すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

美輪明宏さんの舞台を見て。

2006-06-12 00:22:06 | 本・映画・音楽

つい先日、美輪明宏さんの舞台「愛の讃歌」を鑑賞した。
美輪さんの圧倒的な存在感、この世のものとは思えない美しさと神々しさ、
エネルギッシュな演技や歌唱力に釘付けになった。
舞台終了時、数回に及ぶカーテンコールで、満席の観客は感動のあまりに総立ち。
私も涙があふれて止まらなかった。

美輪さんが演じた伝説の歌手、エディットピアフの生き様、
愛と歌に全身全霊を注いだ生涯を目の当たりにして、
この舞台のテーマでもあった「無償の愛」について考えた。

愛を与えるとき、人は相手からも愛が返ってくることを求めがちだ。
だから、見返りを求めない「無償の愛」は、
愛の中でも最も尊いものとされる。
母が子どもを思う愛は、まさにそれに近いもの。
でも、男女の愛となると、なかなか難しいと思う。
もしそれができたら、奇跡だ。
ただ、世の多くの人たちは、そんな愛を夢見てる。あこがれている。
「愛の讃歌」に涙する自分や、
周囲のお客さんを見て、つくづく実感する。

さて、では「無償の愛」を実践出来る人とはどんな人なんだろう。
エディットピアフが、
男性に対して「無償の愛」をささげてきたとするならば、
エディットピアフは、どうしてそれができたのだろう。

おそらく、エディットピアフには、歌があったから、
歌を愛し、歌に愛されていた女性だから、
つまり、愛にあふれている女性だから、
与える愛、見返りのない愛に徹することができたのだろう。
それならば、エディットピアフにとっての歌のように、
自分が熱中できる具体的な何かがないと、
「無償の愛」を与えられる人にはなれないのだろうか。
たしかに、仕事、趣味、好きなことがある人は、
それだけで、充分自分が満たされているわけだから、
誰かに「無償の愛」を与えるられる可能性が高い。

でも、もちろん、それがなくてもいいのだと思う。
自分を自分できちんと愛せていたら、
ゆるぎないしっかりとした自尊感情があったら、
必ずしも誰かに愛してもらわなくても、
自分はそのままでも幸せだから、
失うことを恐れないで、 見返りも求めないで、
丸裸で誰かを愛せる。
そういう人になれるのかもしれない。

「無償の愛」は、
自分を捨ててするものではない。
自分を犠牲にしてするものでもない。
愛を与える人が、一見すると自分を捨てていたり犠牲にしているように見えても、
その人に本物の愛があふれていたら、愛は減るものではないから、
その人は満たされたままだ。
自分を捨てたり犠牲にして、誰かを盲目的に愛しているように見える人がいたら、
その人は、誰かに尽くして誰かの中に自分を居場所を作ることによって、
誰かに与えたものをしっかり返してもらうことによって、
つまり、誰かを通して、
自分の中にはない愛を手に入れようとしているだけかもしれない。
自分が自分を愛することができないから、
わざわざ、他人という媒体をこしらえて、
愛を手に入れようとしているだけかもしれない。
もちろん、それだって相手によっては成功することもあるだろう。
でも、ほとんどの場合は、与えられる側は自分に注がれているものが、
本当の愛か、本当じゃない愛かはわかってしまうので、
やがて、与えられるものにNOを出すことにもなる。
こうなると、与えたものは「無償の愛」ところが、
相手を苦しめる「押し付け行為」になってしまう。

その辺の見極めが、実はとても難しい。
私たちは、
愛じゃないものを愛と呼んでいることが多いからだ。
でも、確かに言えるのは、
「無償の愛」をささげるとは、
自分が相手の中にすっぽりとはまって生きることではない。
自分が自分をしっかりと生きる人が、
自分が自分をしっかりと愛せる人が、
ただそれだけで、自分の中に愛があふれてきて、
そうせずにはいられなくなって、
初めて実践できるものなのかもしれない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿