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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

文革から50年 追放された同僚

2016-06-23 05:10:55 | 2012・1・1
産経新聞が連載中の「検証文革半世紀」の昨日(6月22日)の紙面に同僚だった柴田穂記者(故人)が紹介されてた。柴田記者は文革が始まった昭和41年(1966年)6月から翌42年にかけて北京に滞在、中国情勢を取材していたが、同年9月”好ましからざる記者”として中国政府から追放された。その原因の一つは、彼が滞在中、紅衛兵らが書いた「壁新聞」を日本に送信したからであった。

柴田記者とほぼ同じ時期、僕はジャカルタに滞在、9.30クーデター未遂事件(60年9月)後の”スカルノからスハルト”への権力移行期の政治混乱を取材していた。僕は67年6月帰国、柴田記者が追放された9月までの3か月、外信部のデスクとして、柴田記者が北京から送ってくる「壁新聞」を受けた。あの時代から50年、感無量なものがある。

当時の外信部は、海外特派員も少なく、テレックスから流れる外電の”横文字”を”縦”の原稿の翻訳にするのが主な仕事であったため、同じ編集局からは”材木屋”と、多少ヤッカミもあって悪口を言われていた。事実、当時の外信部記者の中には取材経験のない記者もいた。その点、柴田記者は国内支局勤務の経験がったし、何よりの強みは中国生まれで、大学の専攻も中国語であったことだ。

柴田記者は、ニュース源の「壁新聞」を日本語に翻訳しローマ字化して、時には表現は悪いが、”馬に食わせる”ほど大量に東京に送電してきた。締め切り時間に追われながら、僕は全文を読み、要点をつかんで短くするのが大変な作業であった。もちろん、彼が送ってきた「壁新聞」全文は破棄されて今はないが、歴史的に貴重なものがあったかもしれない。

62年、僕が初めて海外取材に出かけた時、柴田記者が”買うにはもったいない”と僕に自分のスーツケースを貸してくれたことを想い出す。文革から半世紀。柴田記者が逝っからもすでに、24年の月日が流れた。