「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

興安丸 昭和の記憶遺産

2015-10-20 05:47:38 | 2012・1・1
先日、日本人と結婚してもう長いメダン(インドネシア)生まれの女性Mさんと話す機会があり、僕が昭和41年(1966年)メダンの外港ベラワンからジャカルタのタンジュンプリオク港まで、当時インドネシアで就航していた興安丸に乗船した想い出話をした。ところが、当然知っていると思っていたMさんが興安丸の名前を知らないのに驚いた。無理もない話だ。1959年生まれの彼女はまだ7歳、知るわけはない。すでに半世紀近い昔の話なのだ。

興安丸ぐらい昭和の歴史を象徴する船は少ないないのではないか。昭和12年、鉄道省(国交省)の関釜(下関―釜山)連絡船第二号として建造された。当時、朝鮮半島、支那大陸(満州)とを結ぶ幹線ルートであり、乗船客で賑わった。興安丸は幸い戦争でも敵の攻撃や地雷からも免れ終戦まで無事だった。戦後はすぐに大陸からの引揚船にチャーターされ、昭和33年、シベリア抑留者の最後の引揚げまで就航した。昭和34年、お役を終え、民間(東洋郵船=横井秀樹社長)に売却され、一時は東京湾の遊覧船にも使用されたが、36年からはインドネシアの国内航路に就航、回教徒の巡礼月にはメッカ巡礼船にも使われた。

昭和45年、34年の波乱の”人生”を終えて、興安丸は三原港で廃船となり解体された。今、その錨の一つが三原市内の公園に、別の錨とコンパスが興安丸ゆかりの下関の公園に、また時を告げた鐘が東京の交通博物館に別々に保存されている。先日、「舞鶴の生還」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたが、興安丸は、日本人のとっては永遠に記憶として残しておきたい遺産の一つである。