・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

粗忽妄信:31

2018年02月13日 | つぶやきの壺焼

しばられ地蔵は、都内だけでも、金町の南蔵院、品川の願行寺、茗荷谷の林泉寺と、あちらこちらにおわします。
しばられたい人、しばりたい人、しばったつもりになりたい人、いろいろな気持を抱えた善人たちがお参りをします。

しばられ地蔵、そのお姿は、日本の憲法のありかたに似ています。

世界で初めて日本の地を占領した米軍の司令官は、日本人の心根まで占領しなければ、この国は意のままにはならないことを、日比谷に事務所を構えてみて、あらためて知りました。
そこで即製の憲法をつくり、大急ぎで翻訳させ、制定させてしまったのがいまの日本国憲法です。
日本の憲法は、二つになってしまい、その状態がずっと続いています。
改正の手続きを踏まずに改正されたことに、"解釈"されているのです。
その解釈の根拠は、ありもしない革命をあったことのように、これも"解釈"されていたものです。
論理が通らなければ、解釈に頼るしか、ことは都合よく運びません。
そういう解釈を重ねてそれが正しいと思いこませるには、妄信に助けを借りるしかなかったのでしょう。

諸国民との協和、自由のもたらす恵沢、人類普遍の原理、恒久の平和、崇高な理想、政治道徳、国家の名誉という、前文に散りばめられた七つの言葉に、善良で誠実な日本国民は酔わされ、そのときには、これにしばられることを多くの人が望んだのでしょう。

しかし、この憲法の施行3年後には、隣国で内戦が起き、その一方に加担する米軍は、恒久の平和を目指すはずの占領基地から空爆に出動し、諸国民との協和の精神も、実質的にはそこで破たんしていました。

不幸なはずの隣国の戦争は、経済発展の契機となり、日本の経済力は急激に上昇しました。
そうなれば、とりあえずの憲法とはいえ、平和憲法とまで呼び名ができてしまったものをなかなか変える気にはなりません。
現実との食い違いは、無理やりであっても巧みな"解釈"によって見えなくされてきました。
しばられているその縄が、矛盾を目立たなくし、事実上はしばりを緩めているという、奇妙なお地蔵さんを拝みながら、日本人の心はずるずると変わってきました。

しばられているふりに使われていた縄も、70年も経てば素材はもうぐずぐずのはずです。
はじめは手を伸ばさなかった隣国も、この70年の間に、島を占領状態のようにしてみたり、本土にやって来て土地をあちこち買い占めたり、社会の拠点に人を潜り込ませたり、技術を盗み取ったり、博愛と謙譲の心根を巧みに操って都合のよい言動を導き出したり、それを言質にして謝罪や賠償を何度も要求したり、さまざまな侵略手段を使って、人類普遍の原理の悪用につとめてきています。

信じてさえいれば報われるという、異常なまでに強い妄信は、それから抜け出す手を打たなければなりません。
呪縛から抜け出すには、その機会を逃してはなりません。

妄信は、自分でもわかっていて、それから抜け出せない厄介なものです。
気付かないのではなく、気付きたくない弱さがそうさせているのです。

崩れかけている古縄を、スプレー接着剤で固めて解けないようにする手は、使用禁止にしましょう。
お地蔵さまが怒り出しますから。

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粗忽妄信:30

2018年02月12日 | つぶやきの壺焼

ものを言うには、まず立場をわきまえて、そこから考え始めなければならないという妄信があります。

とにかく立場が先、論理も道理もそれに合わせるように考えていくことが、頭の働かせ方の習慣になっている人がいます。

相手の立場に立ってはよいのですが、そのとき天秤の反対側には、必ず自分の立場が自然に載せられています。
結果は、論議も行動も非倫理に流れがち、よくある話です。

頭脳活性度の高い方々が、昼間集まってこられるところには、そんなテンプレートが種々用意されているようです。

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粗忽妄信:29

2018年02月11日 | つぶやきの壺焼

経済はすべての人がひたすら発展を目指すものという巨大な妄信があります。
発展が不都合という人もいることに気づこうとはしません。

発展を不都合に思う人は、自分だけが際立って権力を握り栄誉を得たいという人と、発展の機構に組み入れられず発展を憎む人と、プラス・マイナスに両極端に分かれます。

プラス志向の発展忌避者は、自分が率いる国の外側に向かって、デフレの波を送り出します。
送り出す波には、自由経済という偽看板を装着された浮標が仕立てられます。

デフレの波の源の周りには、目の前の利益しか追わない頭の悪い企業人たちが、"友好"と名付けた奇妙なサーフボードに乗って、次々に吸い寄せられて行きます。
波乗りびとは、乗っている間が楽しければよいので、先のことは考えません。
自国に置いてきた、すぐれた頭脳を持った社員、勤勉に働く人々やその家族のこと、培った技術・技能という宝もののことは、波の上ではすっかり忘れ去っています。

発展を不都合に思う人にとって、これほど都合のよい協力者はいません。
発展忌避者のもとで得たなにがしかの目先の利得は、グローバルな経済発展に尽くしているという、空虚な満足感を生み出します。
サーフボードがたびたびひっくり返るのは、経済発展への貢献という、レジンと一緒に塗り込められた妄信が原因であることにも、なかなか気づくこうとはしません。

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粗忽妄信:28

2018年02月10日 | つぶやきの壺焼

ゆっくり話し合えば、どんなこともいつかは賛同を得られるというのも妄信の一つです。

何がなんでも、とにかくこの人の言うことすることには反対したいと初めからきめてしまえば、話を聞いているふりはしても耳に入れていません。
何度も同じことを、違う言い方話し方で解き明かそうとしても、聞く耳を持たせない限り聞いてはもらえません。

どうしても実行しなければならないことは、どちらがよいのか迷っている人に賛成させなければ、進められません。
民主主義という名の、ときに厄介ごとの種になるならわしが、いつかどこかで邪魔をするからです。

民主主義のもとでは、ものごとは空気で決まります。
決定か否決か、その空気の要素は、判断をゆだねられた人々の心の動き方と時の微分係数に大きくかかわります。
時は作られるもの、合意の時は、待っていればやって来るものではありません。

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粗忽妄信:27

2018年02月09日 | つぶやきの壺焼

五感の働きは、習慣と深い関係をもっています。

おしゃべり好みが習慣になっている人は、意思表明は下手でも無駄話は上手です。
おいしさを楽しむ習慣をもっている人は、味覚が強く確かさも増します。
話をよく聞く習慣をもっている人は、ひとの話を一度で聴き分けます。

意思表明の下手な人が、だいじなことを伝えようとするとき、話を一度で聴き分けられない人を相手にする場合は甚だ面倒なことになります。

話をよく聞かないということも習慣になります。
自分の言ったことへの合意表明だけは耳に入りやすく、それがわかりやすい話に聞こえます。
簡単に言えば、聞きたい話だけはよく聞こえ、それが癖になっているということです。

話はどんな人もわかりやすくする努力が必要という、わかりやすく話す義務のようなものも、ある種の妄信のように思います。
わかりやすくは表現しにくい、見せないほうがその場にはよい感情を、内にこめた話もあります。
それを噛んで含めるようにわかりやすく言ってしまえば、話の目的がそがれてしまいます。

一度で聞き取れない場合、だいじなことのようならもう一度聴き返して確かめることも、時には必要ですが、三度目まで言わせてやっとわかりかけるのでは、対話は成立しません。

聞く耳、それは五感のうちで最も重要な感覚ではないかと思います。
その感覚の弱さをよいことに、ただわかりやすい話を求めてもよいのは、就学前の幼児のうちだけでしょう。

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粗忽妄信:26

2018年02月08日 | つぶやきの壺焼

二つの政党が交互に政権を握って、互いに切磋琢磨しながら行使していく二大政党制が、議会政治の最上の方法であるという妄信が根を張っているようです。

実際に政権を交代させてみれば、国の存立さえ怪しくなっていく状態に追い込まれた経験を、日本は持っています。
何年か前のあの状況を振り返れば、二大政党制はこの日本に合うものではないということが、すでにはっきりしています。

議会と呼ばれる場の最高位は、言うまでもなく国会です。
国会と呼ぶからには、そこでは"国"のことを論じなければなりません。

ところが、"国"のことはそっちのけで、自分が目立つことに目的があるような、"論"と言えないような無駄な言葉のやり取りがときどき聞こえます。
それがときどきのうちは、まあ息抜きには仕方がないかとも思いますが、そればっかりということになれば、何が切磋琢磨かと、心ある人ほどそちらを見向きもしなくなります。

二大政党制には、与野党という言葉がよく使われます。
政権を握っている党に対峙できるような野党と呼ぶにふさわしい政党が存在しない日本では、与野党という言葉さえ空虚に聞こえます。

日本の国を、お隣に売り渡してしまおうというような不埒な言動を、えらそうな顔をして振り回す人がいるのに、それを許しているN町の空気は、妄想と一緒に吹き飛ばして入れ替えなければなりません。
CO2より、今の空気のほうがはるかに有害なのです。

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粗忽妄信:25

2018年02月07日 | つぶやきの壺焼

機器の整備員は、どんな分野でも、全員がいっさい手ぬかりなく誠心誠意仕事をするという日本の文化は、残念ながら70年がかりで妄信になり果てました。

心の集中を欠いた作業は、脇から見ているだけではそれがわかりません。
整備というだいじな作業に、心を打ち込めない何かを抱えながらでは、人の命を預かる仕事に本来就いてはならないのです。
職業の自由とか労働の権利とか人権とかは、問題の外のこととして、整備員の資質は高度に保たれなければなりません。

万一、わざわざ手抜きを仕掛けるような者が、管理の隙間から潜り込んでいたとすれば、文化がどうこうというような、のんきな話ではなくなります。

整備員と名のつく職域には、身元調査を組み込んだ、厳重な人事管理が必要です。

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粗忽妄信:24

2018年02月06日 | つぶやきの壺焼

何度も何度も取り上げる話を、だいじなことだと思わせる、"妄信づくり"の商売が繁盛しています。
TVがその代表です。

幅広いと見せている話題の取り上げ方と、長めの放送時間を使うことから、ワイドショーと呼ばれるいくつかの番組が、そのまた代表格になっています。

いろいろな人が司会をし、コメンテーターと呼ばれるおしゃべり役にも、いろいろな人が入れ替わり立ち変わり出てくるようにも見えます。
ところがこの役目には、商売を繁盛させるのに都合のよい人しか選ばれないので、実は顔ぶれがあまり変わりません。

ワイドショーで取り上げる話題を、どの局でも一つに絞って競争のように見せかけて、それがいま、社会にとっていちばんだいじなことと、視聴する人が思ってくれれば、その番組は成功ということになります。
家事をさっさと切り上げてTVの前に座り込む主婦の方がた、他に何もすることにない高齢の方がたは、お経のように毎日同じことを聞かされれば、お互いの連絡も必要ではなく、ボーっと思っていることが共通認識になるという、奇妙な妄想グループが出来上がります。

強い意思でもなければいいではないかと思うと、それがどっこい、"民意"と呼ばれるおかしな係数データに大きな寄与率であらわれるという、困った力を持っているのです。
もう一つ困ったことがあります。
どうでもよいことをだいじに思わせて、本当にだいじなことの影が薄くなったり、まったく知らされなかったりするということです。

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粗忽妄信:23

2018年02月05日 | つぶやきの壺焼

国会では、国政の重要事項が審議され、国会議員は全員、この国がよりよい国になっていくことを望んで議席に座っている、悲しいことでも"それは妄信"なのだと言われたとき、皆さんはどういう反応をなさるでしょうか。

衆議院では、驚いたことに、本会議の議員の出欠を公式に記録していないそうです。
居眠りをする、スマホをいじる、それなら出欠を記録しても仕方がないということなのかどうか。

「病気」と言って国会を欠席した議員が、前夜にはあちらこちらの飲食店を訪れていたという、実名入りの報道もあります。

劇場という呼びかたさえも、心に差しさわりを持ちながらのことであるのに、溜まり場である時間のほうが長いとしたら、そこで行われていることが、国の尊厳、民の尊厳を甚だしく貶めているひどい仕打ちなのだと、気づく人がどれくらいいるでしょうか。

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粗忽妄信:22

2018年02月04日 | つぶやきの壺焼

「議会運営の慣習を引きずるだけでは政治のプロの仕事ではない」と青山繁晴は言います。

中継を見る気にもならないバカげたやりとりが、N町の大会堂で繰り返されます。

愚問からは愚答しか引き出せません。
もしアホらしくて気に入らない答弁が多ければ、その原因はほとんど質問側にあります。

だいじな課題はそっちのけにして、無駄な応答が繰り返されているのは、議長がそれを呆認しているからでしょう。
ワイワイ囲まれるとき以外に、緊張感をもっているのかどうか疑いたくなります。

何十年も同様のことを繰り返していれば、そういう慣習が出来上がります。
村社会ではとかく慣習をだいじにしますから、何よりもまず慣習に従わなければという妄信も根付きます。

慣習を引きずる人びとに名前ができました。
カスタム・トレイニー、"カストレ"です。


フランスのカストレという村は、中世の時代そのままの姿を残していて、そこに行くとまるでおとぎ話の中にはいり込んだ感じを受けるそうですが、偶然同じような呼び方になってしまったことを、カストレ村のかたがたにはお詫びいたします。

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粗忽妄信:21

2018年02月03日 | つぶやきの壺焼

あとから出た証言は、よりホントらしいと聞き耳を立てたがるのも、妄信がそうさせることのようです。

録音再生技術には、それがいつのものかというデータを、同時に知らせる機能はまだありません。
証拠物件としては、まことに貧弱なものです。

そんないい加減なものを、重要会議に持ち込んで、議論の敵対材料に使うのは、脅し屋の手口でしかありません。
こういう安直ドラマのマネごとのようなことで、貴重な時間を食いつぶすのは、会議破壊工作以外に目的はなさそうです。

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粗忽妄信:20

2018年02月02日 | つぶやきの壺焼

かけたコストには、いつまでも値打ちが残るという妄信があります。

高い授業料を払って塾に通い、東大を卒業して修行を積み、国会議員になった、俺には私には莫大なコストがかかっている、それが何よりの値打ち、思いどおりのことができなくてどうする、この議席は一生もの、手放してなるものか、そんな人には、かけたコストのことしか頭にありません。

思いどおりのこと、何をするのか、何のためなのか、値打ちはその未来にあるとは、なかなか考えません。

激しい練習、横柄な先輩づら、そんなことに耐え抜いて、海の向こうにまで行ってはみたものの、持つことができたのは、働かずに高い看板料がもらえるという奇妙な資格、いや、仕掛けかな、そんな人もいます。
「おれには元手がかかっている」と鼻の穴を広げる、してみせることはそれだけです。
かけた元手が値打ちと思っていれば、これから何をしようか、そんなことは何も考えないでしょう。

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粗忽妄信:19

2018年02月01日 | つぶやきの壺焼

社員はコストの主要部分である、これは経営者層の妄信です。

社員を減らせばコストが下がって、不振な経営状態から脱却できると、手不足が喧伝される今頃、まだ人減らしを実行しようとしている情けない経営者がいます。

外国資本と外国人労働者をうまく使って、利益を拡大し、世界中にものを売れればこの世の春であると、その人たちは思っているのでしょうか。
同じ国に生まれた日本人が、その利益のはしくれにあずかることもなく、下請けの仕事に身を粉にして働いても、技能が売りものとほめそやしておけばそれで上々と、その人たちは思っています。

その人たちは、たぶん社名の由来を省みることさえ忘れているのでしょう。

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