「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

碑文谷公園事件 88歳米寿の女の一生

2016-07-01 05:45:58 | 2012・1・1
碑文谷公園で遺体で発見された88歳の女性のマンションが、数年前まで僕が自転車で歯科医に通院していた頃よく通った環七道路の駒沢陸橋交差点の近くなのを知って驚いた。碑文谷公園も女性のマンションも、方向は違うが、わが家から直線距離にすれば、1000mぐらいで、同じ生活圏内で起きた事件である。それだけに関心が深い。

もう一つ、僕ら僕ら老夫婦の関心事は、ほぼ同年齢の女性の一生である。88歳といえば戦争に振り回された世代である。昭和3年(1928年)生まれで、12年、日支事変が起きた時には小学校3年。16年大東亜戦争勃発時は高等女学校1年生であった。当時高等女学校は5年制であったが、3年生時から勤労動員され、20年には1年繰り上げられ4年で卒業している。同世代の岡野薫子さの書いた「太平洋戦争下の学校生活」(新潮社 1990年)によれば”節目節目に戦争が重なって明日の生命も知れない毎日”であった。

戦後もこの世代は。結婚相手世代の男性が戦争で亡くなり、結婚難であった。それに、戦後の苦しい生活の中で、おしゃれも出来ずグルメも楽しめなかった。犠牲になった女性は、御主人のなくなった後、マンションで一人ずまいして、フラダンスや英会話などの習い事を楽しんんでおられたという。彼女の一生にとっては最高な時であっただろう。その幸せをこのような方法で奪い去るとは許せない。一時も早く事件が解決されるのを望んでいる。
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都知事選び 自民党都議連の迷走

2016-06-30 06:11:35 | 2012・1・1
辞任した舛添都知事の後釜候補選びが与野党と難航しているようだが、昨日自民党の小池百合子防衛相が”自民党議員”として立候補を表明した。これに対して、自民党都連会長の石原伸晃経済再生担当相は、桜井俊前総務次官に出馬を打診しているが、桜井氏は固く固辞しているそうだ。小池氏は東京10区選出の議員。身内に立候補したい人物がいるのに、都議蓮はあらかじめ調整出来なかったのであろうか。

小池氏の立候補表明に先立って、石原会長は小池氏に真偽を確かめるため電話をしたら、小池氏は電話に出なかったという。僕ら政治に素人から見れば、国政にも関係のある重要な東京都知事の候補者選びである。時間をかけても確認し、調整を図るべきではなかったのではないだろか。小池氏は党本部や都議蓮の正式な推薦を受けていないようだ。

小池氏の立候補は、自民党内部の分裂を明らかにしたようなものだ。小池氏は立候補に当たって”崖から飛び降りる覚悟”を表明している。”崖から飛び降りる”とは重大決意をした意味だろうが、僕の手元にある辞書辞典にはない。意味は理解できないではないが、崖から飛び降りたら、元の子もないのではないだろうか。

小池氏の立候補は与党にとっては逆風である。自民党内の内部分裂があからさまになった中で勝利出来るわけはない。どうも自民党都議蓮は、会長の指導力の不足なのか、迷走しているみたいだ。小池氏は大局をみて、すぐにでも立候補を取りやめるべきだ。
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血糖値とオートミルの効用

2016-06-29 05:05:24 | 2012・1・1
月に一回、近くの”ホーム.ドクター”に血圧と血糖値を測定して貰っている。血圧はここ数年正常値だが、血糖値(HbA1c)は高目で7%をこえ、5月は7.7%まで上がったが、昨日は7.4%まで下がった。8%を越えたら投薬を考えましょうと医師から言われていただけに一安心した。

血糖値のダウンについて、医師から”何か生活習慣に変化があったか”尋ねられたが、特に思い当たることはないが、便秘の解消に最近、オートミルを朝食時に牛乳で粥(かゆ)状にして食べていると答えた。医師はその効果ではないかと答えた・オートミルは、燕麦(燕麦)を脱穀して調理しやすくしたもので、最近はスーパーでも売られており、そんなに高価なものではない。ウィキペディアによると、昭和天皇が愛用していたそうで、敗戦の日の朝食もオートミルだったとのこと。

便秘に悩む同病の老妻がテレビ番組を見て始めたものだが、医師によれば血糖値のダウンにも効用があるとのこと。あまりサプルメントには依存しない老夫婦だが、同じテレビ番組お勧めの塩ラッキョウ漬けも一緒に食べているが調子は好さそうである。ただ塩ラッキョウが血糖値のダウンに関係があるかどかは医師に聞き忘れた。

老人になると、一度ついた生活習慣は身体に悪いと知りながら抜け切れない。しかし、健康寿命を延ばしたいなら、思い切って身体に悪い習慣は止めるべきだ、ということを、この齢になって知った。
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英国のEU離脱と団塊世代

2016-06-28 05:43:58 | 2012・1・1
英国のEUからの離脱の背景の一つとして世代間の問題があったようだ。BBCの調査によると、65歳以上の世代の60%が離脱に賛成しており、逆に18-24歳の若い世代は73%と圧倒的に残留に賛成で、離脱に賛成は僅か27%にすぎなかった。これに関連してワシントン.ポストの投稿サイトに”戦後のベビーブーム世代の判断ミスにとって国際的な金融危機がもたらされた”という記事があった。ベビ―ブーム世代は日本流にいえば、団塊世代、戦後の安保闘争を体験した全共闘世代である。

折りから日本では参院選挙である。論争の一つは憲法改正であり、民進、共産、社民、生活の野党4党は、憲法改正発議に必要な議席を阻止しようと訴えているが、今一つ盛り上がらない。自民。公明2党も何故か積極的に、憲法改正をを論戦にはしたくないように見受けられる。論戦にしなくとも、三分の二の改正発議に必要な議席を得る自信があるからであろうか。

衆参両院で憲法改正が可決されると、憲法に基づく「国民投票法」によって国民投票が実施され過半数を得ると初めて憲法は改正される。戦後70年、現状に即さなくなってきた憲法は改正すべきだと、僕は思っている。国民投票でも改憲の過半数は取られると思っていた。しかし、昨年来の「憲法学者」を初めとする、全共闘世代の国会前デモをみると、今回の英国のような事態が起きる可能性がないとは限らない。団塊の世代は洋の東西を問わず、”トラブル.メーカー”みたいなようである。
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碑文谷公園と大東亜共栄圏留学生

2016-06-27 05:03:52 | 2012・1・1
死体遺棄事件で碑文谷公園の名前がマスコミを賑わせている。わが家からは直線距離にすれば1キロ足らずの所にある。僕は昭和20年3月、今の住まいに引っ越してきているので、子供も孫も幼い時、何回もここに遊びに連れて来ている。それだけに、こんな凶悪な事件が発生するとは信じられないし不安である。

戦前から碑文谷公園は、東京の城南地区の子供たちにとっては、今はなくなってしまった九品仏の池と共にボート乗り場として知られていたが、とくに夏休み中は、公園の近くにあった日大プールが一般にも開放されていたこともあって、泳ぎ帰りの子供たちで大賑わしたものであった。公園の横には戦後世界卓球選手権大会で優勝した萩村伊智朗選手(故人)の練習場もあった。

戦争中、碑文谷公園の近くに大東亜共栄圏から来日した「南方特別留学生」の寮があったことはあまり知られていない。「東南アジアの弟たち」(上遠野寛子著 暁印書館 2003年)によると、フィリッピンから17人、マレー.スマトラから15人の若者たちが「本郷寮」(目黒区本郷町、現在の碑文谷5丁目)に寄宿して、中目黒の国際学友会(今の目黒区役所で戦前はアメリカンスクール)に日本語を学びに通学していた。

「東南アジアの弟たち」の著者、上遠野寛子さんは当時、留学生の面倒を見いた方だが、本の中で当時の碑文谷公園についても触れている。公園の周辺は、すっかり様変わりしてしまったが、公園は昔のままである。また昔のような静かなたたずまいに戻って欲しいものである。
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親族介護殺人と国の老人福祉政策

2016-06-26 05:51:04 | 2012・1・1
埼玉県坂戸市で87歳の夫が介護疲れから85歳の妻の顔と鼻をふさいで窒息死させた。妻は足腰が弱く10年来、寝たきり状態で4月まで介護施設に入居していたが、つかまり立ちが出来るように回復したので帰宅したばかりだったという。老夫婦の住まいと同じ敷地内には長男夫妻も住んでおり、夫は日常、孫の面倒も見たりしていた、普通のお爺さんだったという。同じ埼玉県の深谷市では昨年、やはり介護に困った父親に同情した娘が病気の母親と三人、利根川で心中を図り、両親を殺したカドで心中幇助で最近、懲役4年の刑を言い渡された。同じ年代の老人として、事前に何とかならなかったのか、やりきれない気持ちだ。

僕ら夫婦が住む東京の区役所から「介護保険高額介護サービス費算定基準変更のお知らせ」という分厚い封書が届いた。馬齢と共に理解力が弱くなってきた二人だが、苦労して読んでみると、お前の家は住民税課税世帯で、”現役並みの収入があるから、高額介護サービス費を44,400円(忌み嫌う数字という人もいる)を支払えという通知である。ただそれだけの事なのに、個人秘密がどうだとか、判定基準がどうだとか、くどくど説明したあと書類を提出しろ、というのである。

親族の介護をめぐって不幸な事件が起きるたびに地元の役所は何をしていたのかと問題になる。想定外の超高齢化社会の到来で、役所がその対応についていけないのだろうか。しかし、一方では、旧態依然とした”お役所”仕事がめだつ。一例だが。地域の”包括センター”である。高齢者の介護福祉を扱う窓口なら、何故もっと素直に”お年寄り相談所”と名前を変え、親身になってお年寄りの面倒がみれないだろうか。
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EUからの離脱 「英国病」の蔓延を懸念

2016-06-25 05:23:27 | 2012・1・1
国民投票による英国民のEUからの離脱決定は、世界経済に大きな影響を与えている。経済にうとい僕だが、昨日のロンドン為替市場でで1ポンドが130円台に下落したのを知り驚いた。半世紀以上前になるが1962年(昭和37年)秋、初めてロンドンンを訪れた時には、為替はまだ固定相場制で1ポンド1008円もした。当時に比べれば、80%近い下落である。

1960年代、すでに英国は”英国病”に罹っていた。急速な社会保障制度の実施や国営化政策の失敗から英国経済は失速していた。当時、まだロンドン市内には超高層なビルはなく、山高帽にステッキ姿もも散見出来た時代だったが、旅行者の目にも”英国病”は感じとられた。殖民地時代、七つの海に君臨した大英帝国の面影はなかった。

1992年12月 、観光でロンドンを訪れた時も”ポンド危機”の直後であった。9月にポンドが急暴落し、EMR(欧州為替相場メカニズム)から脱退、大混乱していていた時期であった。こうみてくると、英国は、慢性的に経済危機に見舞われている感じだ。1か月に終わった伊勢志摩Gセブンサミットの合意文書には、具体的に英国のEU離脱のケースにも触れ”不透明を増している世界経済に対しては、状況に応じて財政出動する”という一文があった。

グロ―バル化してきている経済である。”英国病”がかってのように、英国国内だけで済めばよいのだが。安倍総理が、消費税増税延期の理由に”世界経済の不透明さ”をあげたのは先見の明があった。
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軍歌演習で歌った 「安里屋ユンタ」

2016-06-24 04:56:20 | 2012・1・1
沖縄県の竹富島の古謡に「安里屋ユンタ」がある。琉球時代、仕事で竹富へ訪れた那覇の役人が島の少女と恋に落ちる内容だったと思うが、何故か、僕は戦争中、この歌を歌った記憶があり、今でもメロデイを口ずさめる。何故なのか、先日来、寝ながら考えてみたら、71年前、沖縄戦が終わりに近くなった昭和20年6月、勤労動員されていた千葉県利根川運河の浚渫工事現場での「軍歌演習」ではなかったかのような気がしてきた。

僕らはまだ中学3年生だったが、東京の親元を離れ、運河の江戸川口の「暁2803」船舶部隊の築城班に所属して、敵の本土上陸に備えて川底の泥をモッコで担いで運び出す工事に従事していた。軍隊の内務班と同じ日常で、夕食後は運河の土手の上で、星空の下、「軍歌演習」をした。戦争末期、”いざこいニミッツ、マッカサー出てくりゃ地獄へ逆落とし”(比島決戦の歌 西条八十作詞、小関裕而作曲)といった勇ましい軍歌が多かったが「新雪」とか「誰か故郷を想わざる」に混じって「安里屋ユンタ」もあった。動員の監督官だった沖縄帰りの若い兵隊が僕らに教えてくれたものだ。

20年ほど前、JICA(国際協力機構)の研修の仕事で石垣島に長期滞在して、改めて「安里屋ユンタ」の歌詞をみたら、その囃子言葉“マタハリ―ヌ チンダラ カヌシャマヨ”がマレー語(インドネシア語)の”Matahari cinta kamu sama"(太陽は皆同じように貴方を愛します)に酷似してるのに驚いた。久米島の奇祭、パンドウのお化けの恰好がスマトラの”Hantu"(お化け)とそっくりなのも面白い。元気なうちに、もう一度竹富島に行きたいと思っているのだが。
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軍歌演習で歌った 「安里屋ユンタ」

2016-06-24 04:56:20 | 2012・1・1
沖縄県の竹富島の古謡に「安里屋ユンタ」がある。琉球時代、仕事で竹富へ訪れた那覇の役人が島の少女と恋に落ちる内容だったと思うが、何故か、僕は戦争中、この歌を歌った記憶があり、今でもメロデイを口ずさめる。沖縄での組織的な戦闘が終わって71年、昨日、安倍総理も列席して
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文革から50年 追放された同僚

2016-06-23 05:10:55 | 2012・1・1
産経新聞が連載中の「検証文革半世紀」の昨日(6月22日)の紙面に同僚だった柴田穂記者(故人)が紹介されてた。柴田記者は文革が始まった昭和41年(1966年)6月から翌42年にかけて北京に滞在、中国情勢を取材していたが、同年9月”好ましからざる記者”として中国政府から追放された。その原因の一つは、彼が滞在中、紅衛兵らが書いた「壁新聞」を日本に送信したからであった。

柴田記者とほぼ同じ時期、僕はジャカルタに滞在、9.30クーデター未遂事件(60年9月)後の”スカルノからスハルト”への権力移行期の政治混乱を取材していた。僕は67年6月帰国、柴田記者が追放された9月までの3か月、外信部のデスクとして、柴田記者が北京から送ってくる「壁新聞」を受けた。あの時代から50年、感無量なものがある。

当時の外信部は、海外特派員も少なく、テレックスから流れる外電の”横文字”を”縦”の原稿の翻訳にするのが主な仕事であったため、同じ編集局からは”材木屋”と、多少ヤッカミもあって悪口を言われていた。事実、当時の外信部記者の中には取材経験のない記者もいた。その点、柴田記者は国内支局勤務の経験がったし、何よりの強みは中国生まれで、大学の専攻も中国語であったことだ。

柴田記者は、ニュース源の「壁新聞」を日本語に翻訳しローマ字化して、時には表現は悪いが、”馬に食わせる”ほど大量に東京に送電してきた。締め切り時間に追われながら、僕は全文を読み、要点をつかんで短くするのが大変な作業であった。もちろん、彼が送ってきた「壁新聞」全文は破棄されて今はないが、歴史的に貴重なものがあったかもしれない。

62年、僕が初めて海外取材に出かけた時、柴田記者が”買うにはもったいない”と僕に自分のスーツケースを貸してくれたことを想い出す。文革から半世紀。柴田記者が逝っからもすでに、24年の月日が流れた。

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