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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

バンドン会議60周年 「日本の反省」

2015-04-18 10:43:14 | Weblog
NHKラジオの早朝コーナー「今日はなんの日」で、今日が60年前インドネシアのバンドンで開催された「アジア.アフリカ会議」(AA会議)の始った日の事を改めて知った。当時、僕は新聞社の”駆け出し”記者だったが、一つ疑問に思い不満があったのを今でも鮮明に覚えている。それは、この会議にアジア.アフリカから29か国が元首.首脳を派遣しているのに、わが国からは総理(鳩山一郎)も副総理(重光葵)も不参加だったことである。

バンドン会議は米ソ二大国の冷戦下、欧米植民地支配から脱却したアジア.アフリカの新興国を中心に”第三世界”を目指して開催されたという意味で画期的な会議であった。開催国のスカルノ(初代大統領)を初めインドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセルなど、そうそうたるメンバーなのに対して、わが国からは高崎達之助氏(経済審議庁長官)が代表であった。正直いって、僕は代表としては、高崎氏には失礼だが格落ちではないかと思った。

アジアの欧米植民地からの解放、「大東亜共栄圏」の確立を標榜して戦ってきた我が国である。言ってみれば、その理想がやっと結実して開かれたともいうべき会議である。しかし、当時はまだ戦後10年、敗戦からの呪縛から、完全にとけていなかった。それに外務大臣の重光葵氏が、戦時中の東條内閣の時代の外相であって昭和18年の「大東亜共栄圏」会議の主唱者であった。今、思うと、これが変な遠慮となって、高崎氏を代表に決めたのかもしれない。

バンドン会議60周年を記念して22日からジャカルタで国際会議が開かれ、安倍総理も出席5分間演説する予定である。安倍総理は、今こそ先の戦争のわが国の大義が正しかったことに触れることはあっても、決して、会議で”反省”や”謝罪”などすべきではない。

"モーレツ”時代 単身赴任の想い出

2015-04-16 05:42:53 | Weblog
今日これから高速バスを利用して郡山の昔お世話になった民放テレビ局のOB会に出席する。たった2年間の勤務だったが、会社の創業時で、また個人的にも記者職から営業職への転換期だったこともあって想い出が一杯だ。45年前、高度成長が始まった頃で、テレビのCMには、ミニスカートの女性が強風にあおられ”モーレツ”と叫んでいた時代だ。

もう死語に近くなったそうだが”チョンガー”という言葉があった。朝鮮の昔の独身男の髪型「総角」が語源で、本来は男性の独り者への侮蔑語だったらしいが、戦後、日本では広く独身男性一般を指し、それからとくに、単身赴任の企業戦士にも汎用されるようになった。僕も郡山へは単身赴任で、「郡山」の”郡”と”チョンガー”の「チョン」をとって「グンチョン」と呼ばれたりした。

まだ新幹線以前で、東京―郡山間は特急で2時間40分かかった。週末、仕事が終わると、僕は汚れた洗濯物をカバンに入れ東京の自宅に帰り、月曜日の一番で、これを持って郡山に帰る生活が続いた。まだ地方都市では珍しかったマンションを同僚とシェアーで借りたが、今のようにコイン.ランドリーなどなく電気釜も電気掃除機もなかった。

テレビの営業といっても当時、UHF波を内蔵したテレビ器機はあまり普及しておらず、僕らはVHF波をUHFに転換するコンバーターと、受信のアンテナの販売から始まった。4年前の大津波で破壊された国道6号にそって、キー局払い下げの中古の中継車に乗り、開局ソングを流しながら電気屋さんめぐりをしたのが懐かしい。

急ぐ旅でもない。今回高速バスで出かけることにしたが、片道4時間すこしで行ける。それの方が僕には懐かしい。沿道には昔、スポンサー開拓で走りまわった造り酒屋や味噌屋の、古い建物が残っている。あのころは日本の経済も右肩上がりで、僕も元気であった。

「民主党」は”落選”印なのか

2015-04-15 05:04:23 | Weblog
統一地方選挙前半の結果分析が新聞に出ていた。僕が驚いた一つは、これまで地方議員の経験者が国政に”スッテプ.アップ”するのが、常識だと思っていたのだが、その逆の現象、つまり、国政の経験者から地方議員に”スッテプ.ダウン”した方が16人もおり、うち11人も当選したことだ。11人の内訳は民主党在籍者が5人と一番多く、さらに驚いたのは、うち4人までが、党籍を離れ無所属で当選していることだ。

東京も26日の後半の統一選挙(区議選)を控え、わが家にも告示前だというのに、毎日、支援依頼の電話がかかってくる。郵便受けにも自民党から共産党まで、それぞれの区議会の活動状況をしらせるパンフが入っているが、何故か民主党のがない。疑問に思って調べてみたら、区議会の会派構成には、民主党がない。自民、公明、共産三党だけで、あとは地域会派と無所属である。4人、民主党議員と思われる人たちがいるが、何故か民主党ではなく「刷新」を名乗っている。

前半の統一選では民主党は惨敗している。特にひどかったのは大阪で8議席あった府議会の議席が1議席に減り、市議会では全員落選したという。「大阪都構想」の論戦の中で”かやの外”だったのかもしれないが、最大の敗因は最初から”勝ち目がない”と判断したのであろう。全国的に候補者を絞ったことだ(いなかったのかもしれない)。

民主党公認の国会議員から今回、兵庫県議に転進、当選した向山好一氏は”民主党は国会での反転攻勢も必要だが、地域からもう一度出直すべきだ”と新聞で語っているが、政治家(政治屋)にしてみれば、まず生活してゆかなければならない。沈みかかった舟に、いつまでもしがみついている訳にはいかないのだろう。

空襲の焼跡で”焼きゴメ”を食べあった友人の死

2015-04-14 05:32:52 | Weblog
67年前に卒業した母校(旧制中学)から同窓会報が届いた。僕らの卒業時には東大へ一人しか入学しなかったのに、今年は現役で17人も合格している。すっかり進学校に様変わりした母校である。出来の悪かった先輩の一人だが、素直に誇りにし、喜んでよいのだろう。その一方”お悔み申し上げます”の欄に、戦中戦後の時代に苦労を共にした仲間の訃報が多くなってきたのは悲しい。

C君の名前も載っていた。彼の訃報を聞いて想い出すのは、戦争中の勤労動員時のことばかりだ。ちょうど70年前の今頃、僕らが動員されていた六郷(東京の蒲田区=当時)の軍需工場が空襲で焼けた。僕と家が近かったC君は、翌朝5キロの道を歩いて工場へ駆けつけたが、全焼で子供たちには、なすべもなかった。僕らは工場の食堂があった場所へ行き、”焼きごめ”を集め、口にしたのを覚えている。とても食べられるものではなかったが、空腹の一時の足しにはなった。

想い出の舞台は一転して千葉県の利根川運河の江戸川河口。工場が焼けた後、僕らは家を離れ、ここで敵の上陸に備えて運河の浚渫工事に従事していたが、食べ盛りの僕らは毎日空腹で苦しんだ。運河の名も知れない魚を釣って食べたり、木の上にたむろしていた蛇を捕まえ焼いて食べたりしたが、いつもその場面にはC君がいた。

数年前、動員時を偲んで当時のクラスだけで会を開いた。かっての軍需工場跡へ行き、その後一緒に飲んだが酒豪が多い。戦中戦後の食糧難時代を体験したためなのだろうか。C君もそうで、この会の後、体調を壊したと聞いている。同じ酒飲みであった僕も、やはり入院を重ね今では、酒を慎んでいる。加齢と共に、人間自然にそうなるのであろうか。合掌。

ダイヤモンド婚(60年)式を祝う

2015-04-13 05:34:25 | Weblog
今日は僕ら夫婦にとって結婚60年ダイヤモンド婚記念日である。正直言ってあっという間の60年であったが、やはり、振り返ってみると長い歳月である。60年間に僕は膀胱ガンで4回、大腸ガンで1回、そのほか人工関節置換手術など7回も入院している。しかし。こうして二人が元気にダイヤモンド婚を祝えらるのは、ひとえに妻の献身的な支えがあってからのことだ。

僕らが結婚式を挙げたのは昭和30年4月13日、僕は24歳、妻は22歳の若さであった。当時でも早婚であった。僕は学校を出てまだ2年目の安給料取りであったが、両親が遅い子持ちで当時すでに60歳代後半であった。僕の心のどこかに、両親に早く孫の顔をみせたいという気持ちがあったのかもしれない。

敗戦から10年、経済はやっと高度成長の兆しが見え始め「電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビ」の三種の神器が言われだした時代だったが、もちろん新婚のわが家には一つもなかった。東京の23区内でも都市ガスがまだなく、家には内風呂もなく、銭湯に出かけていた。結婚式は、いちおう、すべて親がかりで結婚式場で挙げたが、近親者だけの「家族婚」で、友人は一人も招いていない。新婚旅行は伊豆の温泉に一泊しただけであった。

ダイヤモンド婚を迎えたのに、僕は妻にダイヤモンドをプレゼントしたことはない。多分、これからも贈る予定はないが、たまたまネット上に”配偶者がダイヤモンド婚にあたり贈る言葉の例が紹介されていた。「君はいつも人(僕)の事ばかり心配して自分の事は二の次にしている。これからは君のために尽くすから,いつまでもずーつと一緒にいてほしい」-歯のうくようなキザの言葉だが、正直、これが僕の今の本心である。

「大東亜戦争とマレー、昭南、英領ボルネオ 虐殺の真相」

2015-04-12 05:15:31 | Weblog
終活の一つとして、この10年来温めていたテーマ「大東亜戦争とマレー、昭南、英領ボルネオ 虐殺の真相」がやっと本になり昨日、出版社から届いた。僕はこの本の中で、敗戦後、進駐軍の命令で墨で消されたまま、歴史の舞台から消えてしまった、マレー.シンガポール作戦を、若い世代の方々に紹介する一方、3年余の軍政下で起きた”粛清”という名の虐殺の真相についても知って貰いたかった。そして、さらに敗戦後、この地域で軍関係者が味わった苦難も後世に記録として残したかった。

僕がこのテーマに関心を持ったのは、10年ほど前、当時流布されていたスマトラ.ブキティンギでの労務者虐殺の虚妄について、第25軍司令部戦友会の方々と知り合ってからだ。第25軍はブキティンギに移駐する前、、マレー.シンガポール作戦に従軍した部隊である。彼らにとっては、戦争の記憶といえば、大勢の犠牲者を出した緒戦の上陸作戦であり、頂戴した戦友会誌も大半はその時の記録であった。

以来、時間を見て僕は知り合いの戦友会の方々から当時の模様について聞き取り調査をする一方、現地へも何度か足を運んだ。それで解かった事の一つはシンガポールで占領直後起きた”粛清”という名の華僑虐殺が、マレー各地でも発生、これは日本軍による華僑抹殺計画に基づくものだという説が、堂々と日本の有名な出版社から出ている本の中にも記述されており、マレー各地の大都市で数千人単位で虐殺されたと書いてある。もちろん、そんな事実はない。

最近「歴史戦」という言葉をよく聞く。しかし、過去の歴史を知らないで、これに戦うことはできない。小著は日本側の資料だけでなく、相手側の資料も照合して書いたつもりである。すこしでも「歴史戦」にお役に立てば幸いである。

(出版社)朱鳥社 ☎03-5358-3984 FAX 03-5358-3986 定価本体1500円+税

ノー.ネクタイの男性アナに抵抗感 TPOを考える

2015-04-11 05:32:21 | Weblog
TPOという和製英語がある。Tは時間(Time),Pは場所(Place)、Oは場合(Occasion)の頭文字をとったもので、時と場所と機会に応じて服装を合わせるという意味だ。その昔、男性の服飾雑誌「VAN」の編集長だった石津謙介の造語というから、かなり昔からあった言葉だ。そのTPOの基準が最近変わり始めて来た感じがするがどうだろうかー。

”公共放送”NHKのニュース番組のアナウンサーにノーネクタイが目立ってきた。僕の旧来のTPO感覚でいえば、ニュースは”お堅いもの”、だからラフな姿ではいけない、というものだった。アナウンサーは、ノーネクタイだが、ポケットタイをしておしゃれなつもりかもしれないが、おしゃれと礼儀とは違うのではないだろうか。それでいて、プロ野球放送のアナが、きっちり背広を着てネクタイを結んでおり、解説者も同じ姿だ。

先日テレビの国会中継を見たら、民主党の女性議員がオレンジ色の服を召されて”政治とカネ”の問題を追及されていた。オレンジ色は例の「イスラム国」の処刑場面があってから、何か抵抗感があるのは僕だけではないのではないだろうか。この女性議員には抵抗感はないのだろうか。そうだとすれば、かなり鈍感な持ち主である。

民主党政権の鳩山由紀夫元首相は沖縄訪問時、いつも琉球伝統の「カリユシ」シャツを着ていた。たしか閣議でも全閣僚が「カリユシ」を着ていたことがあった。さすが”最低でも県外”と言われた総理の党だけに”変な沖縄への”配慮があるものと感心したことがあったが、鳩山元総理の自己流のTPO解釈から「カリユシ」を召されたのであって、違和感があった。

天皇皇后両陛下がぺリリユー島慰霊のニュースを伝えるニュースのアナウンサーが、ノータイなのは古い頭の僕にはやはり、違和感がり抵抗感があった。

半月遅れの80老人の花見と”こしかた”の想い出

2015-04-10 06:03:39 | Weblog
昨日、近所に住む70年来の”竹馬の友”に誘われて駒沢五輪記念公園へ散歩に出かけた。桜の花は開花してからすでに半月、ほとんどが散り、葉桜に変っていたが、まだ何本か遅咲きのものがあり、僕らはスーパーから、おにぎりと缶ビールを買ってきて、半月遅れの花見を楽しんだ。

土日にはジョギングやサイクリングで賑わう園内も、平日のせいか人もまばら、遊具の下で遊ぶ保育園児や、近くの学校の生徒たちが広場でフットサルをしているぐらいで閑散としていた。数年前まで、友人は強脚を誇り公園内を一周したり二周したりしていたが、腰を痛めコルセットをしていて、長く歩くと痛みが出てくるという。僕も自転車に乗って友人の歩きのお付き合いが出来たが、膝の手術で今は出来ない。

二人は遅咲きの桜の花吹雪の下で、”こしかた”の想い出を語ったが、どうしても天皇.皇后両陛下のぺリリュー島慰霊の旅もあり、中学生だった戦時下の話になった。70年前の4月15日の京浜大空襲で、僕らが動員されていた六郷(大田区)の軍需工場は灰塵にきした。友人の家は、この空襲にもあったがやっと火の手を食い止めた。しかし、結局5月23日の山の手大空襲で全焼してしまった。

広場でフットサルを楽しんでいる子供たちは、ちょうど僕らが軍需工場で旋盤を回していた当時と同じ年齢である。元気いっぱい、彼らは喜々としてボールを追いかけている。つくずく平和な好い時代だと思った。70年前、僕らが彼らと同じ年頃には軍需工場で旋盤を回し、豆粕まじりのおにぎりで空腹を満たしていた。スポーツどころではなかった。

今朝友人からメールが届いた。「久しぶりの散歩。気分爽快、楽しい一日でした」 まさに僕も同感の一日であった。

渡航禁止地域へ何故行くのか 中国軍艦に救助されたイエメンの日本人

2015-04-09 06:41:12 | Weblog
菅義偉官房長官の定例記者会見で日本人旅行者の一人がイエメンのソコトラ島から中国の軍艦に助け出され隣国のオマーンに脱出した旨明らかにした。菅官房長官によれば、この脱出行は、わが国が中国に依頼したものではないそうだが、日本の在イエメン大使館はすでに2月に閉鎖され、在留邦人に対しては退避勧告が出されている。なのに、まだ日本人旅行者が、のこのこ、この国にいたとは驚きである。

ソコトラ島とは聞いたことがないが、アラビア半島から300キロの洋上に浮かぶ小さな島で”インド洋のガラバコス”と呼ばれているそうだ。その生態系の珍らしと、古代ローマ時代の遺跡もあって世界遺産にも指定されているとのこと。おそらく、中国軍艦によって助け出された日本人は、観光客と思われるが、昨年来イエメンの政情がどうなっているのか、自国の大使館が閉鎖され、邦人に対して退避勧告が出ているのを知っていたはずである。怖いものしらずというのか、あまりにも身勝手な行動だ。

テレビの報道番組をみていたら、シリアへの渡航を望み、パスポートを返納させられたフリージャナリスとに新しく、渡航先限定のパスポートが交付されたという。フリージャナリスとがこれを受領するかどうかは明らかではないが、まさか許可された渡航先にイエメンは入っていないだろう。渡航先限定の旅券は今に始まったものではない。僕が初めて得た報道者用旅券(昭和37年10月)には”Countries for which this pasport is valid"(旅券有効な国々)として、訪問先の国を中心に23か国の名前が明記されている。これには冷戦時代を反映してか共産国やイスラエルの名前は載っていない。

今は好い時代で、おカネと時間さえあれば、どこの国へでも行ける。しかし、国が出かけないほうがよいと勧告している国には行かない方がよい。命あってのモノダネである。




戦後2年経ってから帰国したペリリュー島の生存者たち 軍隊は「運隊」

2015-04-08 05:55:30 | Weblog
天皇.皇后両陛下が8,9の2日間、パラオ共和国を公式訪問し、先の大戦の激戦地、ぺリリユー島での戦没者慰霊祭にも参加される。ぺリリユー島では昭和19年9月から11月までの70日余、上陸してきた米国軍と島を守備していた第14師団歩兵第2連隊ほかの部隊との間で激しい戦闘が展開され、約1万人の日本軍兵士が玉砕戦死した。僕は両陛下とほぼ同じ世代だが、恥ずかしながら最近まで、ぺリリュー島の名前を知らず、この玉砕も知らなかった。

両陛下の慰霊の旅を知り、改めて家にあった「ニューギニア戦線に消えた 悲運薄命の南洋第6支隊」(家永尚喜著 平成10年 星雲社)を読み直してみたら、この部隊は第14師団が玉砕する前の同じ年の4月までぺリリュー島に駐屯、兵要地誌の調査に当たっていた、その後、ニューギニアに転進したが、ぺリリユー島で全部隊が全滅する前に、家永氏が属していた南洋第6支隊は、飢餓と病気でほとんどの兵士が亡くなっている。

戦争に従軍した兵士の間では「軍隊」は「運隊」だと自嘲的に言われていたそうである。家永氏の本の中に、ぺリリユー島の第2歩兵連隊22人と海軍西カロリン航空隊12人が、戦後の昭和22年4月、米軍に投降したという記事があった。この人たちは戦後2年間も島内の洞窟やマングローブの樹上に櫓(やぐら)を建てて生活していたのだという。たんなる戦闘の生存者ではないのである。まさに「軍隊」は「運隊」である。家永氏は”ぺリリユー島に残っていても、ニューギニアに転進しても当時の南太平洋戦線では同じであった。ただ死に場所が違うだけだった、と述懐している。2年間、洞窟の中で苦労され無事帰国できたのも「運隊」なのであろうか。なお、ぺリリユー島の戦闘では202人の日本兵が捕虜になっている。