年齢を冠したタイトルに惹かれているわけではない。
でも、97歳に続き、今回は41歳。はい、自分の年齢です。
日々の生活、現実世界に転がる問題に辟易すると、帰りたくなる場所があるとすれば、私は、池田晶子さんの本を読むという行為が、それになる。
たとえば、天空に広がる無数の星を眺めながら、「この星の光は、実際には何億光年も昔のもの」とかなんとか、宇宙的規模なことを考えて見たりする。
そうやって、自分の悩みを俯瞰して、こんなの大したことないや、って意識を変える感じに似ているかも。
でも、池田さんは、日々のこまごまとした生活にまつわることではなく、生きて死ぬことについて、命について、宇宙について思いをはせることことが、本当のことなんだと看破する。
つまり、そっちを「考える」ことに時間を割くことが、まっとうなことだと。
手持ちにあった「暮らしの哲学」を流し読みしてから、図書館で借りた「41歳からの哲学」を読んだ。
この人が言っていることは一貫しているので、基本的にどの本を読んでも同じ。
ただ、「暮らしの哲学」の中にある、穏やかで柔らかい感じが、「41歳からの哲学」では感じられず、あくまでアグレッシブで、扇動的な印象を受ける。
前者が、自分の死期を知って書いていたことが、大きく影響しいてるだろう。
後者は、バリバリ現役感が漂っている。
個人的には、「暮らしの哲学」の方が読んでいて心地いいのだけれど、「41歳からの哲学」も、やっぱり、いい。
『人は、そのなるところのものに、自ずからなっている。物事は、なるようになっていて、ならないようにはなっていない。
これは偉大な真理である。宇宙の真相である。
なるほどそれを運命というなら、運命なのかもしれない。
しかし、それは、生きればそれが運命であるという、当たり前のことでもある。
裏から言えば、運命は、人生は生きてみなければわからない』
たとえば、こういう文章。
私がこういう文章に心動かされるのは、
他の誰でもない、考えて、考えて、考えることに一生を費やした池田晶子さんが書いているからに他ならない。
悲しいかな、私は、この人がいわんとしていることを、「わかった」と言えるレベルではない。でも、なんていうかな。
ああ、読書はもう、この人のものだけでいいかもしれないな、なんて思わされてしまう、私とこの本、私と池田晶子さんとをつなぐ、何かがあるのだ。
本当に残念なのは、もう、この人の新刊は出版されないこと。
言っていることは同じでも、タイトルを変えて、文体を変えて、テーマを変えて、何度でも何度でも読み続けたかった。
星を眺めるように、この人の本を生涯読んでいきたかった。そして、できたらこの人の年齢を追い越したくなかった(追い越さない可能性ももちろんあるけれど)。いつでも、ずっと先人でいてほしかった。
幸い、全著を読んだわけでないので、
読んでいない本は、片っぱしから読んでいきたい。
ただ、もったいないので、ぼちぼち、ときどき。
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