あずまクラブ(越前の守)です。正しい心の探究をします。

”人間は夢とロマンを持つから動物とは決定的に違う”から始めます。正しい心の探究です。

「病気の時に読む言葉」⑳ 他人の罪を赦し、悪態をも許そう。

2024-04-07 19:21:19 | 日記
箴言集 「病の時に読む言葉」 大川隆法 著

「病気の時に読む言葉」⑳ 他人の罪を赦し、悪態をも許そう。

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 ネット検索をすると、「許す」はこれから行う行為を認めること、「赦す」はすでに行った行為の失敗を責めないことです。とありました。

 自分がその立場であったならば、同じ罪を犯し、悪態をもつくであろう。と思うのが慈悲深い人柄になります。
そうです、その人の立場になれば、自分もしたであろうと思えば、赦しの思いがでてきます。
でも法律は、冷たく同じ罪を犯さないようにするのが人間の知恵です。
やはり世間の赦しをもらうためには、罪を補わなければなりません。
刑期を終えてシャバに出てきたら、再犯を恐れて偏見でみるのが世間です。
偏見をなくして普通に付き合える姿勢が赦すことになります。
偏見があると「やはり俺はだめな人間なんだ」「レッテルを貼られたらその通りにしてやるぞ」と再び罪を犯すことになります。
本人の再犯ををなくす事が本当の社会更生になりますから、赦すという行為が再犯を防ぐ事になりますね。

 人間はこの世へは魂を磨くために何千万回、何億回も生まれ変わって来ています。その中には幾度となく殺し殺されの人生が1つや2つくらいは誰でもあるはずです。
 また生まれ変われるということは、反省をしたからです。地獄から生まれることはできないのです。反省から涙を流し、殺された側の悲しみを経験し、殺す側の憎しみの苦しさを経験し、両方の苦しみ悲しみを経験しているはずです。その学びをすると地獄から脱出でき天国へ行けて、また人間に生まれることを許されます。
そして同じ過ちをしないか、するか?魂の訓練が続くのです。自分も同じ罪を犯したときがあるのですから、赦そうということなのです。

 イエスが「我が父よ」といわれたのは創造主エル・カンターレです。その創造主から地上に派遣されたイエスの言葉に、罪を犯した罪人に石を投げ用とする人に、「なんじら罪を犯していない人だけが石を投げても良い」といわれた時も誰も石を投げられななかったと聖書にあります。
 そもそも創造主エル・カンターレは最初から許しているのです。反省をしたら魂の向上ができるということです。罪を犯した魂を消さずに、そのまま続けさせていただける愛があるのです。反省するのを気長に待っておられるのです。

反省をする人間は赦されるのです。
これが神様の慈悲です。



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