大東亜戦争中、南方にいた日本軍兵士の間で”ジャワは極楽、ビルマは地獄、生きて
帰れぬニューギニア”という言葉があった。その言葉どおり、ニューギニア戦線に参戦
した兵士の93%にあたる14万人が南寧の地に散華している。僕は最近、この地から
生還できた昭和3年生まれの松尾源司さんが書いた「少年兵ニューギニアに潰ゆ」(新
風舎2006年)という本を読む機会に恵まれた。今日は「昭和の日」である。
昭和3年生まれといえば、僕とたいして変らぬ世代である。従軍世代は1920年(大正
9年)前後の方が多く、昭和生まれはせいぜい当時軍関係の学校(幼年学校、少年飛
行兵学校)の生徒だという僕の認識だったが、実際には松尾さんのような方もいたのだ。
松尾さんは昭和17年、昔の高等小学校を卒業してすぐ14歳で横須賀海兵団に通信兵
として入団、翌18年、15歳でニューギニア戦線に送られている。
松尾さんはそれから敗戦までの2年余、西部ニューギニア(現在のインドネシアパプア州)
のウエワク、ホーランディア、カイリル島に転戦、その間、熱帯性潰瘍、腸チフス、マラリア
に悩ませられながら、食に餓え、連日敵機の襲来を受けて幸にも九死に一生を得て祖国
に帰国できた。
”軍隊は運隊だ”という言葉が戦争中あったそうだ。軍隊はその人の持つ運命に左右され
るという意味だ。松尾さんは幸運だったがこの本の後書きで”かって少年たちが戦場に狩り
出され、祖国の栄光を信じて無念の死を遂げた時代があったことを後世に伝えたい”と書か
れている。昭和も次第に遠くなりつつあるが、僕も松尾さんとほぼ同世代,同じ思いである。
帰れぬニューギニア”という言葉があった。その言葉どおり、ニューギニア戦線に参戦
した兵士の93%にあたる14万人が南寧の地に散華している。僕は最近、この地から
生還できた昭和3年生まれの松尾源司さんが書いた「少年兵ニューギニアに潰ゆ」(新
風舎2006年)という本を読む機会に恵まれた。今日は「昭和の日」である。
昭和3年生まれといえば、僕とたいして変らぬ世代である。従軍世代は1920年(大正
9年)前後の方が多く、昭和生まれはせいぜい当時軍関係の学校(幼年学校、少年飛
行兵学校)の生徒だという僕の認識だったが、実際には松尾さんのような方もいたのだ。
松尾さんは昭和17年、昔の高等小学校を卒業してすぐ14歳で横須賀海兵団に通信兵
として入団、翌18年、15歳でニューギニア戦線に送られている。
松尾さんはそれから敗戦までの2年余、西部ニューギニア(現在のインドネシアパプア州)
のウエワク、ホーランディア、カイリル島に転戦、その間、熱帯性潰瘍、腸チフス、マラリア
に悩ませられながら、食に餓え、連日敵機の襲来を受けて幸にも九死に一生を得て祖国
に帰国できた。
”軍隊は運隊だ”という言葉が戦争中あったそうだ。軍隊はその人の持つ運命に左右され
るという意味だ。松尾さんは幸運だったがこの本の後書きで”かって少年たちが戦場に狩り
出され、祖国の栄光を信じて無念の死を遂げた時代があったことを後世に伝えたい”と書か
れている。昭和も次第に遠くなりつつあるが、僕も松尾さんとほぼ同世代,同じ思いである。
著者は長野県の塩尻出身です。高等小学校2年(今の中学2年)を卒業した4月に試験に合格、海兵団に入団しています。強制ではないのですが、当時田舎の高等小学校では、なんとはなく志願で軍隊へ行かなくてはならない空気があったようです。僕の学年でも幼年学校や飛行学校へ行った者もいますが、僕は近眼だったので最初からそのつもりはありませんでした。
僕より1学年上の人で満蒙開拓団に応募、敗戦後
ソ連によってシベリアへ連行されて昭和25年まで強制労働に従事した人もいます。戦争があと数年続いたら、僕もこの世になかったかもしれません。