「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         戦争に負けた最初の日曜日

2008-08-19 05:06:43 | Weblog
戦争に負けた最初の日曜日の亡父の日記である。
昭和20年8月19日(日)晴
「戦争終了後最初の公休日である。外見的には未だ世相に変化はないが、自分の気
分には相当遷った(かわった)ものがある。即ち防空頭巾と巻ゲートルは廃止した。
防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。よく気をつけると、街頭人の服装
も国防色が次第にへりつつある。只(ただ)困るのは無智都民のつまらぬデマ流布で
ある。六時起床日課朝食。けふ(きょう)は床屋も湯屋も休みなので終日在宅して戦局
終結に関する記録を整理したほかは何もせず。
聖上陛下には、この日、東久邇首相宮を召され、灯火管制を解き街を明るく、娯楽を復
興せよ。文書の検閲を明朗にせよとの御言葉を賜った由。政府は臨時閣議を開き直ち
に実施を決定した」(注 湯屋は銭湯,お風呂屋)

亡父は明治17年生れ、当時63歳であった。敗戦僅か4日後の日記だが、都民が早くも
国防色(カーキ色)離れを始めているのが興味深い。僕も覚えているが、戦争末期には
いつ空襲があるかわからず、都民はゲートルをつけたまま真っ暗の中で就寝していた。
亡父の前日(18日)の日記の欄外には、赤字で警戒警報発令午前10時40分、同解除
11時20分とあるところをみると”戦後”でも一応臨戦体制にあったのだ

僕は中学3年だったが、動員先の工場を解除され家でブラブラしていた。学校が再開され、
焼跡の校舎で授業が始まったのは27日からである。家の庭の防空壕が壊されて、狭い
庭がやっと広く見えるようになったのは、30日であった。

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4 コメント

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終戦記念日 (ji-hyeon)
2008-08-19 10:00:17
終戦記念日は親戚一同あつまり実家の庭でBBQです、10ℓと19ℓの生ビールと数本の日本酒、5Kgの肉類がなくなりました。私が高校生の頃は戦争を体験した方が終戦の日の事を
話してくださったりしました。
B29が煙草畑にドラム缶を落としていった話や疎開で来ていた子の話、こうやって楽しくBBQをすることのできる幸せなど。
ふっと思い出しました。
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語り継ぎ (kakek)
2008-08-19 14:16:34
ji-hyeon さん
戦争のむごたらしさ、無意味さどんな形にせよ次の世代へ語りついで行きたいですね。戦争体験は”温度差”があって比較的、わが家は”低かった”のですが、それでも犠牲者が出ています。生きているかぎり体験者として語りつぐのが義務です。
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興味深いです (chobimame)
2008-08-20 16:24:55
当時の空気を感じられる日記ですねぇ。
会社などは、通常に勤務出来ていたのでしょうか?
公休日をみなどういう感じで過ごしたのでしょうか?
今日で戦争は終わりと言われても、俄かに信じがたい気もしますが、
国防色から離れるという現象を見ると、人は環境に順応し易いのかもしれませんね。
それに戦争が終わったのに、いつまでも付けていたくないという気持ちもありますよね。
63年前の今頃は、色々な人が目まぐるしい時を過ごしていたのですね。
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切り替え (kakek)
2008-08-20 17:49:37
chobimame さん
やはり庶民は国防色にうんざりしていたのでしょう。多分、女性もモンペから普通の服装へも早かったのでしょう。当時は産業といっても軍事産業だけ。敗戦と同時に生産は当然ストップ。父は定年後の嘱託的仕事だったこともあり、8月22日に退職しています。当時の日記をみると母が週に2回ぐらい元住吉の農家に野菜を買い出しに出かけ、夜は配給の玄米を一升瓶に詰め、棒で突いて"脱穀"していました。毎日のように停電でラジオが聞けず、新聞はタブロイド版1ページで宅配ではありませんでした。そんな訳で変なデマが飛び交っていました。
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