小さい頃から、家庭で、学校で、よく言われたものです。
「相手の立場になって考えなさい」とか、「相手の気持ちを想像してみなさい」とか。
私も、きっと、時々、夫や息子に言ってるんだろうな、と思います。わけ知り顔で。
まあ、それは多少のご愛嬌ということにして、心のどこかでは、はっきりとわかっています。
いやー、それ無理でしょう。絶対無理でしょう、って。
だって、自分が相手の立場になっても、相手の気持ちを想像してみても、それは、どこまでいっても、自分がその立場に立ったときの、「自分の気持ち」を想像することでしかないのです。
相手の本当の気持ちなんて、どうしたってわかりっこない。
ずいぶん前に、茂木健一郎さん著「脳と仮想」を引いてこんな記事を書いたことがありますが、茂木さんも、やっぱりそんなことを書いています。
例えば、贈り物ひとつとったって、もらうなら自分は後腐れない消え物がいいと思っても、贈られる側はブランドの洋食器を望んでいるかもしれない。
自分のよかれ、が、相手のよかれ、と一致しない事が多いように、自分の気持ちと相手の気持ちが一致するとは限らないのです。
その人との付き合いが深くなれば、わかる部分は増えてくるだろうけど、人が変わっていくことを前提としたら、「わかった」は、いつ、「わからなくなった」に変わるともしれません。
自分以外の他人の気持ちは究極的にはわかりっこないのだったら、結局は、自分を基準にして生きていくしかないということだと思うのです。
自分の気持ちを想像する。これが早道であり、人との関係の王道だと思います。
でも、これ、簡単に見えて、実は難しい。私もなかなかやれてません。
こんな時、あんな状況で、自分がどんな気持ちになるか。
自分の気持ちに敏感な人は比較的容易に想像できるものですが、感情をおざなりにしていたり、何かを我慢していたり、自分を後回しにばかりしていると、自分の本当の気持ちがどこかに埋もれてしまい、自分だったら…という想像がうまく働かなくなります。
こんなことがありました。
縄跳びがなかなかマスターできない息子に、私はある時軽口を叩きました。
「◯◯君(友だちの名前)は、もうできるんだって。毎日練習してるみたいよ。偉いよね。◯◯(息子の名前)も練習した方がいいんじゃない?」
軽い気持ちで、息子と友だちとを比較をしたのです。その時、息子はただ黙っていて、すぐに違う話しを始めました。
そんな息子を見ていて、私の中にモヤモヤっとしたものが起こりました。息子はどう感じたのかはわかりませんが、私自身の中に、後味の悪い不快なものが残ったのです。
しばらくして、雑誌か新聞かで、こんな話しが載っていました。
子どもが、あなたと他のママとを比較したら、どんな気持ちになるか想像してみてください。
「◯◯ちゃんのママは、お仕事もしているのに、ちゃんと手作りのおやつまで作ってくれるんだって。ママは、働いてないのに買ったおやつばかりだね。少しは頑張ったら?」
こう言われて、あなたはどんな気分になりますか?
イヤな気分になるなら、あなたが子どもを誰かと比較する事は、そのイヤな気持ちを子どもに感じさせてるということです。
これが、私にはかなりのカウンターパンチでした。私は、普段、私の気持ちを把握できていなかったのだということ。具体的に言われて、ハッとしたのですから。
でも、気づいてしまえば、子供の頃の気持ちを思い出すまでもない。今の私で十分です。
私、比較されるの、すごくイヤです。子どもの頃もイヤでしたし、大人になってからも、変わらずイヤです。
そんな、自分がイヤと感じることを息子に強いたのだということ。
私の中にあった、モヤモヤや不快は、私の中のこの矛盾だったのだと、気づきました。自分がイヤなことを、息子にしているという。
それをきっかけにして、私の息子への接し方は、劇的に変わりました。
自分のイヤなことは、息子には強いない。
そうやって、常に、自分ならどう感じるか、ということを基準にするようにしたのです。
そうすると、叱り方も何かを促す時の言い方も変わります。自分が言われて心地よいもの、イヤな気分にならないものを自然に選択できるようになってきました。
もちろん、息子の気持ちも、結局はわからない。比較されるのが私みたいにイヤかもしれないし、実はそれほどダメージを受けてないかもしれない。むしろ発奮するタイプなのかもしれない。
でも、それって実はそんなに大きなことではないのです。
私が自分の気持ちを基準でやっていくと、少なくとも、私の中に、後悔とか不快な気持ちがのこらない。迷いが生まれない。こっちの方が、ずっと大事なのだと、感覚的にわかりました。
それがたとえ、息子のよかれ、ではないとしても、息子にも心地よいことなのだということが信じられます。息子が私から学ぶことは、「自分の気持ちを大切にすること。それを基準に生きること」で、十分なのだと思うのです。
子供を叱ったり、誰かに何かを言って、自分の中に不快なものが残る時、それは、自分の本当の気持ちを想像できない時なのかもしれません。
photo by pakutaso.com
「相手の立場になって考えなさい」とか、「相手の気持ちを想像してみなさい」とか。
私も、きっと、時々、夫や息子に言ってるんだろうな、と思います。わけ知り顔で。
まあ、それは多少のご愛嬌ということにして、心のどこかでは、はっきりとわかっています。
いやー、それ無理でしょう。絶対無理でしょう、って。
だって、自分が相手の立場になっても、相手の気持ちを想像してみても、それは、どこまでいっても、自分がその立場に立ったときの、「自分の気持ち」を想像することでしかないのです。
相手の本当の気持ちなんて、どうしたってわかりっこない。
ずいぶん前に、茂木健一郎さん著「脳と仮想」を引いてこんな記事を書いたことがありますが、茂木さんも、やっぱりそんなことを書いています。
例えば、贈り物ひとつとったって、もらうなら自分は後腐れない消え物がいいと思っても、贈られる側はブランドの洋食器を望んでいるかもしれない。
自分のよかれ、が、相手のよかれ、と一致しない事が多いように、自分の気持ちと相手の気持ちが一致するとは限らないのです。
その人との付き合いが深くなれば、わかる部分は増えてくるだろうけど、人が変わっていくことを前提としたら、「わかった」は、いつ、「わからなくなった」に変わるともしれません。
自分以外の他人の気持ちは究極的にはわかりっこないのだったら、結局は、自分を基準にして生きていくしかないということだと思うのです。
自分の気持ちを想像する。これが早道であり、人との関係の王道だと思います。
でも、これ、簡単に見えて、実は難しい。私もなかなかやれてません。
こんな時、あんな状況で、自分がどんな気持ちになるか。
自分の気持ちに敏感な人は比較的容易に想像できるものですが、感情をおざなりにしていたり、何かを我慢していたり、自分を後回しにばかりしていると、自分の本当の気持ちがどこかに埋もれてしまい、自分だったら…という想像がうまく働かなくなります。
こんなことがありました。
縄跳びがなかなかマスターできない息子に、私はある時軽口を叩きました。
「◯◯君(友だちの名前)は、もうできるんだって。毎日練習してるみたいよ。偉いよね。◯◯(息子の名前)も練習した方がいいんじゃない?」
軽い気持ちで、息子と友だちとを比較をしたのです。その時、息子はただ黙っていて、すぐに違う話しを始めました。
そんな息子を見ていて、私の中にモヤモヤっとしたものが起こりました。息子はどう感じたのかはわかりませんが、私自身の中に、後味の悪い不快なものが残ったのです。
しばらくして、雑誌か新聞かで、こんな話しが載っていました。
子どもが、あなたと他のママとを比較したら、どんな気持ちになるか想像してみてください。
「◯◯ちゃんのママは、お仕事もしているのに、ちゃんと手作りのおやつまで作ってくれるんだって。ママは、働いてないのに買ったおやつばかりだね。少しは頑張ったら?」
こう言われて、あなたはどんな気分になりますか?
イヤな気分になるなら、あなたが子どもを誰かと比較する事は、そのイヤな気持ちを子どもに感じさせてるということです。
これが、私にはかなりのカウンターパンチでした。私は、普段、私の気持ちを把握できていなかったのだということ。具体的に言われて、ハッとしたのですから。
でも、気づいてしまえば、子供の頃の気持ちを思い出すまでもない。今の私で十分です。
私、比較されるの、すごくイヤです。子どもの頃もイヤでしたし、大人になってからも、変わらずイヤです。
そんな、自分がイヤと感じることを息子に強いたのだということ。
私の中にあった、モヤモヤや不快は、私の中のこの矛盾だったのだと、気づきました。自分がイヤなことを、息子にしているという。
それをきっかけにして、私の息子への接し方は、劇的に変わりました。
自分のイヤなことは、息子には強いない。
そうやって、常に、自分ならどう感じるか、ということを基準にするようにしたのです。
そうすると、叱り方も何かを促す時の言い方も変わります。自分が言われて心地よいもの、イヤな気分にならないものを自然に選択できるようになってきました。
もちろん、息子の気持ちも、結局はわからない。比較されるのが私みたいにイヤかもしれないし、実はそれほどダメージを受けてないかもしれない。むしろ発奮するタイプなのかもしれない。
でも、それって実はそんなに大きなことではないのです。
私が自分の気持ちを基準でやっていくと、少なくとも、私の中に、後悔とか不快な気持ちがのこらない。迷いが生まれない。こっちの方が、ずっと大事なのだと、感覚的にわかりました。
それがたとえ、息子のよかれ、ではないとしても、息子にも心地よいことなのだということが信じられます。息子が私から学ぶことは、「自分の気持ちを大切にすること。それを基準に生きること」で、十分なのだと思うのです。
子供を叱ったり、誰かに何かを言って、自分の中に不快なものが残る時、それは、自分の本当の気持ちを想像できない時なのかもしれません。
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