若い頃大食漢で知られた僕だが、やはり加齢のせだろう。ここ数年食べる御飯の量がめっきり減ってきた。朝食時一回だけ、それも小さな茶碗に一杯だけだ。健康に人一倍気遣っている老妻がそれを心配してか、昨日玄米を炊いてくれた。しかし、玄米は”銀シャリ”と違って見た目も悪いし、固くて僕にはあまりおいしくなかった。
玄米というと、敗戦後の一時期、東京ではまったく精米されない玄米が配給された。もともと日本では昭和14年(1939年)の米穀搗精令という勅令で、お米は七分搗きとされていた。しかし、この時期配給になったお米は、まったく精米されていない玄米だった。亡父の昭和20年の日記にとると、この玄米は戦後になって配給されている。敗戦まもない8月25日初めて”夜、玄米を一升瓶にいれて搗く”という記述がある。戦中には、このような記述はない。僕も同じようにビール瓶の中に玄米をいれて「ハタキ」の棒で搗いた記憶がある。
原爆の被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」(中沢啓治著)の中にも、この米搗きの風景が出ているそうである。多分これから見ると玄米の配給は東京だけでなく全国的なものである。多分、極端な食糧不足から、コメの備蓄が底をつき、緊急的な措置として、この年とれた新米を精米する時間もなく、そのまま配給したものだろう。当時の日本人は玄米をそのまま食べる習慣はなく、どこの家庭でもビンに入れて精米し、出た糠も小麦粉に混ぜてパンにして食べたものだった。
老妻によると、玄米にはビターミンB,Eをはじめカルシウムが含まれていて食物繊維も豊富で老人食にもよいという。値段も普通のお米より高いのだという。しかし、これを毎日食べるのには僕は抵抗がある。余命が限られた老人である。やはり、食糧難時代、夢にまでみた”銀シャリ”をたとえ少量でも食べたほうがよい。
玄米というと、敗戦後の一時期、東京ではまったく精米されない玄米が配給された。もともと日本では昭和14年(1939年)の米穀搗精令という勅令で、お米は七分搗きとされていた。しかし、この時期配給になったお米は、まったく精米されていない玄米だった。亡父の昭和20年の日記にとると、この玄米は戦後になって配給されている。敗戦まもない8月25日初めて”夜、玄米を一升瓶にいれて搗く”という記述がある。戦中には、このような記述はない。僕も同じようにビール瓶の中に玄米をいれて「ハタキ」の棒で搗いた記憶がある。
原爆の被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」(中沢啓治著)の中にも、この米搗きの風景が出ているそうである。多分これから見ると玄米の配給は東京だけでなく全国的なものである。多分、極端な食糧不足から、コメの備蓄が底をつき、緊急的な措置として、この年とれた新米を精米する時間もなく、そのまま配給したものだろう。当時の日本人は玄米をそのまま食べる習慣はなく、どこの家庭でもビンに入れて精米し、出た糠も小麦粉に混ぜてパンにして食べたものだった。
老妻によると、玄米にはビターミンB,Eをはじめカルシウムが含まれていて食物繊維も豊富で老人食にもよいという。値段も普通のお米より高いのだという。しかし、これを毎日食べるのには僕は抵抗がある。余命が限られた老人である。やはり、食糧難時代、夢にまでみた”銀シャリ”をたとえ少量でも食べたほうがよい。
近年は健康食ブームで、玄米や雑穀米が売れるそうです。値段は結構します。しかし気をつけねばならないのは、米は胚の部分に農薬、水銀、放射能などを溜める為、きちんと管理された無農薬の水田でなければ、玄米を摂取するのは良くないそうです。
私は研がない無洗米にしていますが、無洗米は栄養価が低いかもしれません。
食糧難のピーク時、小麦の衾を食べたことがありました。これはさすがに不味くて食べられませんでした。戦時中は栄養不足から糖尿病や脚気がなかったそうですが、酷な時代でした。体重が18貫(約72㌔)あった亡父も敗戦時には12貫に落ちて疲れると日記に記しています。今はグルメよい時代です。
「自然○○」や「天然○○」・・・・という表示のものには、本物もあるのでしょうが、偽物や金儲け主義が紛れ込みやすいと感じます。普通のものに比べて、価格が格段に高いのが特徴です。
いわく、
単に、屎尿をかけて育てただけで有機栽培と称する自然食品、自然エネルギー(太陽光発電など)、自然○○療法、
ふすま(Bran)も食べました。さすがふすまでけでは不味くて食べられなかった記憶があります。食糧難は戦中より戦後すぐの時代のほうが厳しかったような気がしますが、はっきりしません。利根川運河の拡張工事へ動員中ハラが減って野田の醤油屋の豆粕?を盗んで食べましたが味がなく吐き出したことがります。あの時代の母親の苦労は大変だっと改めて思います。有機食品、自然食品ブーム、よい時代です。