1月14日に支部例会が行われた。
その席上で、今回起きた能登半島の地震に対する、愛知教区災救隊の活動について報告を受けた。
地震が起きてまじかに、青年会から2台のワゴン車で物資を輸送する予定だったのが、余りにも多くの物資が集まったために、4台のワゴン車で行く事となり、運転手が足りずに災救隊の隊長などが出動する事となったとの事。
石川教区で物資を受け入れてくれる教会も、狭い路地の中にある教会で、物資の搬入、搬出がとても大変で、指定された教会へ物資を運ぶ手伝いをして戻って来たとの事だった。
そして数日前までは、避難所へ炊き出しなどをする部隊の世話どり(宿舎の清掃など)をしているとの事。
そうした作業も近隣の教区から、夜出発して夜に帰るという日帰りでの対応をしているとの事だった。
私も東日本大震災の時には、災救隊とは別に物資を運んだり、ひのきしんに出かけたりした。
あれから10数年たち、もうそのような動きは出来ないが、同級生の教会が被災して全壊したので、同級生で見舞金をだそうという話しになっている。
この災害のみならず、各地で様々な災害が起きており、その度ごとに災救隊が出動して、被災者への心の支えとなっていると思う。
さて、この能登の災害から、一時言われなかった南海トラフの地震が騒がれるようになり、富士山の噴火までも騒がれるようになって来た。
実際に起きるのかどうかは分からないが、これまでの災害の経験から、備えをして置く事に越したことは無いと思う。
ただし、余りにもそうした事に囚われて、心を落として、悲観するような事は必要ない。
反対に、悲観する自分の心を見つめる必要があると思う。
その理由は、喜べば喜びの理が回ると教えられているように、困った身上や事情も、成ってきたいんねんを悟り、たんのうする事によって、その先が変わると教えられるからである。
仏教でいわれる、因縁は「カルマ」「宿業」として変えることが出来ないと言われている。
こうした教えも成ってくる理を考えると、間違えではない。
前生、前々生に通って来た事柄による「いんねん」。心遣いによる今世の出来事は、必ずある。
けれども、それを大難にしてもらうか、小難にしてもらうかは、親神様の見計い次第で、どのようにでもなるのである。
また、出直す側になるか、生き残り助けられる側になるか、助ける側になるか。
これも、今世それまでに生きて来た心遣いによっても変化して行くのである。
すべては、親神様がどのようにそれぞれの心遣いを受け止められたかによるわけである。
今日、政府が推進してきたワクチンについて、まったく政府の対応がなっていないと、デモをしている動画をみた。
私も多くの人々が苦しんでいる事を見て、またワクチンを接種しなくても良くなる薬を体験して、こうした抗議に賛同する者でもある。
親神様は、医薬も医術も聖人君主を使って教えられた。
しかし、その教えられたことを悪用して、自分達の欲得のために人々を苦しめる者については、断固として認められない。
欲得のために戦争を起こすものについても同じである。
宗教を利用するのも同じである。
人の心が、我が身思案で欲得にまみれて行く事を防ぐために、様々な教えを聖人たちを通して説いて来たのに、それを利用して悪用する者があれば、それも同じなのである。
先日、「教祖が我々の罪を詫びて現身を隠された」というコメントを見た。
まったくもって、何を根拠にそのような事を言うのか!
と思うばかりである。
この考えは、キリスト教でキリストに対して言われる事で、教祖は違う。
扉を開いて世界助けに出られたのである。
世界助けとは、人々の心を切り替えさせること。
身上事情を見せて、不思議を見せて、教えを元に人々が自ら心を切り替えるように進める事である。
そして、教祖のひながたを歩み、神一条の道を歩み、陽気ぐらしへと歩むように導かれる事である。
人間というものは、辛いことや自分の思いと違う事があると、聞いた言葉や見た事柄などを自分の都合の良いように解釈するというものである。
事実を理に照らし合わせて、善悪を判断するのではなく、自分の都合に合わせて理を曲げようとする。不都合な事は伏せて、都合の良い事だけをつなぎ合わせて自分を肯定しようとするものでもある。
こうした状態が進むと、そうした人々の行動や発言は、支離滅裂となってくる。
以前こうした発言をしていたのに、まったく異なる発言を簡単にして、平然としているのである。
そうなると、周囲の人々からは相手にされなくなるのである。
「うそをついたらその者が、ウソになるのがこれが承知か」と言われる言葉が思い浮かぶ。
教祖が歩まれたひながたの中で、「一つ道を変えた」と言われる出来事がある。
それは「かんろだいの石の没収」を契機として、おつとめの地歌を「いちれつすますかんろだい」から「いちれつすましてかんろだい」と変更して、助けの方針を変えられた事である。
これを当時の人々は、「神様の模様替え」と言っていた。
おさしづを見て見ても、「思惑が立たずに一つ道を変えた」という言葉が各所に出てくる。
神は万能、見抜き見通しという言葉からすると、理解に苦しむ人々も多い事だろう。
私も以前はそうだった。
しかし、今回のコロナの騒動や世界の様々な事柄を見た時、見抜き見通しだからこそ、そして親神の子供である人間に心の自由を与えたからこそ、子供の成人に合わせて、無理のないようにと方針を変えられたのだと思うに至ったのである。
さらにはまた、様々なスピリチュアル系の動画を見て、江戸時代末期に天理教が始まった頃、多くの宗教ができた事と同じように感じている。
宇宙人からのメッセージとして伝えるもの。
キリスト教の元の心で伝えるもの。
日本の神道や霊媒師が伝えるもの。
世界の霊媒師が伝えるもの。などなど。。
日本で起きた事が、地球規模で起きて、それがインターネットを通して世界中で見聞きされて、それぞれの心に響くメッセージを取り入れるように導かれているように思う。
先の真柱様が言われた「色鏡といういんねんで見ている」とか「物を色々な角度から見るように」などという言葉が思い出される。
教祖のひながたも、人間個人として見るか、親神様の使いと見るか、はたまた、親神様の視点で見るかによって解釈はどれだけでもできる。
そしてその見方によって、悟り方も多分に出来るのである。
言い換えたならば、子供の視点で見るか、子供を導こうとする親の視点で見るか。
はたまた悪さをする子供の視点、それを怒る親の視点という見方もある。
もっといえば、それらの両者を見る祖父母の視点という見方もある。
また親神様は、月日であり、父母でもある。つまりは、父親の立場、母親の立場もあり、そうした視点もある。
今世界は、これまでウソで隠された事柄を開示して、それぞれの国や人々の元を探ろうとしている。
そのために、歴史の考察の動画が多分にある。
これらは文献や遺物による考察がほとんどで、そうしたものがない時代の考察は出来ない。
天理教の元の理は、知恵文字を仕込まれたそれ以前の話であり、それを仕込むための苦労の話でもある。
しかし、この地球・世界における理については、先に述べたように視点を広くすれば、十柱の神様の働きにつながるのである。
アフリカのコンゴで、天理教が飛躍的に広がっているという話しを聞いた。
大変結構な事だと思う。
幾多の社会的苦労の中を抜けての今日であろう。
戦後の日本での天理教の姿と重なる。
戦時中弾圧をさけるために、戦争の後押しをするひのきしんを信者に求めた歴史。
二代真柱様が、復元を唱えた時の言葉から、その時の苦汁をすごく感じる。
そうした時代を越えて、人々が勇み立つ時代。
そうした時代を超えた今の日本では、これからどうするか。
これがこれからの課題であろう。
すでに物質での幸福感を味わい。
それでは真の陽気ぐらしは出来ない事も分かった現在。
天理教の教えを聞いて、生まれ変わりを重ねた者がいる現在。
次の段階へと思いを致さねばならないだろう。
教祖のひながたを思う時、教祖が「月日の社」となられた条件が気になる。
教祖は「いざなみのみこと」の魂の方であり、幼少の頃から、慈愛が多くあられた。
そして我が身、我が家よりも困った人々への救済の心が多く、世界の自己中心的な事柄については悲観的であられ、尼になる事を希望されるほどだった。
それを両親の声によって、中山家へ嫁ぎ、主人へ家族へそして周囲の人々へと、慈愛の心と行いを行われていたのである。
その一つの行いが「黒疱瘡の子供をたすけた」逸話である。
この後に、「月日の社」なられる。
この事を親神様は、褒めたたえて、後日おさしづによって別席の話に取り入れさせておられる。
すでに天理教の話を前世で聞いて、この教祖のような心で生まれ変わっている人々が世界中にいるのではないかと、様々な情報を発信して行動をしている人々を見て思うのである。
そして、それぞれにいんねんある人々が集っているようにも感じるのである。
話を模様替えに戻す。
こうした教祖に対して、人間宿仕込みの魂のいんねんある人々を、立教後身上や事情で引き寄せられるが、ことごとく親神様の思惑通りの「にんそく社」とはなられずに出直されていく。
そして「魂のいんねん」の無い、本席様を「柱」として、教祖(親神様)が世界助けに出られてから、おさしづによって導かれる事になる。
こうした事も、計画を変更された一因であり、計画後の対処とも思えるが、これらはこうした人々の心の動き、また周囲のドジョウの魂の人間の心の動きを見定めての事と思える。
こうした事や道すじを研究して行けば、欲にきりない泥水に流れず、陽気ぐらしが出来る人間となるための道筋を思案できるのではないかと思うのである。
ご利益信心ではなく、証拠信心という話しがあるが、研究した事を身をもって体験すること。
教祖のひながた、先人のひながたをたどり、身をもって体験する事。
それによって確固となる証拠を固めて行く事。
これが重要であり、それが助かるための話の種。
こうき話となるように思えるのである。
長らくなかった左の耳あたりが痛み出したので、昨日書きかけて止めていたものを書きだした。
思うがままに。大難を小難に、小難を無難にとお守り頂きますように。。念じて。。