多くの人がそれを望むと、いやその前に、望んでいると言われてしまうと、それがいちばんよいことのように、みなが思うようになります。
そのとき、なぜかという問いはタブーになります。
「自明の理」という便利な言葉がありますが、賢人も解き明かせない厄介ごとは、だいたいそう名付けられます。
「そんなの、あたりまえだろ」と言うか「神様が決めたこと」と言われれば終わりです。
それ以上「なぜ」を続ければ、白い目で見られるか、座が白けるか、だんだん色のない霧の中に押しやられます。
「五里霧中」と「自明の理」は、背中合わせでいながら、どうやら遠い親戚のようにもみえます。
わけがわからなくてもそうなっているのだから、これはいちばん強力な存在理由です。
木の根は、どうだこんなに張っているぞと見せつけられなければ、見てはならないものになっています。
どうしても見ようとすっかり掘り返せば、掘られた木は立っていられません。
根拠を探ろうとすれば、木が倒れるか枯れるか、それでもよいかと脅されます。
困った木が一本見つかりました。
自由貿易は、なぜよいのでしょうか。
誰のためになるのでしょうか。