれなかったが、ねじり鉢巻きカラクリ紋の男の啖呵(たんか)が子供心に面白く想い出深い。

戦時中、東京の駄菓子屋からは菓子類はいっさい店先から消えたが、何故か真っ黒の乾燥バナナとニッキだけが売っていた。多分、台湾か新しく占領した南方から加工して運んできたものだろうが、あまりおいしくなく子供には人気はなかった。しかし、どういうわけか、映画「轟沈」の主題歌が頭に残っている。
             轟沈(作詞 米山忠男 作曲 江口夜詩 昭和19年)
           ♯ 可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナが黄色く熟れて
             男所帯は気ままなものよ 髭(ひげ)もはえます 無精髭

戦後バナナが安く庶民でも買えるようになったのは昭和30年代になってからだった。31年生まれの長女の誕生日祝いにバナナケーキを買って帰宅したのを想い出す。ペコちゃん人形が大人気の頃、ケーキなどなかなか手に入らなかった時代だ。今は何でもある時代だが、バナナはやはり庶民の果物。80老にとっては想い出と共に最大に好物だ。

昭和16年のバタヴィア(ジャカルタ)の動画と当時の日本

2015-03-03 05:40:07 | Weblog
先日小ブログでジャカルタの交通渋滞について書いたところ、コメンテーターの「朱雀」さんから戦前蘭印時代(昭和16年)の珍しい動画(Duch EastIndia in HD color)あると紹介された。大東亜戦争が始まる直前のバタヴィア(ジャカルタ)とバンドンの町風景や人々の生活をかなり長尺にわたってカラーで撮影している貴重なものだ。

動画の中には1862年、幕末期に川幕府が「和蘭行御軍方」として派遣した榎本武楊ら一行が約1週間滞在していたバタヴィアの「ホテル.デス.インディス」もある。一行がバンカ島沖で座礁し、他船に乗り換えるための間、宿泊していたものだ。また、蘭印時代最古の建物と言われた「ハルモニー」(東印度会社のクラブハウス)もある。これらの歴史遺産物は、残念ながらスハルト(第二代大統領)の”開発”政策よってすべて、取り壊されてしまった。

動画からは、当時の蘭印の一見、平和な豊かな市民の生活が垣間見られる。モダンな乗用車に混じってドッカル(馬車)やベチャ(三輪車)が今は撤去してなくなった路面電車と並行して走っている。パッサール(市場)にはうづ高く、南の果物が積まれ。子供たちが露店でおいしそうに飲食している。バンドン郊外では水牛を使って農夫たちが、ゆっくりと田を耕している。

当時の日本はどうだったかー。亡父の昭和16年の日記の後記には”聖戦すでに4年。さすがに国内物資が欠乏してきた。肉がなく魚もない。野菜がなくむろん菓子など滅多に手にはいらない。どれもこれも配給で、行列しなければ手に入らない”時代になっていた。街行く自動車は、蘭印からの禁油にあい、ガソリン不足から木炭車が走っていた。

マレー作戦の勝利と藤原(F)機関の諜報活動

2015-03-02 05:40:20 | Weblog
大東亜戦争緒戦のマレー作戦の日本の勝利は、完璧な諜報活動がもたらしたものと英国側が分析していることが英国国立公文館所蔵の秘密文書の中にあることが判明した(産経新聞3月Ⅰ日付け首都圏版1面、3面)。「イスラム国」(IS)問題で、わが国の諜報(inteligence)活動のあり方が問われている時だけに、70数年前のマレー作戦の際の日本の諜報活動が、どのようなものであったかを知るのは参考になる。

マレー作戦の諜報活動の主役は、陸軍中野学校の教官であった藤原岩市少佐(当時)率いる藤原機関であった。藤原機関は、藤原のFとFriendoshipのF,それにFreedomのFをとって、現地では(F)機関とも言われていた。たまたまであるが、僕は今年4月出版する新書「大東亜戦争とマレー昭南(シンガポール)ボルネオ(英領)虐殺の真相」(朱鳥社 ☎03-5358-3984 FAX03-5358-3986)の中で、藤原機関と当時の日本の諜報活動について詳述している。どうぞ参考にして下さい。

藤原機関は開戦前からタイのバンコクに活動の拠点を起き、開戦X日を想定して入念な準備をしていた。その主目的は「マレー英印軍内のインド兵の戦意破砕、投降と離反を促し、マレー在住70万人の反英独立運動を起こす」(「陸軍中野学校」)であったが、同時にマレー国内の地勢、住民の習慣、文化などを在留日本人ネットワークを通じて調べ上げていた。これらの情報は、上陸作戦の際「これだけ読めば戦争に勝てる」(辻政信参謀編)という冊子にして全軍兵士に配られた。

戦後昭和30年代、アニメや漫画で有名になった「怪傑ハリマオー」は、戦前からマレーに在住していた、当時理髪店の息だった谷豊を藤原機関が利用し戦闘を勝利に導いた話である。今、ハリマオーの事は日本人の間では忘れかけられているが、現地ではサルタンの墓地内にきちんと丁重に葬られているとのことだ。