4月29日が今年から「昭和の日」の休日に変わった。戦争前に生
まれた世代は、どうしても「昭和」を戦中(前)と戦後に分けてふり
返る。僕は満州事変(6年)が始まった年に生れ、支那事変(12
年)の時に小学校入学、敗戦が中学3年(20年)であるから、まさ
に”昭和15年戦争”の申し子みたいな世代である。
戦前を象徴する歌の一つに「露営の歌」(作詞薮内喜一郎 作曲古
関裕而 昭和12年9月)がある。この歌は出征兵士を送るさいに決
まって歌ったものだった。
☆ 勝ってくるぞと 勇ましく
誓って古里(くに)を出たからは
手柄(てがら)なしには 死なれようか
進軍ラッパ聞くたびに まぶたに浮かぶ
旗の波
思えば今日の 戦争(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下万歳と 残した声が忘らりょか
明治生まれの父は毎月1日と15日には家の神棚に参拝し、近所の神社
に行き拍手して拝んでいた。新聞に皇室関係の写真が載ると、必ず神棚に
捧げていた。行事には国旗掲揚とともに宮城(皇居)を遥拝した。天皇陛下
は「神」だったのである。
この戦争で数百万人の日本人が死んでいった。広島、長崎の原爆で、東京、
大阪などの大都市空襲で、シベリア、満州、サイパン、ニューギニアなどの
南瞑の地の戦場で。これらの尊い犠牲を忘れてはいけない。「激動の日々
を経て復興をとげた」昭和の時代を大型連休の一日に顧みるのも意味がなく
はない。
まれた世代は、どうしても「昭和」を戦中(前)と戦後に分けてふり
返る。僕は満州事変(6年)が始まった年に生れ、支那事変(12
年)の時に小学校入学、敗戦が中学3年(20年)であるから、まさ
に”昭和15年戦争”の申し子みたいな世代である。
戦前を象徴する歌の一つに「露営の歌」(作詞薮内喜一郎 作曲古
関裕而 昭和12年9月)がある。この歌は出征兵士を送るさいに決
まって歌ったものだった。
☆ 勝ってくるぞと 勇ましく
誓って古里(くに)を出たからは
手柄(てがら)なしには 死なれようか
進軍ラッパ聞くたびに まぶたに浮かぶ
旗の波
思えば今日の 戦争(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下万歳と 残した声が忘らりょか
明治生まれの父は毎月1日と15日には家の神棚に参拝し、近所の神社
に行き拍手して拝んでいた。新聞に皇室関係の写真が載ると、必ず神棚に
捧げていた。行事には国旗掲揚とともに宮城(皇居)を遥拝した。天皇陛下
は「神」だったのである。
この戦争で数百万人の日本人が死んでいった。広島、長崎の原爆で、東京、
大阪などの大都市空襲で、シベリア、満州、サイパン、ニューギニアなどの
南瞑の地の戦場で。これらの尊い犠牲を忘れてはいけない。「激動の日々
を経て復興をとげた」昭和の時代を大型連休の一日に顧みるのも意味がなく
はない。
これも美しい国の一貫なのでしょうか。
日本にとって、昭和という時代は激動の時代でした。
どん底から這い上がった時代でもありました。
「昭和」という時代には、何か特別な感情はあります。
父方の祖父は、何の番組だったか忘れましたが、この「露営の歌」が流れた時、急にボロボロと涙をこぼしたのを強く記憶しています。
前に話しましたが、祖父には太ももに十字の大きな傷がありました。
祖父からは、ほとんど戦争の話は聞けませんでした。
ただ、あまりに強くこの歌が記憶に残っている為に、ちゃんと歌える軍歌の1つです。
母方の祖父は、天皇崇拝の人(若い時には、大野伴睦に関わっていたとか)で、天皇陛下がテレビに映る度に涙を流すような人でした。
家には天皇陛下の写真があったそうです。
昭和とは、そんな時代だったんでしょうね。
あの時代の人の心情ですね。
今の僕らには理解できないものがあります。「露営の歌」について僕の親友は酒を飲むと自暴自棄になってこの歌を歌います。一人の兄をフィリッピンでなくしています。知り合いの老婦人は街宣車が
この歌をながすと、手で耳に栓をします。夫が"戦犯”で刑死されているのです。