一九九一年六月。
聖ローレンス大学ではやっかいな論争が起こっていた。
「言論の自由」の観点からキャンパス内のオーデトリアムでKKK団に講演会を開く許可を与えるべきかという提案がなされたのだった。六〇年代あるいは七〇年代なら、「質の悪い冗談だろ」の一言で片づけられた提案について、大学当局、学生代表、KKK団による真剣な討議が重ねられた。ディベート専門家の立場からマウスピークスもこの討議に参加していた。
午後十時を回ったディベート部の部室でナオミとケイティはLUCGのメンバーと共に検討委員会の最終判断を待っていた。まだ新入りだった彼女らは討議に参加させてもらえなかった。
「すべての団体と個人には言論の自由が保障されていて人々にはそれを聞く権利があるだって? 検討委員会は言論の自由がすべてを保障してるわけじゃないことさえわからないのか」チャックが、イライラして言う。
「どのメッセージが有益でどれが有害かを事前に判断するのはかんたんじゃないだろう。大学側としても議論なしにKKK団を閉め出すわけにはいかないんだ」 ビルが言った。
「個人の思想規制をするのは間違っているけど公の場での発言の機会が人々に許されるのはメッセージが社会に有益な場合だけだわ」ナオミが議論に加わる。
「歴史的には白人優越主義者たちの主張は人々に憎しみを植え付け無用な社会的対立を増長してきたに過ぎないんじゃないか」クリストフが言った。
「言論の自由の名の下にネオナチと大差ないメッセージが発言の機会を与えられるなら、この大学の良識が疑われるよ。そこまで自己責任にすべてをまかすと言うなら米国の最近の保守化は行きすぎていると言わざるを得ない」
クリストフの発言は正鵠を射ていた。
一九八〇年代のアメリカには富裕層と中産階級による福祉負担増に対する批判の声を追い風に、共和党ロナルド・レーガン大統領の保守革命の嵐が吹き荒れた。
特に八〇年と八四年の選挙では、少数民族重視の左寄り傾向に嫌気を起こした「レーガン・デモクラット」と呼ばれる南部中高年層を核とした民主党員まで、保守革命、小さな政府、強いアメリカを掲げるレーガンに投票したのだった。こうして「働かざるもの食うべからず」というわけで所得税減税と福祉切り捨てが大手を振って行われた。
さらに、八八年大統領選で勝利をおさめたレーガン政権時の副大統領ジョージ・ブッシュは(後に財政再建のために増税をするなど中途半端ではあったが)保守派政策を継続した。湾岸戦争の勝利により一時的に九十パーセント近い支持率を国民から受けたが、個人的な魅力に欠ける彼が果たして九二年に再選されるかは明らかではなかった。
米国はどこまで保守化するのか?
リベラルが、今一度過去の輝きを取り戻すのか?
どちらの方向に米国が向かおうとしているのか誰にも予測がつかなかった。
ナオミたちにはこの時点では知るよしもないが、レーガン保守革命以降、米国の保守化傾向は止まるところを知らず九四年には不法流入移民に対する公的サービスの拒否を義務づける悪名高いプロポジション一八七がカリフォルニア州で成立する。
九七年にロサンジェルス地裁はプロポジション一八七を憲法違反と判断し、九九年七月二十九日にカリフォルニア州グレイ・ディビス知事が、これ以上法的に争わないと宣言して無効になるまで混乱は続く。
九十年代に入ってニューズウィーク誌が始めたポリティカル・コレクトネス(政治的潔癖さ)運動が多少の歯止めになったかどうかはわからない。
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