すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

生きずらい人って誰のこと?

2014-12-14 14:00:08 | 世の中のこと
「障害」とか「障害者」というキーワードが、この頃頭をかすめます。

「身体または精神に何らかのハンディキャップをもち、日常生活・社会生活に相当の制限を持つ人」、そして「そのために、医療的・福祉的援助を必要とする人」というのが教科書的解釈になると思います。

確かにそうです。でも、これって障害者とは呼ばれない健常者(←この言葉嫌いですが)、あるいは援助する人たちによる定義だと思うのです。

仕事上で、障害者と呼ばれる人たち、そのお母さんたちとお付き合いがありますが、母という立場に立って初めて、私はこの「障害」とか「障害者」という言葉の危うさに直面しました。

息子の言葉が少し遅かったこともあり、たまたま相談した保健師にすぐに臨床心理士につながれ、「発達障害ではないかどうかの経過を見ましょう」という状態に置かれたことがあります。(結局、経過観察で終了でした。)

障害者の援助職だった私がですよ、この時素直に感じたのは、自分の息子が「障害者」にされてしまう、という恐怖でした。このていたらく、援助職失格って言われても仕方がない感情です。

だから、この恐怖が、自分の専門職としての日々も打ちのめすわけです。だって私は障害者やその親御さんに「障害があってもなくても、その人らしさが大切です」と声かけし、それが自分の本心だと思っていましたから。

でも、いざ自分が当事者になるかもしれないとなると、この「障害」「障害者」というワードが怖くて仕方がない。私が、「障害」「障害者」という言葉を甘くみていたんだと気づきました。

この矛盾は、医療関係者・福祉関係者、そして保育・教育に携わるような人が親になった時、だれもが抱えるものかもしれません。でも、この矛盾をやっぱり捨て置けない。母でもない、専門職でもない、ただ1人の人間として、このワードが人に与える「恐怖」はなんだろう、とずっと思ってきました。

自分やわが子がただ単に「みんなと違うといっても、必ずしも悪いことばかりでもない。教えてなくても3歳で九九ができてしまう。ずば抜けた美貌の持ち主で道を歩けばだれもが振り向く。そんな「違い」に悩む人はほとんどいないと思います。

では、同じく「みんなと違う」障害が、なぜ恐怖なのか。

それは、この言葉が、決して教科書的説明では説明しつくせない、忌むべき共通認識を背負う言葉で、それを私自身も共有していたということなんです。迷惑をかける人、助けてあげなくちゃならない人、自立が難しい人。障害者にはそんなレッテルが張られている。そう無意識に定義していたのです。

いや、仮に、迷惑をかける人、助けてあげなくちゃいけない人、自立が難しい人という側面があっても、それはそんなに怖いものなのか、ダメなことなのかということです。

つまり、自分が迷惑をかけること、助けてもらうこと、自立できない人になることを怖れているから、そのレッテルを張られた言葉を極端に怖れるわけなんです。

あるいは、逆も。迷惑をかけられること、助けてあげること、頼られる事が嫌な人も同じです。だから、自分が、我が子が、そんな状況になるのが怖い。

私のあの時の怖さにもこれが絡んでいたのでしょう。

これを自分に、他人に許せてしまえれば、障害の怖さはゆるむんです。間違いなく。

私は、許したい。許せる自分でありたい。そのために今、いろんな事を書いています。仮に自分や息子が「障害者」になったときにも、まずやることは、「許す」その一点なのだと、今の私は思っています。



障害の中でも、発達障害は、また独特のスティグマを背負う言葉です。発達障害の世界では、この「障害」というワードを「個性」「特性」と言い替えましょうよ、という事を言う専門家もいるようです。

でもね、だったら療育も訓練も必要ないのでは、とも言えてしまうんです。「個性」なのに、どうして訓練が必要なのか、「個性」なのに、どうしてみんなと同じようにするための療育が必要なのか、とも。「本人が集団に入って苦労するから」というのが定番の回答ですが、この本質ってなんだろう。

気付きませんか?

裏を返せば、個性を受け入れたくないという世界が前提とされているのです。だから、結局、少数の個性派の人たちが「みんな一緒」が得意な多数派の人たちに合わせるために、「障害」という言葉が必要になるってことなんです。

障害者ではない人から迷惑をかけられたり、頼られるのは嫌だけど、障害があるなら少しくらいの迷惑はいいよ、そういう行動も理解するよ、ということを言っているようなものですよね。多数派の人たちも、それを代弁する専門家も。

障害者であることを受け入れた個性派の人たちは、大人の対応をしている、人と違うあり方、迷惑を極端に忌避する人たちに合わせてあげてる、ってことも言えするんです。

だから、「◯◯障害」というワードも、自分が得な場合は使っても、そうでなさそうな場合は使う必要もないのでは、って私なら考えるし、そう援助します。「障害」があるから安心して助けられるという人に対しては使っても、「障害」を盾に傷つけてくる人がいるような環境であえて使う必要もありません。

療育も、受けたら本人が得をする、本人らしさを発揮する助けになる、というあくまで本人のためにこそあるものです。受けないと大変なことになる、手遅れになるという脅し、強制や矯正にフォーカスした療育はどんなに効果があっても、私ならわが子に受けさせたくありません。

ちなみに、「わが子の障害を認める」ことができないというお母さんもいると思います。これ、当たり前なんです。負のレッテルが覆われた「障害」を認めるなんて生理的に無謀ですもの。

使い古された言葉ですが、「ありのまま」を認めるでいいと思います。「わが子のありのままを認める」んです。みんなと違っても、迷惑をかけても、自立が難しくても、でも、だからこそ輝く何かをもっているわが子のありのままを。

もちろん「障害」を自分なりに捉え直して受け入れてる方はいるでしょう。でも、無理をすることもない。「障害」にひっかかる自分の感情を押しこめる必要はないと思うのです。



ところで、内海聡氏というドクターを知ってますか?

内科医のドクターですが、暴露本とか、トンデモ本とかを多数出版している人で、「門外漢な内科医が精神医療のことをつべこべいうな」とか多くの批判を受けている方です。

マクドナルド、ワクチン、電子レンジ、精神医療、薬物療法、発達障害などを、いわゆる常識とは違う角度から真っ向否定しています。悪意に縁取られた文体が売りなのか、親としては罪悪感をつつかれる扇動的な論調なので、読むに耐えない人も多いのかな、と。

私も好きというわけではないのですが、でも、この内海氏の言っていることから受け取るものはあります。傷つけられることを覚悟で聞けば、この人もすごいことを言っています。


「発達障害とわが娘」というタイトルのブログ記事は特に読みごたえがありました。

発達障害の人を「生きずらい人」と定義することに異を唱える内海氏。生きずらいのは、発達障害の人だけなのか?と。障害のあるなしにかかわらず、生きずらい人は生きずらい。「生きずらい」のだから援助や療育をと言う前に、その生きずらさは何から生まれるのか。特性、個性、障害のある人を生きずらくさせているのは、その特性、個性、障害のせいなのかということです。

そして、私なりの解釈を加えると、「生きずらい人」が先にいるのではなく、「生きずらい世の中」が先にあって「生きずらい人」が生まれるってことも言える。

つまり、発達障害の人が「人と違う」「みんなに合わせることができない」という理由で生きずらいのならば、発達障害でなくても「人と違う」「みんなと合わせることができない」人は、生きずらい世の中ってことです。

マイノリティの人たちは、ぜんぶ生きずらいってことです。実際、そうですよね。で、たぶんマジョリティー、多数派の健常者の多くも生きずらいんです。

「生きずらい」と勝手に忖度して少数派の人や発達障害の人を変えようとばかりするのか、「生きずらさ」を作っているのはこちらかもしれないと自分たちの意識を点検してその人たちのありのままに歩み寄ろうとするのか。

どっちを選ぶか。すべての生きずらさを和らげるための答えは、ここにあると思います。