「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         忘れられない勝ち戦であった昭和17年

2012-03-16 07:04:36 | Weblog
馬齢を重ねると、その年1年間、何があったのか思い出せない年も出てくる。が、70年前の昭和17年(1942年)は僕にとって忘れられない。恐らく僕だけではなかろう。大東亜戦争の緒戦の勝利で、日本中が湧き立っていた。例えば、亡父の3月9日の日記には”蘭印(インドネシア)の蘭英豪連合軍、9万3千人全面無条件降伏”と赤字で記されており”何と愉快ではないか。あとは豪州、ニュージランド、それから米英”とコメントしている。

当時小学5年から6年だった僕は家の壁に貼ってあった大きな世界地図に日本軍が次々に占領してゆく町の名前を赤く塗りつぶしていった。僕だけではなく、その頃の小国民は同じようにしたものだ。1月2日のマニラ占領に始まってセレベス、ラバウル上陸、2月にはパレンバンへの落下傘部隊降下、シンガポール占領、3月1日にはジャワ上陸、わずか10日足らずで敵軍が降参、4月にはコレヒドール半島が落ちてフィリピンの米軍が全面降伏ー連戦連勝であった。この勝ち戦ムードが一変したのが6月5日のミッドウェー海戦だったことを国民は戦後になって知った。

戦争中は戦況について大本営から発表があり、NHKのラジオが伝えた。緒戦の頃は勇ましい軍艦マーチに乗って報道部長の元気な声が流れてきたことをよく覚えている。亡父はいちいち、これを日記の端に記しているが、なぜかミッドウェー海戦の記述がなく、代って”潜航艇マダガスカル、シドニーを襲撃の公表あり”と記してある。

ミッドウェー海戦で山本五十六海軍大将が率いる連合艦隊は、主力の空母「赤城」など4空母と艦載機253機を一挙に失った。しかし、この敗戦については、亡父の日記のは記されていない。調べていないが、多分大本営からの発表はなかったかあるいは、虚偽の発表があったのだろう。それにしても緒戦時には、インド洋上の艦載機がコロンボ(スリランカ)を空襲したり、遠くアフリカ、豪州まで潜航艇が遠征したり、今考えると、いたずらに戦争の版図を広げていたものだ。