あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

無事に春の大祭終えました。。。創立130年。。そして親神様の導きなければ。。

2022年01月13日 07時42分27秒 | 思った事

昨日、2022年1月12日(立教185年・令和4年)

無事に春の大祭をつとめ終えました。

大教会長様に巡教いただき、ここ数カ月と変わらない人数でつとめさせて頂きました。

そこで、今年6月12日(日)の月次祭を、創立130周年記念祭と銘打って、合わせてつとめさせて頂く事、そこへ大教会長さんに来て頂く事をお願いしました。

面白い事に、今年12日が日曜日になるのは、この日しかないのです。

お運びをして別の日に設定する事も良いのですが、私にそこまでの気持ちがありませんので、月次祭が日曜日となる日とすると、6月となります。

さらには、そのように考えた時、この6月というのは、設立のお許しを頂いた月でもあります。

また、この日は次男の誕生日です。

今の世界の状況で、その時どのような事になるか分かりませんが、一つ定めて、この日には部内の信者さんや、縁者の方で来れる方来て頂いて、熱田分教会の歴史を振り返り、それを通して親神様のお働きを共々に感じられる日になればと思っています。

 

・・・

さて、連休が明けた11日、膿んでいた右足は、大祭の準備があるので、夜最終で病院に行こうと決めて、準備を進めていた。すると徐々にかゆみが出始め、病院に行く頃には痛みに代わって来た。

そして病院に行くと、傷口はかさぶたでふさがれて、その中で血が溜まってきたようである。そこで、今一度傷口と出血する内部を掃除して、違う抗生剤を処方してもらう事になった。

そこで、以前の事を思い出した。

以前も、一度目の抗生剤で腫れが引かず、別の抗生剤を処方してもらい、2度目の時に治まったのであった。

つまり、一言に抗生剤というが、それには何種類もあり、すべてのばい菌に聞く薬という訳ではなく、膿の元になっているばい菌に対応した抗生剤を探すことが大切なのである。

大きな病院ならば、血液検査などで病源体を特定する機械などがあるかもしれないが、町医者ではすぐには無い。また、見てすぐの投薬となれば、当たるも八卦、当たらぬも八卦で、その先生の見立てに寄るわけである。

以前にも書いたが、医者も知識・経験・技術によって様々である。

医者も薬がなければ、治療は出来ない。

そしてその医者の後ろにいる製薬会社が、どのような薬を作っているかにもよるのである。

何が言いたいのかと言えば、医者として一括りに、どんな病気も直してくれると思う事は違うという事である。

今の抗生剤と同様に、その病気に特化した医者もいれば、そうした知識を持っていない医者もあり、そのお医者さんが求める薬を造れる製薬会社が後ろにいるかどうかにもよるのである。

そう考えたら、良い医者を探すだけではなく、良い製薬会社も探さねばならない事になるのである。

さらに言いたいことは、

では、緊急時に、そうした事が出来るであろうかという事である。

私の足の腫れは、緊急時ともいえる。

まだ足だけで済んでいるからこのような事を書いておられるが、これが太もものリンパ節が腫れるような事になっていれば、もっと大変な事になるのである。

新型コロナ、そしてそのワクチンの事から、自然免疫がどれだけ素晴らしく、大切なものか十分に分かったはずである。

そして、その自然免疫を補うものが薬でなければならず、それを損傷するようなものは毒であると実感した。

そしてまた、「緊急時にそうした良い医者、良い薬を探すことは可能か」、という事を考えたら、それは不可能だろう。

請われるままに来る救急隊、その人たちが探す医者など、すべて人任せとなる。

つまりは、自分の意思ではなく、「人は神」と言われる如く、神任せなのである。

 

すべて自分の思いのままになっていると思う事が、大きな誤りである。

自分の思いのままにできることを、許されているだけなのである。

昨今、突然死の話をよく聞く。

この場合、全くもって、自分の意のままにはならないのである。

これも神の采配の一つと考えておく必要があろう。

 

陽気ぐらしとは、「人間が互いに楽しく暮らすさまを見て、神も共に楽しみたい」と思われて創られた、その思いの中にある。

「神も共に楽しむ」この言葉がとても重要である。

神様が楽しまれるのは、人間から声を掛け、お礼を言い、神様が楽しむことをするから、神も共に楽しめるのである。

人間がその思いを持たずに、自分だけの思いで、神を無き者にしたらどうなるのか。。

分かると思う。

 

神様の受け取りは、誠真実である。

(敷島大教会で出されている「山田伊八郎文書」の中で、教祖が最後のご苦労を終えられた後だったかに、目も見えず声も聞こえずという状態になられた時に、石板に文字を書いて、神意を尋ねられた記述があったように記憶しているが、そうした中に、「誠真実の声は聞こえるが、そうでないものの声は聞こえない」というものがあったように思う。また、これと同じ事を他の書物にもあったように記憶している)

誠真実とは「心と言葉と行いが一致したものである」

嫌ならばいやだと思い、そのように行動したらよいのである。

そうすれば、それを受け取って、神様は良いように導いて下さる。

反対に、嫌だと思いながら、良い顔をして返事をして行わない事が、一番悪く、親神様の良き導きは無くなる。

それを繰り返しての今日である。

 

教祖が現身を隠される前の、真柱様と神様との問答。

そして、その後の道の歩み。親神様の不思議な働き。

これをこのような観点で見たら、また感じることも違うのではないだろうか。

 

さて、今日は午前中病院、その後明日の支部例会のための資料を作成して、夜先日亡くなられた方のお宅へ行かせて頂く事にしている。

大祭執行の御礼とお下がり配りは、奥さんに行ってもらう。

問題は、支部例会の資料が出来るかどうかだ。。。

まぁ成るよう行くよう努めたいと思う。

 

 

 

コメント
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