「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

理解が難しい南方軍の旧陸海軍の配置組織

2018-03-24 05:44:33 | 2012・1・1
昨日、小ブログでスラウェシ島で敗戦直後、インドネシア独立戦争に参加して戦死された菊池康郎さんの甥の優さんから康郎さんの軍歴をお聴きしたが、戦後73年、昭和40年代生まれの優さんにはわからない。当たり前のことだ。昭和6年生まれ、しかも大東亜戦争下のインドネシアについて本まで出している僕でさえスラウェシ(セレベス島)の旧陸海軍の組織と配置図は理解しにくい。

戦時中、旧蘭印(インドネシア)は、大別してジャワ、スマトラは陸軍占領下、セレベス、バリ、カリマンタン(蘭領)は海軍占領下に置かれた。ジャワは第16軍、スマトラは第25軍でそれぞれ仏印(ベトナム)サイゴン(現在ホ―チンミンし)の南方軍総司令部の配下にあった。一方、セレベスなど蘭印時代外領と呼ばれた地域は海軍の第二南遣艦隊司令部に所属し、その特別根拠地隊がマカッサルにあった。マカッサルには外領地域全体の軍政を統括する民政府もあった。

セレベス島には、マカッサルのほか北部のマナド(旧メナド)には軍港と海軍航空基地があり、言ってみれば島全体が海軍占領下の島だったが、昭和18年10月、豪北(オーストラリア北部)地域に駐屯していた第二方面軍(阿南惟幾司令長官)が戦局の変化によりセレベス島中部の山岳地帯のシンカンに司令部を移し、全員1万2千人が移転してきた。

敗戦後、第二方面軍兵士は連合軍指定の俘虜収容所のあるマリンプンに集結を命じられた。その”死の行進”の模様は「セレベス戦記」(奥村明 昭和49年)に詳しいが、菊池康郎さんのお墓のあるエレンカンも部隊は通過している。奥村さんの本によると、部隊からは”逃亡兵”も出ていたようだ。陸海軍の組織配置の難しさが73年前の当時の出来事を闇にしているきらいもある。

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