あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

最後のご苦労からの教祖の様子。。『山田伊八郎文書』

2022年01月19日 16時19分12秒 | 思った事

明治19年教祖は、櫟本分署へ最後のご苦労に行かれて、それから一年後の明治20年陰暦正月26日に現身を隠される。

その間の教祖のようすを、『山田伊八郎文書』から見て見たい。

山田伊八郎文書について

まず、年表を記しておく。

以下の資料を読めば分かる事だが、私なりに思う事を書いておく。

教祖は眼も見えず、耳も聞こえず、寝返りも打てずという状態になっておられたのである。

(註:目が開けるまで寝ていよう。と言われる通り、後日起きられるようになるのである。)

しかし、それは病気という事ではなく、親神様の思いの上からそうした状態にしており、それの証拠にと、指先で人の手をつままれて、それを示されたのである。

さらには、この状態にしている事を、世界助けに飛び回っていると言われるのである。そしてそれは、家の戸を閉めて人が来て邪魔をされないようにと、仕事に出るのと同じであると諭されており、現身を隠される時に、「扉閉まりて地をならそうか、扉開いて」と尋ねられたことと重なるのである。

色々と悟られる事があるが、今回は簡単にここまでとしておく。

以下に、テキスト化した文と共に画像を掲載しておく。

・・・・・・・・・

教祖お隠れ前の様子資料「山田伊八郎文書」より

152頁~155頁 (現代風に書き換え)


1)明治19年3月12日(旧2・7)
 神様の仰せ(最後のご苦労お帰りの後 12日目のお言葉)

 明治19年旧2月7日、庄屋敷へ参りがけに、大豆越村山中宅へ、座敷棟上げの日を尋ねに寄り、父忠七殿と同道にて参詣した。神様(教祖)は、休んでおられるのを、父がゆり起こされて、神様が仰せられるのには・・・。

 旧正月15日より、神様と、仲田佐右衛門様と伊豆七条村の桝井伊三郎様と、又、神様の付き添いに櫟本村おひさ様と、4名のお方が、櫟本分署へ12日の拘留にてご苦労下され、右拘留は倉橋村心勇組の内より、講中18ケ村が押し込み、無理からでもつとめをさせてもらおうと思って、300人余りの人数を段々願い、これによって拘留された。
 帰宅は旧正月26日であった。お帰りの後、戻ってから今日までで12日目となる。それから毎日、寝通しで、耳は聞こえず、目はほとんど見えずである。神様(教祖)がしばらくしてから仰せられるには、天の月日様(親神様)の仰せには、

 「どこへ働きに行くやらしれん。それに、起きていると言うと、その働きの邪魔になる。ひとり、目が開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。
 そこで、指先にてちょっと知らしてある。その指先にても、つくは誰でも、摘まみ上げる力を見て思案せよ。」

 父忠七殿、伊八郎両人の手をつまみ上げ下げされ、その大いなる力に、いかにも関心いたす。神様の仰せには、

「他のものでは、寝返るのも、出けかねるようになりて、それだけの力があるか。」

との仰せであった。また、

「人間も、200、300才まで、病まず弱らずにいれば、大分に楽しみもあろうな。そして子供はほうそ、はしかをせんよう、かしら(頭)へ、何一つも出けんよう。また、百姓は、一反につき、米4石、5石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は、晴らさずにはおかん。また、この世界中に何にても、神のせん事(しない)はさらに無し。
 何時どこから、どんな事を聞くやしれんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日のお働きやと思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。また、今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を撒いたらその籾は、皆生えるやろうかな。ちょうど、それも同じ事。」

 右を、ことごとく神様の仰せなり。

 ちょっと日々にお悟りより、神様の伺いには、
「今度は、たすけより、残念晴らしが先。」
 (註)この2行文頭より移転。

 

156頁~159頁 (現代風に書き換え)


2)明治19年3月28日(旧2・23)

 神様の仰せ並びに伊蔵様伺い仰せ
(最後のご苦労お帰り後27日目のお言葉)
 先に、生き神様に、石板にて書いて伺い、そのさしづにて、
「伊蔵様にて頼め。」
との事。

 明治19年旧2月22日晩、白米6斗5升、白餅米1斗5升。キリコおよそ9升。かき餅6升。入れ物にて、フゴ2荷盗られた。神様の仰せには、

「どうもこれ長き道でありて、まちだいくつにあろう。ここをよく聞きわけにゃならんで。それ、盗難のところ、世界にはどうも、あこの内にて、家内中いう。しんになりて入られて、物を盗られ、また、家内の者に、目と言えば、あれほど不自由な事はあろまい。と人が皆言うであろう。
 さあさあ、ここをよく思案して、ただ、人道で家内中押すなれば、さあ、これからは、何一つも盗られるような事は無し。さあここを神から話しておくによって、よう聞き分けにゃならんで。
 この世界、日よく月よくである。日あかき、月おぼろ月もあり。靄がかかれば、暗くなる。今は高山へ入り込んでいるで。この道も赤くなりたり暗くなりたり。今は暗き道でもあり。さあ月が変われば、もようが変わる。また月が変わればコロッと変わりて、赤き道になる。これを家内中へ伝えにゃならんで。」

(註1)おすなれば=生活し通すならば。


3)明治19年3月29日(旧2・24)

 神様の仰せ

 翌、23日父の金玉が痛み、同晩、私の金玉も大いに痛み、それの事より「翌24日参詣する」と願をかけ、直ぐに全快致した。同日参詣したして、神様にお伺いした。神様の仰せには、

 長々の道であるで、この道は、どんな道もあり。不自由な事もあり。難儀な所も越さんならんで。それにこれはどういうものであるやしれん。あちらからも、こちらからもゆいかけられ。ただの一つもこれはという事なし。
 この身の障りの所も、今までに身の内へ知らしてあろう。これをよう思案せよ。
 元は、いざなぎのたね。いざなみの腹一つ。どこのいづくでも同じ事。身に二つはなし。これをよう思案せよ。
 元 いざなみの腹から人間は皆生まれし。
 そこで、我が身、あの身というなり。

 

166頁~173頁 (現代風に書き換え)
4)明治19年5月3日(旧4・2)

 神様の仰せ、並びに飯降伊蔵様扇伺言葉

 明治19年旧4月1日晩、こいそが、暑くなったり、寒くなったり、肩が凝りつめ、翌2日、神様に石板に書いて、お伺いをさせてもらうと、神様の仰せには、

 耳が聞こえず、目が見えず。よって飯降伊蔵様にお願いしてくれ。

との神様よりの仰せなり。それより、飯降様にお願い申し上げると、すぐさま扇をもって、お伺い下さる。
そのお伺いには、

 さあさあここを、よう聞きわけにゃならんで。
 さあここをしっかりと聞き分けん事には。さあ今までの急き込みというは。段々の話。この話を、あちらからも、こちらからも、多くの人が、よりくる事と思う心が大いに違い。今までに、どんな道になるやら、どういう日が見えるてくるやら、今までに段々説いて聞かせど、いつの事やら、いつ見えてくるやらと思ている。
 さあこの4,5,6月を見ていよ。善と悪とが必ず分けて見せるで。この度は、内外の隔てなし。さあ世界中、多くの人にこの話、聞かん者は、さあ、怖くてたまらん。さあ 今までに、神様のお話聞いている者は、さあ 仰った日が出て来たかと思うやろう。すれば直ぐに気が勇やろう。
 さあその日来るなら何事も、つとめ一条でおさまるとの話聞かしてあろうが。 また、このたすけも、一村限り、一軒限り、一人限りというは、今の事。さあ今までに、色々と、どんな話も聞かしてあろうが。ここをよう思案してみよう。
 さあこの先は、善も早けりゃ悪もはやいで。まだこの先は病人の、医者が手を引く。
 今までに色々と急き込み話、どんな話も聞かしてあろう。 これ皆 銘々に思案してみよう。その日が、皆出てくるほどに。さあ 今かかりていると言うたとて、その日来るまでは、世界には誰も知ろまい。さあ今日は、年限、日柄、刻限というは、十分すぎてある故、さあ、見えかけたなら見えてくるほどに。
 また、人間にしても同じ事。さあここをよう思案して見よ。 いか程の、悪心が腹にあると言えども、口に出すまでは、見えようまい。ぼちぼち話にかかりたら、さあ、見えて来るやろう。半道中(はんどう中)、話すぎたなら、ほんに腹の悪い人やと思うやろう。それも同じ事。
 さあここをよう思案して見よう。
 また、神様の御身の障り。この耳も聞こえず、目も見えん。声も出ず。これを世界には、何と思うやろう。さあ人間にしても同じ事。厳しく働く時は、戸を閉めて出て働くやろう。 人が来るとて、この家は留守かいなと言うようにして、働くであろう。 外へ出て働くも、家にいて働くとも同じ事。
 そのはずや。厳しく働く時には人が来ては、働く邪魔になる。人間にしても同じ事、それ故に耳も聞こえず、目も見えん。声も出ず。スッキリと戸を閉めて出て神が働きをしている程に。
 さあこれまでに、どんな話も聞かしてあるは、これから見えるこの話を、家内中へ伝えるよう。
 また、世界の人にも伝えてくれるよう。

  との神様の仰せなり。

(註1)はんどう中=半道中、総ての物事の半分。

以上。。

 

このお話から色々と悟れるかと思います。

世界が一日も早く陽気ぐらしへとなりますように。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山田伊八郎文書」について。。敷島。。

2022年01月19日 15時42分23秒 | 図書室

これから、教祖の最後のご苦労後の様子について、「山田伊八郎文書」から書こうと思うが、その前に、山田伊八郎文書について、書いておきたい。

しかし、山田伊八郎とは誰なのか知らない人も多いと思うので、先ずその事から進める。

山田伊八郎先生は、心勇組(敷島大教会の前身)の初代講元であり、敷島大教会の2代会長である。

そして、『逸話編』84南半国で、教祖が「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す。」と言われた山中こいそさんをもらわれた方であり、

教祖より無言のお仕込みを頂き、教祖へのお伺いは一言一句漏らさずに記録すると心定めて、お言葉を頂けるようになった方でもある。

こうした事から私には、最後のご苦労の時に教祖が「一の筆」と言われた事と重なっている。そして、その伊八郎先生の書かれたものをまとめられたのが、「山田伊八郎文書」である。

先日、敷島の大教会長様に尋ねたところ、大教会には分けるだけは残っていないとの事であった。敷島系統の教会にはあるかと思う。

私には『正文遺韻』と共に、教祖のお言葉を知る上に大事な1次資料と思えている。

以下に、『天理教事典』より「山田伊八郎」と『山田伊八郎文書』より「発刊の辞」を張り付けておく。

『天理教事典』より「山田伊八郎」

『山田伊八郎文書』より「発刊の辞」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする