・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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自主的行動をせまるのは出来ない注文

2014年02月26日 | つぶやきの壺焼

「自」という文字は、おのれを指す意味でありながら、「自主的に行動しなさい」「自律がだいじです」などと、自分のことでない場合に多く使われます。

なかでも「自主的」ということは、奇妙な性格を持っています。
自主的行動の最適例である「投票」という行為ですら、信仰あるいは信条にしばられて心の内とは別のことをしてしまう場合もあるでしょう。
自主的な投票によって選ばれたはずの人たちが、肝心の国政という仕事の場では、「党議拘束」という「自主的」とは正反対のことをやっています。

「自主的行動を指示されたとき、従っても従わなくても自主的にはなりえない」と橋爪大三郎氏は言います。
「はい」と言えば相手の指示に縛られ、「いや」と言えば自主的行動はしないことになる、「自主的」とは言葉のあや、着物の柄のようなものでしかなさそうです。

「人間は自由という刑に処せられている」と、サルトルがどこかに書いたそうですが、「自由」も、自分以外の何かがあって、その束縛から逃れるのが自由なので、自分だけなら自由も何もなく、そんな言葉は生まれなかったでしょう。

とにかく「自」という字には、いつも逆の意味が付いて回っているように思います。
自動車も、いまは自分で動くことよりも、自分で止まることのほうに力が入っているようです。

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