「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

和式トイレを洋式に 老人受難の日

2016-05-26 07:01:43 | 2012・1・1
昨日、老妻に”連れられ”て3年ぶりに浅草にある浄土宗の菩提寺の「御忌会(ぎょきえ)施餓鬼」法要に参列した。江戸時代から続く古刹だけに広い本堂は200人近い善男善女で一杯である。最近、葬儀を簡素化する傾向があり、親しかった友人、知人の葬儀にも参列する機会が減ってきた。それだけに僧侶の唱えるお経を拝聴するのは久しぶりである。

昔と違って本堂は椅子席になっている。老妻は信仰心の薄い僕が法話の途中で居眠りをしないかと心配し後部の末席に座った。しかし、自分たちが歳を取り、難聴になっているのを忘れていた。有り難い法話が聞こえないのである。さらに悪いことには、僕が便意を催してしまった。法要の合間を見て、トイレへ出かけたが、男性トイレには昔ながらの和式トイレしかなく、人工膝の僕には使用できない。お断りして女性トイレを使用させて貰った。

発起して法要に参加したが、昨日は僕にとって「仏難」の日であった。長い歩行が膝に負担になるので、お寺から一番近い「上野広小路」駅まで、タクシーで行き日比谷線に乗ろうとしたら、「中御徒町」と連絡はしているが、上りの階段を450メートルも歩かされた。ここで再び便意があり、身障者用のトイレを探したがない。

舛添都知事の”公私混同”が問題になっている。都知事は都内の美術館の視察には足しげく、いっているようだが、都内の地下鉄駅の現状を視察したことがあるのだろうか。調べたわけではないが、ひょっとすると、駅構内のトイレでにも依然として和式便器が使われているのではないだろうか。あるとすれば五輪までには洋式に変えたほうがよい。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

東京で食べる北海道の朝もぎアスパラカスの味

2016-05-25 05:01:39 | 2012・1・1

40余年前、札幌で勤務していた時代、仲人をした当時新入社員であった夫妻から”朝もぎ”のグリーン.アスパラカスがクール宅急便で贈られてきた。東京のスーパーでは見たこともない大きなものだ。早速、娘夫婦にもおすそ分けして食べたが、朝露が滴る新鮮さで美味しい。地元ではなくしての味である。

東京生まれ、東京育ちの僕には、アスパラというと、子供時代に食べた缶詰のホワイト.アスパラである。最初に口にしたのは、食料難時代、米国から贈られてきたLARA(救援物資)ではなかっただろうか。当時のとろけるような味は今でも覚えている。しかし、今のようなグリーン.アスパラを初めて目にしたのは、昭和46年、札幌に転勤してからだ。アスパラは白いとばかり思っていただけに驚いた。しかし、10年間の札幌在勤中、僕はあまりアスパラについての食の想い出はない。

北海道は食の宝庫である。仕事上(とかこつけて)、まだ若かった僕は毎晩のようにススキノを飲み歩いていた。ススキノの飲み屋さんには、ツブやほっき、ホッケ、浜ボウフウのおしたしはあったが、当時アスパラはおいてなかった気がする。その頃北海道産のお米は不味くて食べられなかった。新入社員だった夫妻もすでにリタイヤー,お孫さんまでいる。歳月の流れを感じながら、頂いた朝もぎのアスパラを有り難く頂戴した。

コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

台湾「高砂義勇軍」慰霊碑の今

2016-05-24 05:45:06 | 2012・1・1
小ブログを通じて知り合った関西在住のIさんから最近、台湾を訪れ、烏来(うーらい)の「高砂義勇軍」慰霊碑に詣でてきたと、お手製のカラー写真入の訪問記を頂戴した。「高砂義勇軍」とは台湾の原住民「高砂族」が、大東亜戦争中、「陸軍特別志願兵」制度に応募した若者たちで、戦争末期、約20万人が主に南方の激戦地のニューギニアやモロタイ島などに出征、うち3万人が戦死したといわれている。

烏来は台北から日帰りできる観光地で、ここに住む「高砂族」の人たちが戦後、慰霊碑を建てたが、10年ほど前、碑を管理する観光会社が倒産して慰霊碑が撤去されることになった。これを知った「産経新聞」の呼びかけで、別の場所に移転されたと聞いていた。Iさんは一人旅で、バスに乗って烏来を訪れ、現地の観光案内所に尋ねると、慰霊碑は昨年の台風で全滅しという話。ここまで来て引き返すのは残念だと思ったが、街の中の喫茶店で聞くと、「高砂族」の主人が慰霊碑の近くまで車で案内してくれるという。Iさんはそこから、人気のない山道を一人で1キロほど歩いて碑の前で合掌されてきた。

Iさんの烏来慰霊の旅の記を読んで考えさせられた。戦後70年、あの戦争も過去のもになりつつあるのだ。当事者の現地の観光関係者ですら、慰霊碑について間違った情報を与える。多分、Iさんのような奇特な日本人は少ないのに違いない。テレビの旅行番組を見ていら、今、日本人の間で、台湾の”昔の日本”がブームだそうである。確かに、今まだ残る台湾総督府や台湾銀行などの建物、旧台湾神宮跡、士林農事試験所跡などはすばらしい観光資源であるが、同時に烏来慰霊碑も当時を知る上での遺産である。僕も機会があれば、是非訪れたい。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

二つあった五月の東京山の手大空襲

2016-05-23 05:41:43 | 2012・1・1
毎年五月のこの季節になると東京の山の手大空襲を想い出す。B-29による本格的な東京への空襲は昭和19年(1944年)11月24日から20年8月15日の敗戦までの10か月間に81回を数えるが、このうち大空襲とされているのは3月10日(下町)4月13日(城北)同15日(京浜)5月23日(山の手)同25日(山の手)の5つである。しかし、戦後相当な時期まで、僕は城北空襲の事は知らなかったし、二つの5月の山の手空襲を同じ日だと混同していた。

3月10日の下町空襲時、僕は東京の五反田(品川区)に住んでいて被害に会わなかったが、遠く業火が夜空に上がるのを望見している。4月15日の京浜空襲では、動員先の六郷(大田区)の軍需工場が焼失、焼跡整理に従事している。5月23日未明の空襲時、わが家は強制疎開で引っ越した今の地(目黒区)に住んでいたが、落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消火した。しかし、4月13日の城北空襲と5月25日の山の手空襲には直接かかわりがない。

亡父の日記によると、5月25日から27日まで、わが家は停電でラジオを聞けず、新聞もなかった。28日になって五社共同のタブロイド版の新聞が届き、各地の空襲の被害を知った。亡父は23日の空襲の後も渋谷駅まで歩き、地下鉄で虎の門まで出勤しているが、初めて渋谷駅から神宮にかけての惨状を目にしている。僕だけではなく、当時の都民の多くは自分の周囲の被害は知っていたが、遠くの地の事については知らなかった。この結果、僕のように二回あった山の手空襲を混同していた者も多い。

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

頑張れ稀勢の里 7月場所がある

2016-05-22 06:17:14 | 2012・1・1
今場所優勝すれば悲願の横綱昇進が期待されていた大関稀勢の里が昨日14日目の相撲で西の横綱鶴竜に押し切られ昇進の夢はすっとんだ。第65代横綱貴乃花が平成3年1月場所で土俵を去って以来”日本生まれの日本人”の土俵入りは見られない。今場所も連日、札止め大入り満員の盛況のようだが、戦前からのオールドファンにとっては寂しい限りだ。

稀勢の里は平成24年11月場所に大関に昇進以来、大関在位4年3場所、その間の年間成績は24年61勝、25年68勝、27年62勝、今年に入ってからも1月場所こそ9勝6敗だったが、3月場所は13勝2敗、今場所横綱を倒し優勝するか、それに準ずる成績ならば、15年ぶりに日本人横綱が誕生することだっただけに残念だ。

稀勢の里は187センチの身長に175キロの堂々たる体格、取り口も突き押しから左四つという本格派で、自分の得意になったときの相撲は危なげないのだが、時々ポカがあって負ける。昨日も鶴竜に差し勝ちながら、押し切られ土俵に転落、左すねを強打、今日の横綱白馬冨士との相撲にも影響がありそうだ。

でも、今場所かりに12勝で終わっても来場所、優勝あるいは準優勝すれば、協会は稀勢の里を横綱審議会に答申すべきだ。国技である大相撲に15年間も日本人横綱がいないのは異常である。7月3日で稀勢の里は30歳。歴代の横綱の中には30歳を過ぎてから昇進した力士もいる。頑張れ稀勢の里だ。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

"淋しかった僕の庭にバラが咲いた”

2016-05-21 05:33:43 | 2012・1・1

”バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが 淋しかった 僕の庭に バラが咲いた”(マイク真木歌 浜口庫之介作詞作曲 昭和41年)。フォークとかJポップといった新しい音楽にうとい僕だが、半世紀も前のこの歌を憶えていて歌えるのは不思議だ。

昭和41年という年は2月から3月にかけて全日空とカナダ航空の羽田沖墜落事件、BOAC(英国海外航空)富士山上空空中分解事故、と三件もの大きな航空事故が続発している。そんな中で僕は2月末、インドネシアへ新聞社の特派員として出発、翌年までジャカルタに滞在した。従って、僕はこの歌が流行していた時、日本にはいなかったのだが、長い人生の中でも忘れられない一年だから、この歌を覚えているのかもしれない。

今思うと、この時代は高度経済成長へ向けてスタートラインについた頃だった。もはや”戦後の時代”ではなくなっていたが、今のように庶民がガーデニングを楽しむ心の余裕はまだなかった。この歌の歌詞が象徴するかのように、まだ僕の家の庭も淋しかった。それ以前、戦時中は防空壕が掘られ、カボチャの茎が這っていた。それを思うと、改めて今の平和な時代に感謝する。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

知事の”悪行” 何故、都議会は黙っているのか

2016-05-20 05:28:50 | 2012・1・1
升添要二.都知事の公私混同の”悪行”は、本人は精査しているといっているが、逆に次々に新しい容疑が出てきている。今度は政治資金を使って、車二台を購入したり、自分の似顔絵入りの和菓子を大量に配っていたという。これだけ知事の”悪行”が、マスコミで明らかにされているのに、都議会がダンマリを続けているのは不思議だ。小ブログでも、コメンテーターの一人、lordyupa さんが都議会内に百条委員会を設置して知事の”悪行”を追及すべきだ提案されているが、もっともな話だ。

東京都議会は2014年の都知事選挙のさい、升添氏を知事に推薦した都議会自民党(TOKYO自民党)は、都議会内の最大勢力で56名の議員を有しているし、公明党も25名の議員がいる。今、思っておかしいのは、升添氏は2012年、自民党を脱退し、新党改革を作った際、自民党本部は升添氏を除名処分にしたのに何故候補に推薦したのかだ。

民主党の菅直人政権時代の2010年12月、誰が呼びかけたのか判らないが、民主党の総理を辞任した鳩山由紀夫氏と弟の邦夫氏(自民党前総務大臣)それに小沢一郎氏の三人と升添氏が東京の寿司屋で会談を持っている。当時国会では、小沢氏の政治資金問題で小沢氏を国会に喚問すべしという声が強く、菅内閣は行き詰まっていた。

升添氏は当時”小沢嫌い”の先鋒だったが、なぜその小沢氏を含めて鳩山兄弟と会ったのか。政治家としての升添氏は解からないことが多すぎる。ただ言えることは、”学者先生”だった升添氏が小沢氏など老練な政治屋を通じて、色々”政治”のウラを学習したことかもしれない。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

"米寄こせメーデー”の時代と「食品ロス」の今の時代

2016-05-19 06:08:35 | 2012・1・1
ちょうど70年前の昭和21年(1946年)5月19日、皇居前広場は「飯米獲得人民大会」(通称「米寄こせメーデー」が開かれ25万人の大群衆で埋まった。参加した日本共産党の”細胞”の一人のプラカードには「朕(ちん)は、たらふく食っている。汝(なんじ)臣民、餓えて死ね 御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と、天皇の勅語を模した言葉まであった。当時旧制中学4年生だった僕はデモには行ってないが、鮮明にこの日の事を覚えている。

5月といえばコメの端境期である。そこへ持ってきて、前年が異常気象による飢饉、また、敗戦で海外から数十万人が一挙に復員、帰国してきたため、食料事情は極度に悪化した。主食の米は底をつき、遅配が続き、ついには欠配にまでなった。わが家でも同じで、母親が、タンスの中から自分の着物を持ち出し、農家を駆けずり回って”ヤミ米”と交換、やっと飢えを忍んだ。”口に入るもの”は何でも鍋にぶち込んだ薄い雑炊であった。ついにコメがなくなり、フスマを食べたこともあった。

あれから70年、いまは飽食の時代である。先日富山で開かれた先進7カ国の環境相会議では「食品ロス」が議題になった。”食べられる状態にあるにも関わらず、廃棄される食品”の事を「食品ロス」というのだそうだ。ネット情報で、わが国では、この「食品ロス」が年間500万トンから700万あると知り驚いた。日本人一人当たりおにぎり2個を捨てる量だとのことだ。70年前新橋駅前のヤミ市では、進駐軍キャンプから出た残飯の雑炊が名物だったという。孫がアルバイト先のスーパーからもらってきた50パーセント引きのサンドウィッチを食べながら、今の時代に感謝した。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

首都圏の70年周期地震説

2016-05-18 06:00:26 | 2012・1・1
東京首都圏では先日の夜、茨城県南部で震度5弱の地震があった。馬齢を重ねたせいか、少し位の揺れには驚かなくなったが、気象庁の発表で、この地震が平成11年3月11日の東日本大震災の地震の余震圏外で起きた,つまり、震源地の違う新しい地震だと知り若干気にならないではない。東京では、約70年周期ごとに大地震が発生するという説がある。幕末の安政大地震(1855年)から関東大地震(1923年)までの期間は68年、これに対して関東大地震からすでにもう92年もの時間が経過している。

関東大震災については、亡くなった両親を初め周囲に体験者が大勢おり、その怖さを知っている。しかし、安政大地震の話は聞いたことがない。熊本大地震もあり、改めてネットで過去の大地震を調べてみたら、安政大地震は江戸だけでなく、同じ年に飛越(富山、岐阜)、八戸沖(青森)、伊賀上野(三重)各地でも起きている。さらに古い慶長大地震(1596年)でも、伊予(愛媛)豊後(大分)伏見(京都)と広域にわたって大地震が起きていた。

残念ながら、現在の科学でも地震は予知できないようである。しかし、東京首都圏直下地震が、近い将来発生する確率は高いという専門家が多い。自分勝手だが、願わくば、余生少なくなった我が人生の間で起きて貰いたくないものだ。今思い出すと、東日本大震災の前には、茨城、福島、宮城を震源地とする小さな地震が多発していた。

安政大地震のさい、江戸の町では飼っていた「うなぎ」が異常行動を起こしたと広く伝えられている。東日本大震災でも同じような話がネットに流れている。備えあれば憂いなし。準備だけはきちんとすべきであろう。


コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

クールビズの国会質疑

2016-05-17 05:26:59 | 2012・1・1
ブログの題材探しに昨日、NHKのテレビ中継の衆院予算委員会の模様を見た。民進党の岡田克也代表が、アベノミクスの”失政”を追及したが、僕の目には今一つといった感じ。安倍総理の巧みな答弁にかわされた印象を受けた。それに、申し訳ないが、岡田代表の例によって例の如しの仏頂面はテレビ向けではない。

午後の質疑では岡田代表の関連質問で大西健介議員が質問にたった。甘利明前経済担当相のURをめぐる金銭授受疑惑についてだが、まったくその通りだ。しかし昨日の予算委は、熊本大地震を受けての追加予算審議である。これまた申し訳ないが、焦点ボケして色褪せた印象を受けた。それより、僕のような頭の固い老人の目には大西議員のノータイ姿はだらしなく不謹慎に映った。クールビズの季節であり、違法ではないのだが、国の大事を審議する国会である。ネクタイを外したからといって、それほど温暖化防止には役立つとは思えない。テレビカメラが委員室内の同じノータイの先日、週刊誌を賑わせた自民党議員をとらえていた。

5年前の東日本大震災の時を想い出した。国会は5月の大型連休中も休みを返上して予算委員会が開かれていた。大地震。大津波それに原発事故が重なって、今回の熊本地震の比ではなかったが、菅直人内閣の失政で審議は前に進まなかった。当時野党だった自民党は予算委で審議中だった菅総理の在日韓国人からの政治献金問題を棚上げして震災復興審議に協力した。甘利氏の問題をウヤムヤにすべきだといのではないが、本地震に対する追加予算審議の場ではあまりふさわしくない。



コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加