「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         教科書検定 沖縄集団自決の軍命令

2013-03-28 06:24:52 | Weblog
文部科学省が来春から使用する高校教科書検定結果を公表した。どの教科書も前回に比べて尖閣、竹島の領土問題についての記述が増えたそうである。日本国民にとっては当然なことである。今までがおかしかったのだ。ところが「歴史認識」については、平成18年度の検定で、いったん削除改正された沖縄戦の集団自決への軍命令が、また軍による”強制集団死”という表現で復活してきたという。

産経新聞によると、現代史家の秦郁彦氏は「明らかに軍命令があったと受け取れる表現だ」と指摘し”政府が米軍普天間飛行場の移転問題を進めるため沖縄の世論を刺激したくないという考えのあったのではないか”とみている。沖縄の集団自殺があった頃、僕は中学3年生であったが親元を離れ千葉県の利根川運河の拡幅工事に動員されていた。暁242船舶部隊築城班の配下で僕らは連日”沖縄の事を思え”とモッコかつぎの仕事に従事させられた。九十九里浜に米軍が上陸してくるかもしれない、という情勢の中で僕らは手榴弾こそ与えられなかったが、戦いになれば一個で敵を倒し、もう一個で自殺する覚悟は子供心にあった。

軍命令があったかどうかをめぐる渡嘉敷島の隊長(故人)らが命令があったとする作家の大江健三郎氏らを訴えた裁判は平成21年、軍人側の敗訴に終わったが、僕は今でもこの裁判は間違っていると思っている。大江健三郎氏も裁判長も直接戦争を経験していない。大江氏は終戦時愛媛県の田舎の小学生で空襲の体験もない。僕と同世代の作家の曾野綾子さんも、僕と同じように手榴弾による自害の覚悟があったことを雑誌に書いていた。当時の日本人は皆、そういう気持であった。これが「歴史認識」というものだ。基地移転に対する住民懐柔策から「歴史認識」を安易に変えるべきではない。

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10 コメント

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沖縄県最後の官選知事 (大正生まれ)
2013-03-28 10:15:49
少し長文になりますが、お許し下さい。
戦時中、最後の沖縄県知事に関する書き込みをした記憶が御座います。
主に、中高年が遊んでいる会員制の
”メロウ倶楽部”と言うサイトです。 
http://dm11.cside.jp/~s11755-1/
会員でなくても、公開の場が御座います。
”大正・昭和の部屋”で時々暇つぶしをさせて貰ってます。
検索してみました、1年半くらい前の書き込みが残ってましたので、此処にコピーさせて下さい。 (自分で書いたのですから、構わないと思いますよ)
[No.299] Re: 勇気凛凛ヒマツブシ  (その九) 投稿日:2011/10/16(Sun) 15:18
、或ることを調べたくて、沖縄の基地問題に付いて、検索してましたが、下記のような書き込みを見つけました。
(以下 引用)
島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 ? 1945年(昭和20年)6月27日?)は、沖縄県最後の官選知事。
1945年 1月31日。
 アメリカ軍の上陸が間近に迫っていた沖縄に、県知事として赴任してきたひとりの男がいた。
待ち受ける運命とは正反対に、美しく青く光る海を越え、沖縄に到着した飛行機。
 空港に降り立ったのは、まだ青年の面影が残る、当時43歳だった島田叡(しまだあきら)。
1月31日に福岡から軍用機で現地に島田氏は単身赴任した。 
(引用は此処まで)。

其の軍用機は、実は小生が乗っていた零式輸送機に間違いは御座いません。
輸送機のエンジン交換の為、内地に向かい、その帰途、福岡の雁ノ巣飛行場で、沖縄に赴任する偉い方を乗せた記憶が御座います。
那覇で一泊、台北、高雄、マニラ、ダバオ、メナド、マカッサル経由でスラバヤに帰る途中でした。
那覇での一夜、立派な料亭で、盛大な歓迎会が行われましたが、輸送機の搭乗員一同(4名)にも、お前たち、これから最前線へ向かうのだから、とのことで招待されました。
沢山の参加者の末席で、舞台で踊る沖縄の舞・民謡などを拝見させて頂きましたが。
飲みなれない泡盛でベロンベロンになって、酔いつぶれて、翌朝、這うように、我が愛機に辿り着きましたがぁ~・・・、離陸直後、エンジン不調、危ういところでした。
離陸やり直し、台北経由、懐かしい、俺の心の故郷インドネシアに”勇気凛々”辿り着きました。
(途中のマニラの基地では、敵艦隊を迎え、戦争の真っ最中、基地は殺気立っておりましたが)
以降、此のコースは飛べなくなり、内地との往復は大陸経由の夜間飛行になりました。
もっとも、俺たち下っ端は、相変わらず、西ニューギニア、アラフラ海、小スンダの島を、ヤケノヤンパチで飛んでましたが~・・・。
長くなりました、m(__)m  これでもヒマツブシのつもりでした
================
引用は以上です。
戦争はこれからがタイヘン、西ニューギニアに行き、敵機に遭遇するやら、南シナ海かで泳がされるやら・・・。
長くなりますので。 
失礼しました。
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左翼宥め (chobimame)
2013-03-28 16:18:59
刺激したくないから集団自決を書き、刺激したくないから領土問題を書かない。領土問題に関しては、国民の感心が高くなってきた今だから書けるのか?沖縄は基地問題から騒ぎが波及するのが嫌で書いたのか?こんな背景があるとしたら歴史としての真実が危うくなります。世論を反映する話ではありません。歴史はひとつなはずです。沖縄は左翼の手が入り過ぎて、本当の沖縄の人の声が出てきません。基地問題のデモにしても、県民よりも県外からきた左翼団体の方が多いと聞きます。沖縄の歴史は地上戦という不幸は紛れもない事実ですが、戦後になり左翼が自分たちの都合のよい話で引っ掻き回しているだけです。その陰で事実が埋もれています。沖縄は、今や同じ日本の国の中でも被害者的な意識しか出てこない県になりました。戦争についてだけ言うならば、あの当時は日本国内にいた人全てが被害者です。内地の空襲で亡くなった人はどうでも良いのでしょうか?
あの当時の人は、手榴弾や青酸カリなどを持っている人も少なくありませんでした。敵国に辱しめを受けるなら死を選ぶ思想感を責めることは、平和な今だから言える驕りです。
大江氏のような人の主張は、日本人を加害者にすることだけに熱心です。大空襲や原爆投下などに対して、米国人にも訴えて欲しいですが、なぜかそういう活動はしないのですよ。
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運命 (kakek)
2013-03-28 16:36:16
大正生まれ さん
島田叡知事のこと改めてwikepediaで知りました。死を覚悟で沖縄に赴任したそうで、32軍と最後まで協力、6月、摩文仁の丘の戦いで自刃され慰霊碑されが残されているとのこと。
運命の分かれ道ですね。連合軍が沖縄に上陸する以前には、南方が最前線であり、半年後に沖縄が玉砕する事態になるとは、おそらく大正生まれさんも思わなかったのでは。沖縄へは仕事で10回近く出かけていますが、いつも慰霊の気持ちを持っています。
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琉大名誉教授 (kakek)
2013-03-28 18:12:49
chobimame さん
高嶋伸欣琉大名誉教授が旗振り役です。彼は家永教科書裁判で敗訴した原告です。20年ほど前、彼が筑波大学付属高校の教師の頃から知っていますが、戦時中の日本軍の通常の軍事作戦を華僑の虐殺事件にでっち上げた張本人です。(詳細は「日中戦争いまだ終わらず」中島みち著文芸春秋社平成3年)林博史関東学院大学教授と一緒に華僑にカネを渡して虐殺の本を出版させています。
林は沖縄問題についてはまったく素人ですが、高嶋と一緒になって”反日”活動をしているのは周知です。自民党の小池百合子さんが、沖縄のマスコミが反日だと批判していますが、マスコミの指南役が彼ら二人です。二人とも沖縄の出身ではありません。二人の領土問題などの発言は日本人ではありません。
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空気に酔いやすい同調社会:集団催眠と集団パニック (lordyupa)
2013-04-03 10:28:22
GHQの占領統治による連合軍の思想検閲が、大江健三郎らに影響を与えていると感じます。東京裁判はもとより、日本の裁判所も、GHQの思想統制を引きずっているように感じます。

大江健三郎のように、「軍部だけを悪者にして、国民はだまされた被害者」として善悪二元論で割り切ると、また、裁判官のように、軍人からの直接命令があったか否かは不詳だが、軍部による総括的な関与があったとボカしてしまうと、
①あの時代に、なぜ、どのように「敵国に辱めを受けるぐらいなら、死を選ぶという特異な思想」が、社会に形成普及したのかが、全く分からなくなってしまいます。軍人よりも軍人的、天皇よりも天皇的な言動をとっていた民間人が、戦時中は、相当に多かったのではないでしょうか?(沖縄自決裁判では、村長・助役、教頭・、郵便局長など村の幹部たちの<常識>が、日露戦争以降、とくに大東亜戦時中、具体的にどのように醸成されていったのか?
複合的な視点で、これを明らかにすることこそ、大江健三郎のような人々のやる仕事のはずなのに、マッカーサーの言いなりになっていると感じます)
・・・実態は、軍部自身の主導よりも、鬼畜米英を煽ったマスコミの影響が決定的に影響したのではないでしょうか?「主婦の友」のような婦人雑誌、裏話やマンガ、満州から戻った人々の口コミ、新聞での戦意高揚記事、知識人の言動などなど。


また、一方で、国軍の軍律・軍法についても、
②兵士は死に、司令官は逃亡や捕虜になっても不問:
一部の軍上層部には、甘い国軍の軍法会議の実相も、全く不問となってしまいます。

・レイテ島での特攻作戦で「君らだけを行かせはしない。・・最後の一機で本官も特攻をする・・・」と訓示した富永軍司令官。フィリピン戦局がきびしくなり、いよいよ軍司令官自ら特攻をする時期がきたら、台湾へ逃亡。敵前逃亡の罪で銃殺刑に処されていない。予備役のあと、満州軍司令官として復活。
・昭和19年、パラオの連合艦隊参謀長、福留中将についても、セブ島に不時着して、米比ゲリラの捕虜となったが、自決していない。その後、釈放され、帰国。敵地に不時着しながら、Z作戦計画という軍の最高機密書類も破棄せず、米軍の手に渡った。そのあと、マリアナ海戦、レテ海戦の手の内は、米軍に読まれた上で、国軍は戦うハメになってしまった。
その後、福留中将は、第二航空隊司令長官に栄転。
およそ、捕虜になっても、青酸カリを所持して自決する気配は、微塵もありません。

「二酸化炭素排出による気候温暖化」への集団催眠状態も、今から、百年ほどたった未来の日本人は、なぜ、こんな奇妙な考えを昔の人は抱いていたのか不思議に思うとことと想像しています。


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集団自決は戦闘行為だったのだろうか? (lordyupa)
2013-04-04 09:35:08
chobimameさんが書かれた「・・・あの当時は日本国内にいた人全てが被害者です。内地の空襲で亡くなった人はどうでも良いのでしょうか?・・・」に関連して、
1952年成立した「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」にもとずくお金の給付を、沖縄の集団自決者とその遺族へ給付するために、集団自決した人々は、東京や関西の空襲の焼夷弾で爆焼死した民間人とは異なり、むりやり強引に、準軍属としてみなし戦闘参加者として扱うことが、申請当時の「村」と「審査機関である厚労省」とで密約された疑いがもたれる。このためには、集団自決が「軍の命令のもとの戦闘行為である」ことが決め手となる。
そうなると、村八分を覚悟で、事実を開示する人が現れない限り、「軍の命令があったのだ」というような風評によって、史実が歪められた可能性がもたれる。将来もし万一、このような証拠がでてくれば、公文書偽造と公金横領の刑事罰に抵触するので、関係者が全員死亡し、やがて、事実は、闇と霧に閉ざされたままとなろう。
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集団自決は平時なら親族殺人や隣人殺人 (lordyupa)
2013-04-06 12:37:35
ブロガー殿
ながながと申しわけありませせん。これで最後です。

chobimameさんが書かれていた「・・・あの当時の人は、手榴弾や青酸カリなどを持っている人も少なくありませんでした。敵国に辱しめを受けるなら死を選ぶ思想感を責めることは、平和な今だから言える驕りです。・・・」は、私も全くその通りだと思います。

集団自決は、当時の空気だったと思いますが、いざ、実際の局面で的確に実行するとなると、その行動の具体的な手順・手段などがあいまいだったと感じます。すなわち、誰が、いつ、どのような手段で自決するかについて不明瞭です。
特に、いつ、どこで、どんな手段で自決するか否を、誰が最高責任者として、決めるのか(意思決定と指示命令系統)?当時、沖縄では戒厳令が、敷かれていなかったので、県知事→村長→「自決する対象者」なる行政指示というのが、正規の指揮命令系統で、軍隊ではないはずであり、一方で、自決者自身だけの自由裁量で自決は決定できなかった筈。また、頑健な成人男子は戦地に軍人として赴いており、残っていたのは老人、幼児、婦人が多かった。6歳未満の幼児などは、自決の判断も実行もできる筈がない。村の幹部達があつまり、相談して決めているようですが、公的議事録などは残っていない。県知事よりの指示がない中で、村の幹部(村長、助役、警官、牧師、校長、教頭など)が集まるように呼びかけて、混乱のなか怯えた集団において、火器や爆弾の調達は至難であり、棍棒や鎌のような凶器での集団リンチに近い他殺も多かったのでは、ないでしょうか?しかも、やるせないことに、集団自決で生き残った人々の中には、戦前沖縄で、「一人十殺の闘魂」などと軍国主義を煽った<軍人よりも軍人的な大政翼賛会に深く関与した人物>が、戦後、くるっと手をひるがえして、占領軍に重宝されて、現地政治やメディアでも活躍し、裁判などでは、「軍の命令でやった」などという虚偽証言の捏造に加担していることです。大江健三郎など左翼の言動は、まさに、「悪魔のささやき」だったのでは?ないかと感じます。
私は、大江らが、もし仮に、政府や軍部を批判するなら、自虐史観イデオロギーにもとずき、「軍隊だけが悪者で、住民をだまし、自決するよう命令した」などと主張せずに、替わりに、実行は極めて困難な状況であったが、「軍隊に、住民を避難・保護すべく戒厳令をなぜ発動させなかったのか?」と堂々と抗議すべきと思います。敗戦前夜、一部の軍幹部に腐敗や卑劣な人物がいたとしても、当時立派な軍人も大勢いたのですから。

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戦陣訓 (kakek)
2013-04-06 15:16:08
lordyupa さん
”生きて虜囚になるよりは”-は東條英機の有名な戦陣訓から来ていますが、経験でものを言いますと、昭和18年に旧制中学に入学した僕らの世代でも、この考え方は徹底した感じがします。教練の教科書(名前失念)の軍人に賜りたる勅語とともに戦陣訓が書いてあったような気がしますが、はっきりしません。
「主婦の友」のご指摘がありましたが、昨年僕は別の用事でお茶の水の主婦の友図書館(有料)で調べ物をしましたが、銃後の世界が伝わり勉強になりました。南京事件の研究者にも間接的な資料になるような気がしました。
JICAの仕事で西表島を含む沖縄へ長期滞在したことがありますが、沖縄へ行く前抱いていた本土人と沖縄人との同一感が甘かった記憶があります。沖縄の交渉はそれを踏まえてしないと間違いますね。
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大東亞共栄圏再構築 (音顧値針)
2013-04-08 00:14:05
國恥・・・日本陸軍「三奸四愚三恥」・・・
東條英機の腹心の部下として「三奸四愚」と呼ばれた三奸賊:鈴木貞一中将、加藤泊治郎中将、四方諒二少将。  四愚者:木村兵太郎大将、佐藤賢了中将、真田穣一郎少将、赤松貞雄大佐。  皇軍三大恥(汚物)と呼ばれた・・・1.第15軍司令官牟田口廉也中将「通称:無茶口(ムチャグチ)」、2..敵前逃亡の第4航空軍司令官富永恭次中将、3.「グズ元」こと杉山元元帥・・・こいつ等は國賊である!
インパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、フィリピンで特攻指令をだし、自らも特攻すると訓示しながらも、「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に敵前逃亡した富永恭次。

海軍福留繁中将・・・海軍乙事件・・・論外である! 売國奴である。

本日午後上京し明日マライ経由ヌサンタラへ参ります。
また帰国しましたら・・・
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ジャワとバリのSP (kakek)
2013-04-08 12:22:23
音顧値針 さん
「Terang Bulang」成果期待しています。いってらっしゃい。

古い雑誌「月曜j評論」(平成14年1月号)に東亜の音楽、大東亜共栄圏(筆者城内実さん、SPレコード収集家)=昭和16年10月、コロムビアレコード発売「東亜の音楽」のなかにジャワ民謡「スカルがトン」やバリ影芝居「スレンドラ」が紹介されています。
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