「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       日本人誰もがが過酷だった昭和20年

2011-08-27 05:54:17 | Weblog
母方の本家から三回忌の法要のさいの献杯の音頭を乞われ故人の生前について調べた。故人は当主の母親に当たり97歳の長寿を全うした。僕にとっては従兄弟の嫁に当たるが、戦前わが家は本家の敷地内にあり、従兄弟夫婦の結婚式のさい、僕が"雄蝶雌蝶”の雄蝶役を務めた関係によるものなのだ。

母方の本家は東京の昔は郊外であった目黒川沿いの農家で、僕が子供だった昭和10年代には農業はしていなかったが、敷地は広く大きな屋敷だった。が、昭和20年3月10日の下町大空襲の直後政府の強制疎開撤去命令で取り壊されてしまった。当時81歳の僕の祖母と60歳代の伯父伯母夫婦は伯母の実家があった栃木県の葛生へ疎開した。故人は当時30歳だったが、これより先、従兄弟の仕事の関係で世田谷区の梅が丘に疎開していた。1歳の乳飲み子を含め4人の子供を抱えていたが、その従兄弟が3月27日、応召を受けたため追うようにして葛生に合流した。その後、疎開荷物のほとんどを残してきた梅が丘の家がまさかの空襲で全焼してしまった。

葛生の疎開先での生活は、高齢者には厳しかったのでろう。81歳の僕の祖母は敗戦後の8月28日逝去し、伯父も癌で病床に伏してしまった。馴れぬ疎開先で4人の子供をかかえ、病気の義父の看病でさぞかし故人は大変であっただろう。戦後の11月、伯父は自動車で帰京、入院先で翌21年の1月他界している。従兄弟は幸い、内地勤務だったので比較的早く復員できたが、その間、女手一つで切り回していたわけだ。

日本人誰もがが、昭和20年という年は過酷な年であった。亡父の日記を調べて見ると、親族、知人の葬儀出席の記載がなんと多いことか。戦地だけではなく、銃後でも高齢者、病人などの弱者は食糧不足から、ばたばた倒れていたのだ。

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2 コメント

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強さ (chobimame)
2011-08-27 17:27:50
昔の人は耐える力が強かったのか、それとも社会的に仕方がないのか、はたまたその両方なのか。現代に同じ事が起こっても義理の親を含めた家族の面倒を見られる人はいるのか疑問です。それだけ色々なものが希薄になっていますから。それにしても耐え難い苦難ですね。ただ淡々と運命を受け入れるしかないのでしょうが、それにしても大変な苦労です。想像すら出来ません。
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稠密な関係 (kakek)
2011-08-28 08:38:26
chobimame さん
人間関係が稠密だった気がします。例えば法事にしても初七日、ニ七日と三十五日まではきちんとやっていました。家族関係も、今のように希薄ではなかったと思います。他人への思いやりもあったあったと思うのですが。どうでしょうか。
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