しばられ地蔵は、都内だけでも、金町の南蔵院、品川の願行寺、茗荷谷の林泉寺と、あちらこちらにおわします。
しばられたい人、しばりたい人、しばったつもりになりたい人、いろいろな気持を抱えた善人たちがお参りをします。
しばられ地蔵、そのお姿は、日本の憲法のありかたに似ています。
世界で初めて日本の地を占領した米軍の司令官は、日本人の心根まで占領しなければ、この国は意のままにはならないことを、日比谷に事務所を構えてみて、あらためて知りました。
そこで即製の憲法をつくり、大急ぎで翻訳させ、制定させてしまったのがいまの日本国憲法です。
日本の憲法は、二つになってしまい、その状態がずっと続いています。
改正の手続きを踏まずに改正されたことに、"解釈"されているのです。
その解釈の根拠は、ありもしない革命をあったことのように、これも"解釈"されていたものです。
論理が通らなければ、解釈に頼るしか、ことは都合よく運びません。
そういう解釈を重ねてそれが正しいと思いこませるには、妄信に助けを借りるしかなかったのでしょう。
諸国民との協和、自由のもたらす恵沢、人類普遍の原理、恒久の平和、崇高な理想、政治道徳、国家の名誉という、前文に散りばめられた七つの言葉に、善良で誠実な日本国民は酔わされ、そのときには、これにしばられることを多くの人が望んだのでしょう。
しかし、この憲法の施行3年後には、隣国で内戦が起き、その一方に加担する米軍は、恒久の平和を目指すはずの占領基地から空爆に出動し、諸国民との協和の精神も、実質的にはそこで破たんしていました。
不幸なはずの隣国の戦争は、経済発展の契機となり、日本の経済力は急激に上昇しました。
そうなれば、とりあえずの憲法とはいえ、平和憲法とまで呼び名ができてしまったものをなかなか変える気にはなりません。
現実との食い違いは、無理やりであっても巧みな"解釈"によって見えなくされてきました。
しばられているその縄が、矛盾を目立たなくし、事実上はしばりを緩めているという、奇妙なお地蔵さんを拝みながら、日本人の心はずるずると変わってきました。
しばられているふりに使われていた縄も、70年も経てば素材はもうぐずぐずのはずです。
はじめは手を伸ばさなかった隣国も、この70年の間に、島を占領状態のようにしてみたり、本土にやって来て土地をあちこち買い占めたり、社会の拠点に人を潜り込ませたり、技術を盗み取ったり、博愛と謙譲の心根を巧みに操って都合のよい言動を導き出したり、それを言質にして謝罪や賠償を何度も要求したり、さまざまな侵略手段を使って、人類普遍の原理の悪用につとめてきています。
信じてさえいれば報われるという、異常なまでに強い妄信は、それから抜け出す手を打たなければなりません。
呪縛から抜け出すには、その機会を逃してはなりません。
妄信は、自分でもわかっていて、それから抜け出せない厄介なものです。
気付かないのではなく、気付きたくない弱さがそうさせているのです。
崩れかけている古縄を、スプレー接着剤で固めて解けないようにする手は、使用禁止にしましょう。
お地蔵さまが怒り出しますから。