小ブログにコメントを寄せられたchobimameさんのブログに同感した。
終戦記念日の「祖父の想い出と慰霊の島」である。chobimameさんの
お祖父様は戦争で足に傷を負い十字の跡があったが、これについて
けっして詳しく説明しなかったという。
僕の知り合いにもシンガポールの上陸作戦で右足を切断されたA氏、
アンダマン島の戦闘で爆風でとばされ、腰に大ケガをしたB氏もいる。
やはりAB両氏とも自分の負った傷について進んで話をしようとは
しない。ご当人にとってはこれ以上嫌な想い出はない。
今はどうか知らないが、昔はよく小さい子が転んで傷をしたときなど
”名誉の負傷”と揶揄的に使った。当時僕らは戦傷は本当に名誉なことと
思っていたが、兵隊たちの間では”不名誉”なことで、銃後に搬送される
よりは”玉砕”したほうがよいーという考えも一部にあったようだ。
昭和30年代まで、繁華街やお祭りなどで白衣を着た義足の傷痍軍人が
アコーデオンでもの悲しい軍歌を歌って募金をしていた。当時はまだ
傷痍軍人の恩給も確立されていなかった。社会全体が貧しく身障者に
対する配慮もなかった。日露戦争時には、日本にも傷病兵の看護生活
施設の廃兵院があったが、今次の敗戦ではとてもそんな余裕もなかった。
今思えば当時の傷痍軍人の方々の生活は大変だったと思う。A級戦犯
容疑(不起訴)の家族が生活のために町中で”サンドイッチ・マン”を
していたのもこのころである。
パリでアンバリット(廃兵院)を見たことがあるが、過去の観光史跡
としてはよいが現実のものとしては、もうこんなものはいらない。
終戦記念日の「祖父の想い出と慰霊の島」である。chobimameさんの
お祖父様は戦争で足に傷を負い十字の跡があったが、これについて
けっして詳しく説明しなかったという。
僕の知り合いにもシンガポールの上陸作戦で右足を切断されたA氏、
アンダマン島の戦闘で爆風でとばされ、腰に大ケガをしたB氏もいる。
やはりAB両氏とも自分の負った傷について進んで話をしようとは
しない。ご当人にとってはこれ以上嫌な想い出はない。
今はどうか知らないが、昔はよく小さい子が転んで傷をしたときなど
”名誉の負傷”と揶揄的に使った。当時僕らは戦傷は本当に名誉なことと
思っていたが、兵隊たちの間では”不名誉”なことで、銃後に搬送される
よりは”玉砕”したほうがよいーという考えも一部にあったようだ。
昭和30年代まで、繁華街やお祭りなどで白衣を着た義足の傷痍軍人が
アコーデオンでもの悲しい軍歌を歌って募金をしていた。当時はまだ
傷痍軍人の恩給も確立されていなかった。社会全体が貧しく身障者に
対する配慮もなかった。日露戦争時には、日本にも傷病兵の看護生活
施設の廃兵院があったが、今次の敗戦ではとてもそんな余裕もなかった。
今思えば当時の傷痍軍人の方々の生活は大変だったと思う。A級戦犯
容疑(不起訴)の家族が生活のために町中で”サンドイッチ・マン”を
していたのもこのころである。
パリでアンバリット(廃兵院)を見たことがあるが、過去の観光史跡
としてはよいが現実のものとしては、もうこんなものはいらない。
突然振るえ出し、布団を何枚かけて寒い寒いと震えていたりと、とても大変だったようです。
しかし、そんな愚痴も言わなかったそうですよ。
それによく寝ている時にうなされていました。
私が子供の頃にも祖父が、よくうなされていて、私は心配で起こしたものでした。
語りたくない過去がある・・・
そこには生きて帰った者しか判らない何かがあるのでしょうね。
本当に戦争は悲しいです。
人の心も体も深い傷を残します。
しかし、それをきとんと知らない現代の日本人は、もっと悲しいです。
上野のアメ横入り口で義足の傷痍軍人が
募金していたのを今でも鮮明に覚えています。
今思えば装っていたのかもしれませんが。
そうですか、サンドイッチマンをしていた
なんてことがあったんですか…
激戦地から生還された方の中にはまだ
トラウマに悩まされている方がいます。
個人個人は善良な市民だったのです。
あの時代の日本人だけを悪人にするのは
誤りだと思います。
なった方で、高橋三吉海軍大将(連合艦隊
司令長官)のご子息です。当時新聞に出て
話題になりました。職業軍人だった将官級
は転職ができず大変だったと思います。