昨日はご本部の神殿奉仕をつとめさせて頂いた。
そこでとても不思議な事を見せて頂いた。
前回、左の耳が痛むことを書いたのだが、その事についてである。
先ず、左の耳が痛み始めた時、以前の事を思い出して、「誠真実をつくさねば」ならない。と思った。
しかし、「誠真実」と言っても、何をして良いか分からない。
そこで色々と思案をしながら、一昨日、思うままにフェイスブックへ投稿した時に、痛みが無くなった。そして、昨日神殿奉仕に出かける前に、先回のブログを投稿して痛みが無くなった。さらに、神殿奉仕に出かける前、まだ時間があり、詰所の事務所へ立ち寄ると痛みだして、期日間際でやり忘れている事を思い出して、それをした途端に痛みが無くなった。不思議だなぁと思いつつ、神殿奉仕へ出かけたところ、また痛みだして「一体親神様は何をさせようとしているのか。自分の性分は。。。」などと考えながら朝づとめを終えたとたん、痛みが無くなり、今の今まで痛みがなかったのである。
(今、朝づとめへ行く前なのだが、痛みが出はじめて来たので、書き始めた。)
この突然の左の耳の痛みは、以前に経験して、その時には先ほど書いたように、「誠真実をつくさせて頂きます」と心定めた時に、先ほどまで痛んで仕方がなかったものが急に楽になり、名古屋に帰るまでに治ったのであった。
まずはその事から書いてみる。
以前、神殿奉仕で同じ身上を見せて頂いた時は、愛知部内の教会事情解決に対して、役目から関わる事になっていた時である。
その会長や周囲の者たちが、自分の思いばかりを述べるばかりで、事情に対して自らを全く反省する様子もないために、「もう関わる事はやめよう」と思っていた時であった。
「誠真実をつくします」と定めて、この事を思い出して、「どうなるか分からないが、成るよう行くよう、その時その時に思い浮かばせて頂く事で対応しよう」と思って、名古屋へ帰ったのであった。
そして、そのように対応して、今日である。
さて、今回の事では、そうした事が思い浮かばずに、先ほど書いたようにして過ごしてきた。
次は、朝づとめ前に思案していた「自分の性分」について書いてみる。
身上事情から、思し召しを思案する場合、性分がとても重要である。
自分の場合はどうかと言えば、私は丑年である。
我ながら「こって牛」だと思っている。
日頃のそのそとして動きは悪い。何をしているのか分からないような行動ばかりしている。しかし、こうと決めたらてこでも動かない。反対に心思う事が出来ると、なりふり構わず走り回る。そして、定めた事を守り通そうとするのだが、周囲の理解が得られないと「もうどうなっても良い」とあきらめるのも早い。
昨日のFacebookと、神殿奉仕へ来る前にブログに思いを書いて一時痛みが軽くなったわけで、なかなかお道の話と世上の話、整合させるのは難しくて、理解は得られないけれども、やはりネットでの書き込みは続けねばならないなぁ。
と、こんな事を朝づとめ前に考えていたのである。
新型コロナの緊急事態宣言などで、行動が制限された事で、時間に余裕があって「復元」も「トラさんの記録」も、様々な情報を収集記録する事も出来たが、動き出すと時間に余裕がなくなって来て、どうしようかと思っていたところでもある。
さて、
朝づとめが終わって、気がつくと、耳の痛みが無くなっている。
違和感も全くないのである。ビックリである。
着座の合間に、教祖殿・祖霊殿へと廻り、「この世界の事情の中、世界中の方々へ親神様のお話が少しでも伝わり、人のためにと心する事が常識となりますように」などと考えていた。
また、今回は「おふでさき」の注釈付きを持って行ったので、それを読み返して、先日共有した動画で思い浮かんだ、へんぴな所への参り場所の記述を探した。
あった。2号16の註釈で、特に「うちわけ場所」について書かれていた文中であった。
うちわけ場所は将来、内・中・外とそれぞれ31カ所ずつ、合計93カ所出来るとの事で、その中の一つがとてもへんぴな所に出来るとの事である。
さらに、元旦祭にお供えされたお餅の下付が、10時から13時まで行われた。
新型コロナ以前であれば、今日から「おせち会」で残ったお餅の下付が始まるのだが、今年は5日から7日(例年のおせち会の日にち)に下付されたが、残ったので、8日も延長したとの事で、この残りは、9日に直属教会ごとに下付されるとの事だった。
コロナ以前、このお餅の下付にはとても大勢の人が並び、手渡す手伝いを私たち奉仕者がさせて頂いたのだが、さすがに2年も間が空き、この下付に関する事は報じられないので、頂ける方が少ないのも仕方がない。
反対に、頂けた方は「とてもラッキー」だと思った。
今日9日、朝づとめ前から書き始めたわけだが、耳が痛む中、朝づとめに行かせて頂きながら思ったことを書いておく。
人間は生まれ変わり出変わりをする。(まず、これを真実と思うか思わないかで、人は分かれるのだが、それはともかく置いて置いて。。。)
生まれ変わり出変わりの回数、前回どのように悟れ、学べたかによって、今世の気づきも変ってくる。
人間の成長に例えたならば、子どもは子供の考え方をする。青年は青年の考え方、それらを経て壮年、さらには老人と考え方は変化するのである。
子供・青年については、分かりやすいと思う。(その後の壮年・老年については、その人々の経験と悟りがとても重要と思われるのだが、これも置いて置く)
ところが、この子供・青年期に行わねばならぬことを、壮年・老年の人の影響が強すぎて出来ずに、その時に学ぶ事が出来なかったらどうか、という事を思ったのである。
以前どこかで書いたと思うが、15才までの子供の身上や事情は親の心の現れと教えられるが、15才までに親が子供の身上事情から心を改めていなければ、15才以降も親の心の懴悔を求められる事情が現れるのである。
そして、幼い子供でも、少しの経験でもすぐに悟って、多くの事を学ぶ人もあれば、沢山失敗をしてようやく悟り学べる人もある事を思った時、人を助けるのは、親神様であり、私たちは自分の与えられた役割を、自分の徳一杯にさせて頂けば良いのだと思ったのである。
「親子でも夫婦の仲も兄弟も みなそれぞれに心違うで」とおふでさきにある。
それぞれに徳分はみな違うのである。
私は私の徳分、精一杯。
つたない文章でも、こうしてブログに思いを書き続けることも、一つの役目なのだろう。
とそんな風に思ったのである。
大教会の会報は、卒業させて頂いたが、このブログや資料の作成は、親神様がもう十分だ、お前の役割は終わったと言われるまで、やらせてもらわなければならないとも思った次第である。
次の予定の時刻が来ました。
書きなぐって投稿します。お許しください。
今日一日も、何があるのだろうかと、楽しみながら過ごしたいと思います。
ありがとうございました。