裁判ドラマには種類が多い。
裁判官のはなし、検事のはなし、弁護士のはなし、裁判員という素人のはなし、裁かれる人のはなし、いちばん人数が多いのに主題になりにくい傍聴人のはなし、立場が違うからはなしもいろとりどりでドラマに仕立てやすいからだろうか。
仕立てる前にすでにドラマになっている事件もある。
起訴はされたが、被告が犯人であると証明される証拠が、検事はあると言い、弁護人はないと言う。
被告が犯人であるという根拠は、他の人が犯人であったことはありえないからだという論法だけのものである。
物証の見せようがない I T事件などは、証拠になりそうなものを保存してあっても、瞬時に削除してその場所に何か書き込んでしまえばもう読み取ることはできない。
後から書き込んだ部分を消したところで、最初の保存の証明はできない。
証拠が必要になれば保存した痕跡があった、と言い張るしかない。
しかし、消した後が痕跡だと言えるなら、どんな記憶装置でも、痕跡はすぐに出来上がる。
痕跡には色分けもしるしも、何もついていない。
初めにしたことがはっきりしている場合には見つけられても、何をしたかわからず再現のしようがないことの痕跡など見つかるはずがない。
そういうものが証拠に仕立てられて出された法廷にでは、被告が犯人であれば、知っていて判別できのは被告一人だけということになる。
もし被告が犯人でない場合は、事実を知っている人も、確実に判別できる人も、一人もいない法廷が開かれる。
これはもうドラマでしかない。
しかし、人間が演じるドラマで、人間が判別できないことを表現するには、超演出、超演技が必要になるが、今、そんなことが可能なのだろうか。
TVドラマやアニメでなら実験はできても、実際の法廷で許されることなのだろうか。