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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(25)

2012-03-05 | 「アズミックアート物語」21~ その後
学生時代に東北の「恐山」に旅をしたことがあります。この地に立ち寄ると必ず「もう一度来る」と言われているそうですが、その頃はまさかと思っていました。一度見たらもう十分と感じていたからです。
でも、何とその後何十年も経ってからやっぱり行くことになってしまいました。つい何年か前のことですが、趣味の会の親しい人が亡くなって、仲間たちと一緒に彼女を偲ぶ旅をすることになったからです。

そういうわけで「恐山」にもう一度行ってみると、かつてはいかにも殺風景でもの寂しい辺境(異境)の風景で少々重苦しい感じでしたが、それがすっかり「観光地」?のように変化していて、夕方に寄ったにも関わらず何だか軽く明るいイメージで拍子抜けしました。(もしかしたら単に「私の感じ方の変化」によるのかもしれませんが)

最初の時も二度目の折も私は「イタコ」の口寄せ(降霊)は経験していないのですが、(また別の友達が亡くなった時に)その娘さんがお母さんと話したくて関西からはるばる「恐山」まで行ったという話を告別式の折に聞きました。
20代の彼女がそんなことを!?ととても驚きました。

現在では「恐山」までわざわざ行かなくても、例えばチャネリングや「ヘミシンク」などで亡くなった人からのメッセージを聞くことも可能なようですが、「イタコ」(霊媒)は今の言葉で言えば「チャネラー」なのかもしれません。

東日本大震災で家族や親しい人を亡くされた方々がどういう手段や方法であれ、もしも亡くなった方が今も元気で別の世界に暮らしていて、遺された者たちを見守ってくれているとわかれば、どんなに安心し、また少しでも未来への勇気が湧くことでしょうか。
そのためにも優秀なチャネラーがもっと増えるといいなと願っています。

優秀なチャネラーをどうして見分けるか?は難しいですが、個人的な体験から言うなら、ほんとに力のある人の前に出ると(安心して?)ただただ涙が流れます。「気持ちよく泣くことが出来る」というか、「泣かせてもらえる」気がします。泣くことでとても癒されるのです。

例えばかなり昔のことですが、東京でダライ・ラマ法王の講演を聴いたことがあります。その時法王が舞台に出て来られただけで、もう私は涙、涙でした。

またこれもずっと古い話ですが、ある女性のカウンセラーにカウンセリングを受けた時にも、話そうとするだけでなぜかもう涙が止らず、自分でも思いがけなくてビックリしたことがあります。その時も好きなだけ泣かせてもらえてとてもありがたかったです。

(その時は特に何か悲しい出来事があったというわけでは無かったのですが)絵を描いてみると、「空がほとんど見えず、地面の中に涙袋が幾つもあって、その袋がひっくり返る(裏向けになる)とその中の涙=水がこぼれ出て、木の根っこがそれを吸収してくれてその木が大きく育っていく」という構図になっていました。
(この絵はたまたまこの場で描いたもので「ヒーリングアート」とは関係ありません)

そしてそのカウンセラーの方が私の絵を見つめながら、もっと「言葉」で感情が伝えられるといいわねと、その感情の発散の仕方や、私のそれまでのコミュニケーションのパターン(癖)や人間関係の持ち方などを分析しながら、「どういうふうにすれば相手に自分の気持ちをうまく伝えることが出来るか」ということなどを教えてくれたのでした。
もともとかなり「感情的」になりやすい私でしたが、それは「言葉」でうまく言えないからだということもよくわかりました。

子供の頃に自分の気持ちを話そうとすると親に「理屈を言うな!」と叱られたり、「ワガママ」だと決めつけられて、「上手な自己主張」を学ぶ機会の少ないまま大人になってしまっていたのだと思います。
この時受けたカウンセリングのおかげで、(その後何十年もかかりましたが練習して)今は何とか「言葉で」言えるようになりました。

これは言わば「英会話」の練習と同じようなものかもしれません。
「日常会話」に不自由しない程度には何とか話せても、まだまだ私もペラペラというわけではありません(笑)。
他のことは話せても、例えば「自分の気持ちを正直に伝える」というのは本当に難しいことだと思います。

それからもう一つ、阪神淡路大震災後に広島に移り住んで一人暮らしをしていた時、将来の展望も見えず、職業訓練校に通うことで延長してもらっていた失業保険が切れたら収入も無くなるし、40代の後半では新しい仕事を見つけるのも難しく、友達も出来ず、おまけに訓練校では全く勉強についていけず落ちこぼれて、全くの八方塞がりでした。
(この頃は「線描画」は描いていても、「自分のための絵」や「ヒーリングアート」を描くことなどは思いもかけませんでした)

それでもともかく「自分で選んだこと」だから、逃げ出すわけにはいかず、「関西に舞い戻ることを自分自身に禁じていた」ので、ほんとにつらく苦しくて毎日泣いていました。今から思えば震災後の「鬱症状」だったのかもしれません。
相談する相手もいなくて、とうとうあるカウンセラーの「オープンカウンセリング」を受けました。

「戻りたいけどそれは現状から逃げることだと思えて、、」と相談したのです。
そしたら「逃げたらどうしていけないのですか?逃げたらいいんですよ。正攻法だけで無く、ゲリラ戦法だってあるのですから」と淡々と言ってくれたのです。
「そうか、逃げてもいいのか!」と思った途端にドバッと涙が噴き出して止りませんでした。

「オープンカウンセリング」なので周囲に人が輪になっていて、カウンセラーと私(クライエント)の話を聴いているのですが、恥ずかしさも忘れて大泣きしてしまいました。
そんなに泣いたのは久しぶりでした。実は関西では泣けなかったのです。
周囲の人たちが誰もがみんな凄い被害に遭っている(身内を亡くしたり、家を失ったり、仕事を失ったり、、)そんな中で、自分は「まだましな方」で、被害もそれほどでは無かったから、だから「自分のことは言えない」状態だったのです。
大した被害にも遭っていない私ごときが泣くなんて「おこがましい」という気持ちでした。
それどころか人をもっと助けるべきなのに、私は何もせずに「自分のことしか考えていないじゃないか」と、内心自分を責めていたのです。

この欄にもすでに書いたかもしれませんが、私が「うちはこんな状態、、」と言ったところ、それをわざわざ確かめに来て「うちの方がこれよりもっとひどい、こんなもんじゃない」と比較されて以来、心が深く傷付いていたのかもしれません。
また当時住んでいたマンションからすぐに避難したことで、「逃げ出した」と言われて恥ずかしく思っていたこともあったのです。
そんなひどい状況の中でも踏ん張って留まっていた人もたくさんいたのですから、、。

そんなこんなで、自分は我慢が足り無い、忍耐が足り無い、もっと辛抱しなければ、、と思う気持ちがストレスとなっていたのかもしれません。その時にカウンセラーからの一言で「心のしこり」が溶けてようやく泣けたことで、ほんとにどれだけ気持ちが楽になったかもしれません。

東日本大震災で被災された方々の中にも、もしかしたら当時の私のような状況に置かれている方がいるとしたら、どうか思い切り泣ける人に出会えることが出来ますように、そして心が解放されますようにと願っています。

話はまた前に戻りますが、ほんとうに優秀なカウンセラーは決して「恩着せがましくは無い」ということです。
あるカウンセラーから聞いた話ですが、街でかつての自分のクライエント(お客様)にばったり出合って、「先生、その節はお世話になりました」と深々と感謝されるようなら、「まだまだ自分はダメだ」と。

その人が「自分で勝手に治った」と思って、「あんな先生のところに通ったけど何の役にも立たなかった、フン!」とばかりに顔を逸らして挨拶も感謝もされない時にこそ、「やったあー、大成功!」と心秘かに祝杯を挙げるのだと。

それこそがその人がカウンセラーから真の自立(自律)を果たした時なのだから、と語っておられたことが印象に残っています。
そうでなければ(たった一度カウンセリングを受けただけで?)ずっとそのカウンセラーに頭が上がらず? 一生「対等」な関係になれなくなってしまいますものね。
病気が治れば医者は要らないように、「依存心」を克服し、「マインドコントロール」からも一切自由でありたいですね。

かく言う私も長い間そのような状況を経験したので、(今も完全とは言い難いですが)だからこそこれまでの経験を活かして、自分が学んだことをせめて人に伝えていけたらと、拙いながらこのようなブログを書いていますが、果たしてお役に立っているやら?

作家の加治将一氏によれば「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」のだそうです。
さしづめ私は後者の「体験派」なので、賢明なる読者の皆様方はどうぞ真実の「歴史」に学んで下さいますように、、。


下記の絵は『ゴールデンエイジ』です。(無断転載やコピーはご遠慮ください)






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