あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

心澄ます事。。神の心に叶わねばいかほど心尽くしたるとも。。

2022年04月03日 14時54分25秒 | 思った事

本日は4月3日です。

4月1日、大教会で会議があり、新体制についてまたこれからの事について話合った。
大教会から帰って、夜天理時報の手配り担当を引き継ぐために、前担当者の教会へ。

4月2日、午前中会計決算を占めるための領収書などの整理、午後から教区の新旧支部長歓送迎会に出席して、3年間勤めさせて頂いたお礼を申し上げた。

今日、4月3日朝から寒い。会計をやりかけるが、大教会の新体制での連絡文を作らねばとも思い出す。

ともかくやることが多いのだが、なかなか進まない。

進まないと、イライラする。

これが私の性分である。

すると、目が見えなくなってくる。頭が痛くなってくる。

身体がガチガチになり、妻に揉んで欲しいと頼むことになる。

こうなると、いくら焦っても駄目である。

そして、思い切って、布団に入る。

今、数時間休んで起きたところである。

頭痛は無くなり、目も見えるようになったので、まずはこれを書き始めた。

 

先回書いてから、このブログにアクセスする人数が、100人を下回らない。

書いていないのにアクセス数が常時あるとは不思議な事だと思う。

 

今、日本が大変になっていると思う。

情報もそうだが、実生活でも物価が上がり、仕事の無い人々や年金で生活されている方々には大変な事だと思う。

そして多くの人が、「何を信じてよいのか!」「何が本当なのか?」と右往左往しているのではないかと感じている。

このようになってくるだろうことは、これまで私が共有してきた世界の情報から、その先へと情報を追いかけて考えれば、分からない事は無いと思う。

 

このブログだけしか見ていない人、フェイスブックをも見ている人では、私から得る情報量は格段に違う。

フェイスブックでも、私の個人アカウントからこのブログを見る人と、「天理教熱田分教会」のアカウントから見る人とでも、格段の差があるはずである。

あとは、それぞれがどのような観点で情報を整理するかによって、予測は変わってくる。

それが顕著に表れているのが、現在ロシアウクライナに関しての、保守の言論人たちの発言だと、以前のブログでちょっと書いてみた。

先日共有した「渡邉哲也ショー」で、国会議員を落選された方のコメントがとても印象深く、今の政治の実態を物語っていると思った。

それは、「議員をしていると、官僚へ情報を求めて、その情報しかソースがない。それが、この番組に出て、そうした考えがありそうした仕組みで動いていたという事を初めて知った。議員をやめて良く分かった。」という内容を聞いた時である。

また、共有した物に対するコメントの中に、「政府を信じられないのならば日本から出て行けばよい」というコメントがあった。

政府ありきの日本人なのだろうか?日本人ありきの政府ではないか?

全く物の見方が違っていると思った。

 

以前のブログで、「竜頭狂えば皆狂う」と書いたと思うが、

頭が狂ってしまえば、体全体も違った方向へ行くのである。

この頭が、周囲の状況判断が十分に出来なければ、そうなってしまい、体が無くなれば頭も無くなるはずなのに、それが分かっていないようである。

これを天の理合いから考えると、

天が頭であり、地が体である。

そして家族であれば、夫が天であり妻がちであり、その中に子供が育つのである。

 

この天の役目の者が、地の状況も把握できずに、自分の理想ばかりを追い求めては、地の者は生きていけない事にもなりかねない。

これも同じことである。

 

アメリカの大統領が、バイデンさんかトランプさんか。。

大手マスメディアが報道しない情報では、4月1日がその期限だそうで、不正を働いていた人々が一掃される事のようである。

不正選挙からここまで長く、ヤキモキしていた人々も多かったと思うが、そのお陰で、多くの闇を情報操作の闇を確信する事が出来た。

 

親神様の眼から見た「善悪」ははっきりしている。

神人和楽の陽気ぐらし世界実現を妨げるものは悪である。

人間が陽気に暮らすさまを見て、共に楽しみたいと思われた。

教典に書かれたこの言葉は、誰もが知っている言葉である。

 

ところが、人間は陽気に暮らしていない。

一部の者だけが、自分の陽気を求めて、他の人を幸せにしていない。

これは悪である。

せっかく知恵や物を与えられても、それを他の人の幸せのために使わずに、自分の欲得のためばかりに使えば、それは大悪である。

それも、多くの人々の上に立つ人であればあるだけ、大悪はさらに増していくのである。

 

その清算は必ず訪れる。

その一つの例は、教祖が現身を隠された後の、不思議な御守護が次々にと現れた状況である。

神を忘れ、自分の知恵力におぼれたもの達へ、自分の知恵力ではどうにもならない状況が訪れるのである。

その状況にあって、「南無天理王命」と言葉を唱えただけで不思議を見せられた、その状況である。

これによって、天理教は日本中に広まったのである。

ただし、人々にはただ単なる「新しい神が現れた」との認識でしかなく、それによって新たな弾圧の時代へと向かったのも事実である。

こうした事は、教祖が現身を隠された時だけではなく、その後も幾度となくあり、その都度不思議を見せる人々が現れて、それが今の大教会の元となっているはずである。

その不思議を見せた人々は、教祖のひながたを求め、親神様の教えを真剣に求めた人々だったはずである。

そうした中に、日本にはもう親神様の話を聞き分ける人がいないと思い、世界へと目を向けられた人々がある。

その種が、世界各地に撒かれて、時が経って少しずつ、少しずつ芽生えて来て、同じような道を歩みながら教えが広がっている。

 

何といっても、心通りの守護である。

かしものかりもの、心ひとつが我がの理である。

すべてはそれぞれの心に貸し与えられた、親神様からの借りものである。

そして、

自由を許された心の使い方を、自らが律して行く事、それが「八つのほこり」の話である。

自らが掃除をしなければ、すぐに汚れてしまうのが人間の心だから、「ほこり」に例えて、心の使い方の良し悪しを教えられているのである。

つまり、この教えを聞いて常にほこりの心を払っている人以外は、心にほこりが積もり、自分勝手の陽気に走っているとも言えるだろう。

 

おふでさきに、「胸と口とが砂とすいのや」と心の澄まし方を教えられている。

陽気ぐらしへの道はまだまだである。

そして、今はその一つの塚である。

 

親神様のお導きのままに、陽気ぐらしへ!である。

親神の心に叶ったものは、日々心勇むばかりやである。

という事は、日々勇むことが出来ないのは、親神様のお心に叶っていない。

という事になる。

親神様のお心に叶う心になるように、それぞれが成人の道を歩む事。

その姿、心が周囲に伝わるのである。

自分を変えずして、人を変えようとするからおかしくなる。

これは「から」であると思う。

 

思うがままに書きました。

参考になれば幸いです。

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