N町の集会所には、おらが村のみんなの考えを袋詰にして、いつも持っているかのような顔をした、おじさん、おばさんが集まっています。
何か面倒なことを決めなければならないとなると、意見はなかなかまとまりません。
それもそのはず、ものごとの意見は、人数が増えただけ食い違いの度合いも増えますから。
集まった皆が問題を理解したうえで考え抜いて、まあまあそこそこの結論を出していければよいのですが、問題の核心が時間軸に引っ掛かってしまうと、話はまとまりません。
意見がまとまらない、よい考えが出てこない、それは集まった人の頭が悪いからではなく、過去にあったことをどういう未来につなげていくかという時間軸のとらえ方が、皆それぞれに違うからです。
おらが村へのお土産や、いまいる部屋を出てから先の身の置きどころや、できるだけ永くこの部屋に居とどまる方法などを真っ先に考える人が大勢を占めれば、時間軸が多少違っても、先の結果は手の届く範囲にしかずれません。
お土産を待っている村びとたちの顔、安心ほかほかの生活を喜んでいる家族の顔、それがいつも目の先に現れる人たちに、時間軸に沿ったずっと先のこと、半世紀先、次の世紀のことを考えさせるのは無理な話なのです。
話のまとまりがつかないのは当たりまえです。
そこで頭のよい方がたは、時間軸の整理の仕方を考えます。
集会所以外のところから、時間軸が都合よくそろいそうな頭脳明晰な人を、だいさんしゃと呼んで集まってもらうことにします。
話のまとまりに具合がよさそうな人数だけ集めて、だいさんしゃいいんかいと名づけます。
いいんかいは委員会と想像がつきやすいのですが、だいさんしゃは、第三者なのか代参者なのか、漢字にしてみてもよくわかりません。
第三者と呼ぶからには、第一者、第二者がいるはずなのですが、それは誰と誰を指すのでしょうか。
代参者の場合は、誰の代わりにどこにお参りするのでしょうか。
だいさんしゃいいんかいという呼び名は、装いも新たに問題の審議に取り組むぞという飾り言葉のようにさえ見えてきます。
公平の装いです。生成が装いであれば、判定も装いで終わるかもしれません。
代参者には、いいんかいの部分はかな書きのままのほうが似合いそうです。
代参者いいんかい、代参者でいいんかい。
余計なことを思い出しました。
「石松代参」というあの浪曲です。
♪ XXは死ななきゃぁ・・・・・ 治らなぁいぃ・・・・