4月26日 本部の月次祭を参拝した。
今月はこれで4回目のおぢばがえりとなる。
今回も長男次男が休みをとっており、一緒に出掛ける。
長女も休みだったようで、アパートに迎えに行って神殿へ。。
9時開始の月次祭ではどうしても、後半下りの到着になる。
なんとか12下り目前に中庭に入り、神殿講話を聞いた後、礼拝場へ上がりおつとめをして、所用を済ませる毎月のパターンである。
天理へ入る道中、雨が降っていたが、駐車場についたら上がった。
中庭につくと、少し雨が降った様子だが、多くの人がパイプ椅子に座っていた。
4月18日のご誕生祭よりも、少なく感じた。
昇殿参拝は、各直属教会へ人数が割り当てられているが、その人数に到達しないのが現状でもある。
祭典後に昇殿しておつとめをする人々のようすを見ると、マスクはしているが、新型コロナどこ吹く風。という感じで、おつとめをしている。
世界の事情を見ていて、様々な人々がある事をすごく感じているが、それと同様に参拝者にも様々あり、それを取りまとめる役の人々の対応が、なにをするにも後手後手のように見えて仕方がない。
人々を自由にすればさほど問題もないのだが、規制を掛けるから問題が起きている、問題が見えてくる。
それによって人々はより学びを得ている。そんな気がする。
親神様は人間に、心の自由を与えられた。
心通りに動く身体を与えられた。これが「かしものかりもの」の話である。
しかし、心にほこりの心づかいを重ねて、ウソをついて、真実誠の心を失わせる心を使うと、自由に使えるはずの体が使えなくなる。
これは、親神様の働きが欠けてくるから。。というのも、「かしものかりもの」の話である。
さらには、人間は一人ではない。複数人が寄って生活をしている。
そのお互いの使う心で、人間同士の心の関係が築かれて、「天の帳面」の話の如く、人間同士にも貸し借りの関係が出来てくる。
さらには、ウソを平気で使って接して、それが正しい事だと思い込んで、そちらへ人々を引っ張る人になる場合もある。そして事情を起こしてさらに人々を苦しみに巻き込む。
これは、心に体を親神様が貸しているならと、頻繁に身上になる人からすれば、
どうしてそうした人々は元気で、次々と事情を引き起こすのだろうか。
と疑問がわくだろう。
ところがこの中に巻き込まれると、どうなるか、
ウソがウソを招き、自分を守るために人を殺めれば、自分が殺められないだろうかといった、不安な日々を送るようになるのである。
体が元気であるがゆえに、ドンドンと苦しみの中を歩まねばならなくなる。
金もあり体もドンドン治療して元気でありながら、心は不安にさいなまれていくのである。
私にはこうした状態は、業火にあぶられながらも生き続ける地獄のように思える。
この世に天国も地獄も出してある。といわれるところでもある。
そうした中に合って、身上や事情の苦しみから、自分のこれまでの歩みを反省して、人のためにと心を切り替える人もある。
ところが、そのように切り替えて、良い事をしたつもりでも、なかなか人から認められない。
そして、認められない事にまた不足をして、元に戻ってしまう。
いくら心を切り替えても、前生からの物があり、それを止める事は天の帳面からしても無理なのである。これが天の理である。
しかし、
それをたんのうの心で乗り越えて認められる道を、教祖は身をもって教えられた。
どれだけの事を言われても、腹を立てずに、親神様のお導きと定めて、人のためにと心尽くされたのである。
これが「信者の栞」の誠真実に書かれている。
この一連の流れを聞いて、「たんのう」の話を聞いていて、親神様を信じて、そのように通ろうと思うから、出来るのであるが、これを知らねば、いくら良い事をしようと思っても、自分の思い通りに是が非でも行おうとして、より一層「ほこりの心」を積み重ねるのである。
おふでさきの、「やまさかやいばらぐろもがけみちも つるぎのなかもとおりぬけたら」を思い出した。
このさきハみちにたとへてはなしする どこの事ともさらにゆハんで ( 1号046)
やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら ( 1号047)
まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり ( 1号048)
ほそみちをだん/\こせばをふみちや これがたしかなほんみちである ( 1号049)
このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事 ( 1号050)
とあり、この内、中の三首は、メロディーをつけられて、演奏会などで歌われている。
1号50で「このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事 ( 1号050)」と、神一条(親神様の心に添って歩む)ならば、この道筋はそれぞれの歩みとなる。と言われている事からすれば、
山坂などと言われる苦労の道中がある事は当然の事と言える。
反対に、神一条で通っているから楽々の道が通れると思うこと事体が間違いだと分かるだろう。
なぜこの言葉を思い出したかと言えば、
自分の思い通りにならない事は、これまで前生前々生に積み重ねて来たものの清算であるとの考えと、山坂や茨ぐろう・崖路などが重なったからである。
だから、様々な困難に当たっても、我がの積み重ねたいんねんによるものとして、たんのうして自らの心を切り替えて歩む道、これが重要だと重ねて思うばかりである。
そして、過去のいんねんが切り替えられると細い道(自分の思い通りになる道)が見えて来て、それを重ねると色々な人をも導くような、大きな道を歩む事になるのである。
けれども、
この筋道を通るにも、まずは「かしもの・かりもの」が心に治まり、生まれ変わり出変わりを信じなければならない。
「かしものかりものが教えの台」と言われるところであると思っている。
その時だけの助かりを望むだけでは、親神様の望まれる陽気ぐらしには到底届かない。
その時のたすかりから「かしものかりもの」を得心して、末代かけての陽気ぐらしを望むことが大切ではないかと思う。
今世で悪いんねんを払いきれなくても、来生には払いきると心定める事も重要かと思う。
そうした中に、不思議と親神様のお導きを感じ、喜びを見つけられて、苦しい中にも楽しい暮らしを味わう事が出来ると思う。
今回の月次祭参拝では、めったに合わない人たちに会う事が出来た。
そうした中、北礼拝場の階段で昇殿を待つ間に、「すべてはいんねんによって成ってくる」その元は「かしものかりもの」と話した事から、思い浮かんだので書いておく。