僕が大學を卒業した昭和28年は、新旧大學が一緒に卒業生を
出した年で、大変な就職難だった。”もはや戦後ではない”と
経済白書が記し、流行語になったのは、その翌々年の31年で
あった。昭和時代の定年は55歳、僕がそのまま仕事を続ければ
62年がその年、つまり僕にとってはサリーマン時代がまさに
昭和であった。
14歳の多感な少年時代に敗戦を迎えた僕らは、あらゆるものが
”コペルニックス”的転換だった。「神」だった天皇が「人間」を宣言
吹くものと思っていた"神風”が吹かず、神、仏への信仰は薄らいで
いった。今まで見たこともなかった”ジープ”にのって「民主主義」
と「自由」がやってきた。
”戦後ではなくなった”戦後をテレビのCMで表現すれば”モーレツ”、
流行歌でいえば、坂本九の"上を向いて歩こう"の時代であった。
列島改造、所得倍増で初任給が1万円前後だった僕の給料も43年
に転職した時には10倍増になり、やがてバブルへと向かった。
朝鮮戦争もありベトナム戦争もあり、そのたびに日本の経済は恩恵
を受け、飛躍したが、巻き込まれなかった。「平和憲法」のお蔭であろ
う。国内的には第一次安保、第二次安保、学園紛争なども経験した。
一方では東京五輪、札幌冬季オリンピックも開催した。
「昭和」の収支決算は? 前半にあれだけの犠牲を払ったお蔭で
後半三分の二はプラスの時代だった。戦争がなく平和を十二分に
満喫できた。が、失ったものもあった。それは日本人の”心”では
ないだろうか。
出した年で、大変な就職難だった。”もはや戦後ではない”と
経済白書が記し、流行語になったのは、その翌々年の31年で
あった。昭和時代の定年は55歳、僕がそのまま仕事を続ければ
62年がその年、つまり僕にとってはサリーマン時代がまさに
昭和であった。
14歳の多感な少年時代に敗戦を迎えた僕らは、あらゆるものが
”コペルニックス”的転換だった。「神」だった天皇が「人間」を宣言
吹くものと思っていた"神風”が吹かず、神、仏への信仰は薄らいで
いった。今まで見たこともなかった”ジープ”にのって「民主主義」
と「自由」がやってきた。
”戦後ではなくなった”戦後をテレビのCMで表現すれば”モーレツ”、
流行歌でいえば、坂本九の"上を向いて歩こう"の時代であった。
列島改造、所得倍増で初任給が1万円前後だった僕の給料も43年
に転職した時には10倍増になり、やがてバブルへと向かった。
朝鮮戦争もありベトナム戦争もあり、そのたびに日本の経済は恩恵
を受け、飛躍したが、巻き込まれなかった。「平和憲法」のお蔭であろ
う。国内的には第一次安保、第二次安保、学園紛争なども経験した。
一方では東京五輪、札幌冬季オリンピックも開催した。
「昭和」の収支決算は? 前半にあれだけの犠牲を払ったお蔭で
後半三分の二はプラスの時代だった。戦争がなく平和を十二分に
満喫できた。が、失ったものもあった。それは日本人の”心”では
ないだろうか。
子供もまともに教育できない親が多いので、政府は「親学」というものを提言したとか。
もはや日本は、こういうことも国家主導やらなくていけない状況に陥っています。
物質にまみれ、個人を優先し、間違った自由を満喫した結果でしょうか。
亡父の日記(昭和20年8月19日)に「街頭人の服装も国防色が次第に減りつつあり」とあります。市民はやはり国防色がイヤだったのでしょう。しかし、大人も子供も頭の切り替えは大変だったのだと
思います。
日本人のマナーの悪さ、例えば車中での
飲み食い(短距離)もののポイ捨てなど
などは、守れないならば強制的な規制が
必要ですね。