葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

運転免許更新高齢者講習を受けて

2013年04月20日 17時37分05秒 | 私の「時事評論」


 忍び寄る老化どころではない

 運転免許の期限切れが目の前に迫った。実は自家用車は息子一家が我が家に転入してきたのを機会にすでに処分した。三年前、彼らが同居してすぐの時期、老妻と乳飲み子の相孫を乗せて、通い慣れた鎌倉市内の目抜き通りの三差路を右折するとき、雑な運転で車の右腹をぶつけ、そうそうあれは初めての高齢者講習を受け、免許を更新した直後に己が老化を知らされた最初の事態だった。知りたくない、そして認めたくないのだが、事故を起こして私は自分が忍び寄る老化現象にすっかり侵されている現実を痛切に知らされた。
 それまではあまり事故もなく運転を続け、30年間無事故無違反で県知事表彰まで貰った私だ。それがこの時、やっちゃったのだ。前方の信号では、車の流れが円滑に流れずに一信号で一台か二台しか左折できない。その先の車が思うように進めず入り込めないのだ。そこで信号直前まで左折しようと、細い一方通行の道路の交差点直前で左の車幅を大きくとり準備していたのを、とっさに右折の裏道から帰ろうと変更し、確認をいい加減に安易に右折、右の後輪付近を視線の下にある、頑丈な歩行者向けの鉄の柱にぶつけてしまった。ガツンと音がしたのに驚いたが、面倒なのでさらに前に進んで抜けようとして大きな損傷。

 息子一家はここから二時間ほど高速道や渋滞道を通り、東京郊外の旧武蔵野・多摩川沿いの団地にあった。そこまで昨秋に彼らの引っ越しが決まって以来、毎週週金曜の夕方と日曜夕方には往復していたのであまり老化による不注意の増加の意識はなかった。一家が引っ越しの荷物整理ができるように、小学校入学を前にした長男の孫や、今回同乗させていた生まれたばかりの息子を預かるために往復していたのだ。だが、自分に忍び寄る避けられない影はどこかで意識していて、注意をしているつもりだったのだが、ほんの目の前の駅裏の買い物だという気の緩みが、背後に影響していたように思う。

 私はそれまでは自分の足代わりにしていた車を手放し、ただ免許証があるので息子や嫁が駅まで行くのに同乗してそこから家まで戻ってくる帰路や、どうにも運転を頼めないときの臨時の買い物運転などに限って、息子たちの車を借用するだけで三年を過ごしていた。

 そこにやってきた今回の免許切れだ。もう本格的な運転をしようとは思っていなかったが、大家族で過ごしていて、娘も二人近所にいて、彼女等も頻繁に駅から我が家にやってくる。息子夫婦もここ鎌倉に慣れてきたし、嫁さんのストレス解消にも、スープの冷めない同じ市内にセカンドハウスでも設けて、ときには「鬼の居ないところでの息抜き」も欲しいというので、緊急時の運転をもう三年だけは、免許証の更新だけはやってみるかと考えて老人講習に参加した。

 恐ろしい変化

 だが結果は自分にとって驚かされる状況だった。一口で言うと、三年の間にここまで人間の体は老化するのか。それを痛感させられるものだった。講習は満70を超えた老人に義務化されている。認知症など、口は悪いが「ボケ検査」というもの、視力がまともかという「眼の検査」、それに運転に耐えられる「反応検査」ともいう機械を使ったシュミレーションテストという三本の柱が中心で、それに自動車教習所が会場だから、そこで運転の実技を再確認して終了する。
 「呆けテスト」16枚の絵を次々に見せる。そのあとすぐにはテストせず、数字を並べた表を見せて、そこから指定した複数の数字をチェックするテストをして、それが終わったところで先ほどの絵をどこまで思い出せることができるかという二つのテスト。
 数字のチェックは簡単だった。時間のうちにすべてが終了。次の順不同であっても良いから16枚が何の絵だったかという思い出しテストも、次いでそれらの絵のうちの乗り物は何だったか、果物は何だったか、楽器は何だったかという書き込みテストも、何とかす一つ少ない15問だけは書くには書けたが、なんとどちらも一つずつの図柄が思い出せないではないか。ど忘れというか、私の日常生活を振り返っても、思い出そうとすればただそう思って焦るだけで、いよいよその記憶がその場では浮かばない。それは確実に脳の老化ということなのだろうが、痛感させられるものであった。帰ってきたテストの結果は、これだけは5段階評価の5になっていたが、採点が良ければ安心というものではない。時間が残ってしまっても思い出そうとすると頭が固まる、自分の年齢が痛感された。そうだ、この誕生日、私は77(数え)の喜寿の年だ。長寿祝いは数え年でする。頭の柔軟性にもどこかくたびれが出ているのだな。
 視力、とくに動体視力や反応テストはひどいものだった。眼が確実に悪くなっている。眼鏡の度も合わなくなった。一週間前に角膜に傷がついて眼医者に行って、いま角膜を保護する粘膜を点眼している。反応テストの条件を間違えて、テスト中に気がついて修正した。弁解しようとすればいろんな条件も重なったが、教習所の教官は「大丈夫ですよ。これなら通りますよ。ただ、眼鏡の度だけはできれば調整しておいた方が良いですね」などと言ってくれるのだが、3年前と比較して、その進行ぶりに愕然とした。

もうやめた方が良いな

 物理的に免許を更新することは可能だろう。だが、ここでの免許の更新は良いのだろうか悪いのだろうか。考えさせられう数時間であった。
 私は一人で生きているのではない。人が集まり協力し合う社会の中で暮らしている。その中で、こんな不安を持っていることを承知して、それでも免許を更新してよいのだろうか。不注意に子どもが路地から飛び出してきた時にどれだけ対応できるだろう。二つ三つの危険な条件が重なった時に、どれだけ機敏に正確に動けるか。
 いま、自分の周辺で起こった経験が、何やら「いい加減にあきらめろよ」との神の暗示であるような気がしてくる。大体、眼の中に入れても痛くない孫息子を乗せながら、三年前にミスをした。あれだってもう、運転をやめろよという暗示だったのではないか。この講習の直前に、朝方急に目が痛くなって、慌てて眼科に診断に行った。どうしたことか、私は眼科が大の苦手で、この年になるまで、進んで眼医者に行ったことはないし、目薬を注そうと思っても眼を開けられない臆病者だ。それが迷わず眼医者にかけ込まなければならない気になったあの痛みは何だったのか。「もうやめておけ」との暗示と受け止めるべきなのではないか。
 あと誕生日までは一週間、おそらく免許の更新は諦めることにするだろう。いくら免許証など持っていても、夜などすれ違った直後の動体視力などは、呆れるほどに低下している。年よりはハンドルを持つよりも、夜の晩酌を楽しんで、ゆっくり過ごすのに適している。どうしても動かなければならないのならタクシーを呼べばよい。
 高い高齢者呼び講習だった。だが、免許更新を諦めたら、なんだかスッと肩の荷が取れたような気になった。

基本となるのは日本の精神気流復古

2013年04月11日 21時08分27秒 | 私の「時事評論」

  
葦津泰國

 はじめに
四宮正貴編集長の求めに応じて、雑誌『伝統と革新』11号に掲載した原稿です。校正の段階で数行書き換えましたが、私の思いをストレートに出しているものであり、しかも発売後なので紹介しておきます。

 神道指令に伴う紀元節の廃止

 二月十一日「建国記念の日」。日本が米軍の占領下におかれたときに、米国国務省が戦時中から準備してきた対日占領に関する日本弱体化政策に沿って、軍の武装解除を完了し、抵抗できない環境が完成するや発令したものに「神道指令」があった。米国は、日本の神道と天皇制、神話に基づく民族の連帯意識を消し去り、国が再びまとまって行動できないバラバラな集団にする準備をしていたのだ。指令で我が国の社会が捨てさせられたのが、国の誕生日「紀元節」であった。日本最古の史書『日本書紀』に、初代神武天皇が即位された経過が記されている。この時以来、日本は二千六百年という長い歴史を、国民全体の「まつり主」である天皇を中心として生きてきた誇りを捨てさせられた。キリスト教思想を基礎に成り立つ米国には、認める対象ではなかったのだ。
 米国の対日占領は、将来にわたる日本の戦闘力も完全に奪い去ることを目的にしていた。それには生産力や経済力を徹底破壊するだけでは足りない。日本人の精神文化そのものを破壊し、日本人のから西欧文化と異質なプライドを消し去ってしまおうと考えた。それは日本を胸を張って世界の強国に復活させないための施策でもあった。日本軍の解体の他に、「憲法や皇室法の改定、日本人の精神の基礎である神道の弾圧」も取り入れられた。軍の解体以外のこの種の行為はは国際法で戦勝国に禁じた行為であり、うわべだけ西欧を学んだ形式主義の日本政府の関係者や法学者などは、「想定外」と思っていたものだった。

 敗戦と同時に一人対米戦を覚悟した男

 だがここに、戦時中から独特の政治活動をしてきた一人の反骨の民間人がいた。彼は敗戦の必然を知り、ポツダム宣言などから米国が、日本の精神破壊を目標に計画的に占領を行うと確信していた。葦津珍彦という当時三十代の私の父である。肉親の父親の話を公の場で記すのは気が進まない面もあるが、父は開戦までは、日本が伝統的日本文化の美風を失い、西欧的な帝国主義へ傾いていくのに猛反対、国会でビラをまいたり地下出版を続けるなど激しく政府に食いつき、戦時中は無条件降伏になる前に早期和戦をすべきだと訴え続けていた。日本も帝国主義化して日米対決になった対米戦争には、日本にも言い分はあるが、戦は時期的力学的に見ても敗戦必至の亡国の道になると訴え、憲兵や特高に追われながらも活動していた。彼は伝統的日本土着精神を愛する頭山満はじめ在野の実力者に可愛がられ、政府内でも閣僚や軍上層部、外交官、官庁の幹部、それに新聞社の幹部の一部などから私的には好意と便宜を受けていて、軍や政府が逮捕しようとしても、巧みに逃げて、なかなか捕まらない。背後で見守る人々の好意もあって、戦局の生々しい情報も知っていた。彼は、日本が敗れたのちの占領行政は、まず日本軍の戦闘力を完全に奪い去り、次いで日本の政治構造、国民の精神構造の徹底的破壊を進めてくる。対象は天皇・神道・憲法を柱とするものになるだろう。相手は軍だ。作戦としての占領行政は迅速に進められる。その前に先手を取って全国の神社を残し、皇室を中心とした日本の精神文化を守らねばならない。そう戦後の抵抗の第一歩を決意した。自分は民間の一人の若者にすぎない。ただ代々の神職の家で育ったため、先祖の残してくれた人縁がある。それを活用してまず神社界を守ろう。神社が残れば日本人の心の中に、皇室を中心に守り伝えてきた精神気風が残り、やがてまた日本文化の再生も可能になるだろう。
 覚悟を決めた彼は父や祖父の友人であった神職の長老はじめ神社人に説いて急速に民間の全国神社の団体である神社本庁を作ることから占領政策対抗の準備を進めたが、その道半ばで追いかけるように「神道指令」が発表された。数日遅れれば、潰される極めて危ない環境での必死の対応であった。父はよく私に、「俺の対米戦争は終戦から始めった」と苦笑したが、苦心して神社本庁設立の後は、その活動を評価した神社界の幹部から、組織の目となり口となる機関紙・神社新報社を全面的に任された。
 葦津は戦時中から彼を大切に見守ってくれた人々などに応援されて、天皇制や神道の擁護者として懸命に働いた。だが廃止させられた紀元節がその二十年後に「建国記念の日」として復活されると身体を壊していたので退職し、第一線から退いた。だが平成五年に、天皇陛下の御代変りも過ぎ、それを見届けるまで自ら筆を執り続け、また若者たちの指導に当たって生涯を終えた。

 占領中にともに戦った男たち

 葦津が神社をいち早く、神社を国から離れた民間の統一組織にまとめたのは、占領中の抵抗の足場を作ることになった。占領軍が神社を国を使って規制しようとする試みは神社本庁という組織が中に加わり、命令が円滑に伝達できない規約などで武装していたので成功せず、日本側の予想しない間に突然指令を出して神社をバラバラな組織に分裂させようという目標も不可能にした。新設された神社本庁のもとに、用心深く、「紀元節の復活」をはじめ様々なことを将来復活させる活動を準備する道が開けた。
 紀元節の復活に努力をまずはじめたのは神職の有志、その最先端は神社新報の記者たち、神社新報の別組織に集まっていた先輩たちだった。それはまだ、GHQが神社への参拝などに厳しい規制を加えている占領の最も厳しいときから、合法・非合法の手段を尽くして展開され始めた。
 この日本版レジスタンスの由緒ある新聞社に、私は縁もあったので先輩たちに勧められて入社、途中からだが自分の生涯の働き場として生涯をささげてきた。そんな私にとっては、紀元節(建国記念の日)は、他のいくつかの運動とともに、格別に重みを感ずる記念日である。
 「紀元節」廃止の当時、私はまだ小学生であったが、渋谷の神社本庁ビルの片隅の部屋で、作戦の指導を受ける先輩たちの姿を覚えている。古い旧日本軍の外套などを着て、当時米軍総司令部(GHQ)を訪れた新報の記者は、「占領解除の後は、まず紀元節を復活させたい」と公言して憚らなかった。これにはGHQのスタッフたちも、「お前たちはいったいこの占領から何を学んだのだ」と絶句し怒りの表情を隠さなかったそうだが、彼らは屈伏させられない論を持ち、米軍支配の時代を逆転させる捨石になろうとの信念を持っていたので、ひるまずに取材を続けたという。彼らの中には軍の指導教官だった者もいた。彼らの指導を受け、後輩の戦友は戦場で戦死した。学徒出陣し、特攻隊の出撃順番を待つ間に敗戦を迎えた者もいた。靖国神社で戦友たちが待っている。記者の中にはそんな経験者も多く、生き残ってしまった自分は、これからどうしたらよいかと、神社本庁ビルに葦津を訪ねてきて、そのまま記者になった者もいた。

 土民の首狩り宗教に国際法は適用されない

 米国の占領政策は明白に国際法から逸脱していた。そのため、国際法を当然守るべき原則としていた日本政府や法学者たちは、「よもや先進文明国の米軍がここまで乱暴な違法行為はしないだろう」とタカをくくっているうちに、守るべきものの殆どを失う形となったのは先に触れた。西欧知識を身につけた日本の「自称インテリ」層の多くは、本で読んで知識を頭だけで身につけたような連中だった。うわべだけの西欧を習い、基礎にある彼らの生活観や規律や気風を歴史を見て学ぶほど、深く西欧を見ていなかった。西欧人が共通信仰をもつ者には寛容でも、異教徒や無神論者に対しては冷酷に無視又は敵視するのが当然とする感覚でいるなどとは、どの本にも書いてない。もっとも日本が戦争に敗れた時は時代の転換期で、これ以降の世界情勢は、国際法への順守意識が極めて希薄になっているといわねばならなくなってきているが。
 国際法の浅い理解は占領軍にも共通していた。神道指令や憲法改定の違法性を神社新報に突かれると反論に窮し、「国際法上の戦勝国の禁止条項は、お互いに文明国同士の場合に適応されるもの。首狩り習俗の宗教を持つ土民の文明には適応されない」などとうそぶき、だから我々は「日本を文明国並みに民主主義化してやったのだ」などと勝てば官軍、何をやっても良いのだと言わんばかりに応答した。拙父と占領軍民間情報局のバンス氏との応酬で、新報社員には忘れることのできない言葉が語り継がれている。摂父もよほど頭に来たのだろう。そののち新報社から『土民のことば』という著書を発行した。「土民なら土民でもよい。土民らしく堂々と世界に生きようではないか」というプライドががその背景に流れている。だがこんな米軍であったが、さすがに神社新報は弾圧すべき対象の機関紙ではあっても新聞社だ。その「思想の自由」を無視して、公然と弾圧処罰しそれが世界に広まるのは、占領が世界中に「民主主義の徹底のため」と自称しているだけに、避けねばならなかったのだと思われた。渋谷で活動した記者や有志の中から、逮捕者は出なかった。

 蛇足になるが、少しここで米軍の日本文化の読み違いに一筆しよう。米軍は兵力や資源もなく西欧的合理主義からみれば、抵抗は無意味と思う状況でも、「全滅」「万歳突撃」「特攻攻撃」などを含めて戦意を失わずに戦い散って行く日本人の力の根源・「大和魂」は、狂信的な国家宗教・神道に基づく独裁的な天皇制の強制があり、武士道の延長線上の行動でもある」などと愚かにも確信していたようだ。だが戦争を指導した軍や政府の教育を受けた幹部たちは一応除外して、大半の国民は妻や子、両親など家族や同胞を戦禍の犠牲から守るため、己を捨てて戦ったのが事実だ。しかも彼らの大部分は伝統の武士の出身ではなく、明治期までは地域の内戦にも加わったことのない赤紙で応召された平民だった。一般の国民は武士道には縁薄く、当時の指導者層のように、西欧知識などにも縁は遠い。ごく平凡な日本人だった。数千年以上続いた農耕や漁業中心の集団生活の中で、協力し合い家庭や集落を大切に生き、毎年村を挙げて「五穀豊穣」を祈り、社会の決まりや秩序を大事に生きてきた。そして神々に、代々己を捨てて祈り続ける帝を慕い「浦安の国」を念じ続けてきた人々(常民)だった。米国が的を射た占領政策をするのなら、明治以降の日本の知識人の中にはびこった、うわべだけの西欧文明への憧れから、髪が黒く顔は黄色くても自分らも帝国主義化しなければならぬと突っ走った欧米追従の知識人の知識の浅さを再教育して、本来は穏やかで平和を好む集団である日本人の文化を暴走させない教育をしたほうが利口だったのではないかと愚考する。命がけで抵抗する日本人を見て、戦闘力旺盛な戦闘的恐るべき民族と勘違いした際には「窮鼠猫を食む」という現象を想起すべきであった。
 相手の文化をしっかり見て対応することは大切である。日本での占領行政が成功したのは、国民が尊崇する陛下が、「耐えがたきを耐えて復興せよ」との証書を出され、率先占領政策に従われたからだ。米国は、なぜ占領が日本では成功したのかの分析ができず、日本で行った占領政策と似たようなことをその後も世界で実施してことごとく失敗した。この文明理解の見間違いが二十世紀以降の米国の諸外国への占領政策をことごとく挫折させた原因となったと私は見ている。

 明治以降の日本の文化

 西欧植民地抗争が熾烈を極めた江戸時代、日本も西欧諸国の圧力で鎖国を続けられない環境となり、維新を断行して国際社会の一員となった。進んだ西欧の「技術や知識」を取り入れて、西欧白人国家が中心である世界に仲間入りして独立を確保せねばならない時代になったと判断をした。日本は「和魂洋才」の大原則を掲げて西欧技術をも積極的に取り入れることになり、西欧白人の寡占状態であった世界地図に、有色人種の伝統的な文化を持った独立国として生き残ろうと決断した。これが明治以降の大雑把な歴史である。
 だが日本の西欧列強の独占する社会への食い込みは、当然西欧白人諸国の反発を受ける。人種差別の意識や文明の異質性など、従来にはなかった問題も生まれる。その摩擦の中で理想を求めて日本の苦しんできた歴史は、明治以降の外交史を一読するだけで分かる。日本の敗戦後、多くの非白人の国家が世界で活躍するようになったが、これは我が国の敗戦ののちにその影響として世界が変わった結果であるといえる。
 だが日本と西欧との間には、そればかりではない。西欧技術を急速に取り入れようとした日本にも大きな混乱を生んだ。日本文化の継続のために西欧技術を習得に行った者の多くが、華々しく見える西欧近代文明に幻惑されて日本を忘れた西欧文化の礼賛者になってしまったことだった。「和魂洋才」を国是とした日本が、国が期待した人々によって、浅薄な西欧理解に基づく「洋魂洋才」の国になってしまったのだ。
 そんな傾向は日本の知識人とされた政治家・軍人・官僚・学者・新聞人・教師・技術者・言論人の間に特に強くなり、一般国民の意識とは合わない方向に国が動き始めた。国民には「和魂洋才」の国是は生き続けていて、在野の民間人には国民の支持のもと、維新の精神で外国とも接しようとする日本人も多く存在し、日本旧来の社会意識が国民底辺に定着しているのに拘らず、国の方針がこれと少しずつ離れていくような現象がだんだん顕著になってきた。アジア外交などでは同じ日本の在野の活動家と西欧を模倣した国とが反対に動く場面なども見られるようになった。
 日本が「和魂洋才」の大原則を失いかけた結果が大戦に発展し、昭和の敗戦を迎えてしまったのは、そんな結果だと考えている。また、在来の日本の知識人なら、敗戦を迎えてもすぐ戦勝国にすり寄って、祖国の文化をつぶそうとするようなものはほとんど出てこないだろう。だが日本の戦後はそんな風には進まなかった。そしてその弊害が、いまの我が国の社会問題の種となっている。

 政治の表面だけを追いかけてもダメだ

 話を紀元節に戻そう。日本人を精神的に骨抜きにするには、占領軍も紀元節の禁止を大切な柱に据えたし、日本の精神文化を取り戻そうとした先輩方も、この復活を足掛かりに日本の復活を夢見た。紀元節は占領中の片山内閣時代の世論調査でも、存続を望む国民が九割を超し、「民主的」とのポーズを示したかった占領軍が、拒否権を使って排除せざるを得なかった記念日だった。
 「紀元節」復活を望む先輩方はその復活を占領解除後に求めた。だがこの日は占領解除とともには復活はしなかった。与野党政治の駆け引きの道具にされて祝日法は通らず、この日が「建国記念の日」として祝日に復帰したのは昭和四十二年の暮れであった。
 日本人の心を失った国会議員のため、建国記念の日として紀元節は遅れに遅れてようやく成立したが、国民の大切に思う精神回復の決議が国会での与野党の政治取引の道具にされて何年もつぶされ結局は見送りになるるという悪しき慣例の基礎ともなった。こんな傾向はその後も続き、「靖国神社」法案は廃案を重ねている間に復活を強く望む遺族たちは次々に死亡し、その後に新たな問題も起こって、いまだに手がつけられていない。
 それでも私はこの日には必ずどこかの奉祝大会や祭典に顔を出すことにしている。神社の紀元節祭や様々な奉祝大会に参列するが、どこでも集会は神前や特設祭壇で「紀元節祭」、皇居と神武天皇即位の地橿原を遙拝、文部省が明治時代に官報に乗せた「紀元節奉唱歌」を歌い、戦後に占領軍に実質的に押し付けられた憲法の改正、愛国心の涵養、国防力の強化、戦後の変更教育の是正などが声明として採択されたり決議される。それらの一つ一つを取り上げれば、どれも政治的に大切なことだと思うし、熱心に集う若い人たちの姿に、将来への期待を感じはする。
 特に最近は戦後政治が様々な面で行き詰まりの様相を示し、日本はバラバラだと甘く見る風潮が周辺国に強まってきたからか、国民一人一人が「こんなことで日本には将来があるのだろうか」との不安の意識も高まって、いままではどこか上滑りの感を与えてきた「自主憲法の制定」の問題や、日本人の集団意識を解体することのために教育をしているような「教育の正常化」などの問題にもうまくすれば実現できそうな気配も見えてきた。掲げられたそれらの課題は現在日本の政治上の体制を一つ一つ変えていくことは、続けていきたいものである。
 だが、それだけを私らが進めようとするだけで、果たしてこれで日本という国は我々が夢見た浦安の国、人々が睦みあう国になるのだろうか。一抹の不安を持って式場を後にすることが多い。

 政治制度を変え、法律を作るだけでよいのか

 それは今の日本があの終戦直後の世論調査の際のように九割を超す国民の支持に支えられ、あるいは昭和二十七年の講和条約の締結直後のように、三分の二を超す人々が靖国神社の国家護持の復活を求める請願に署名するような環境にいま、日本国があるとは思えない状況に私がいるからではないか。法は政治の規律であり、政治は国民生活の一部にすぎない。私は日本の社会が、いつの間にか従来の美しい心を失い、道徳も消えかけている国になってきているのが気になってならない。
 世界には立派な憲法条文を持つ国も、良き政治制度を持った国もたくさんある。だが、それだけを見てその国を評価するわけにはいかない。法律・政治の制度は大切なものだ。だが国の文化そのものは、そんな部分だけではないのを忘れてはならない。住み良い国になるためには、ここに住む人々、我が国でいえば日本人がどんな精神で生き、日本の文化を作り上げていくかだと思う。それが今、問われていると思う。
 私は日本という国が断絶ない歴史を重ね、その間に代を重ねてきた途方もない数の先祖たちが、一粒一粒の砂粒を積み重ねて作り上げてきた日本文化が大好きである。それはあの大鍾乳洞の石灰岩の柱が、一滴一滴の水滴がもたらすわずかな石灰質が何千何万年も積み重なって見上げる高さの輝く石柱になったように、日本人の先祖たちの思いが積もり積もって出来上がっているもので、祖先からの思いが積み重ねられて生きている何にも代えがたい日本の宝である。
 時まさに現代文明は、自然とは征服の対象であるという基本姿勢を基にした、あるいは一人ひとりの個人の独立を第一としてきた西欧文明の思想だけでは加速度的に発展を遂げた人間の文明が、人類破滅へと急転換するのではないかとの危機感が急速に強まり始めた時期でもある。そんな中で人類文明が生き残る道は、私は日本文明の持つ自然と調和して生きる精神的姿勢を取り入れる以外にないのではないかと思っている。
 地球で生きているのは人間ばかりではない。動物や植物、あらゆるものが懸命に生きている。山も川も海も石もそれぞれに存在を主張しているし、天候も気象も生きている。日本の文明はそんな前提に立ち、それらの万物、すべてに霊(命)がありその背後には神性があるとして、その調和の中に我々も暮さねばならないと思って生きるのが神道だ。また、人間同士は一人一人はささやかな能力しかないが、祖先が子孫を思い、夫が妻を思い子を思い、隣人から集落、国家を思い、お互いに心を配り、結びあい、協力し合う精神で連帯していくことが大切だと考えるのが日本文化の特徴だ。そんな思いが人々の間に様々な道徳や秩序を生み、まつりが生まれ、まつり主ができ、日本文化が形成された。
 いまこそ日本の文化が世界に役に立つものを提供する時代になったのではないか。私は同じ文化を世界に作れと言っているのではない。ただ、こんな我々の発想の中から、世界の文明が何かを学んでほしいと思っている。

東北大震災から二年過ぎ(下)

2013年04月02日 20時54分34秒 | 私の「時事評論」

 西欧の自然観と我が国の自然観

 今回の東北地方の大震災を見て、我々日本人の現在の意識が、従来の日本人の持っていたそれと比べて、いかに浅い上面だけのものになってしまっているかを痛感させられたのは私だけではあるまい。それは現代の日本人が、従来体質的に身につけてきた自然に対する恐れや慎みの意識を忘れ、自然を整復し、ともすれば対決的になりやすい西欧的知識にいつしか組み込まれてきていることに始まっていると思う。
 前回にも触れたことだが、あの地震が起きた後、東北東関東の被災地においても、今回程度の大津波が何度かあったことは、日本の文献や伝承に明瞭に残されている。その中で最も特徴的で、記録の詳しいものは貞観11年(869)、陸奥の国に大地震と津波の記録だ。時の清和天皇はこの報に接し、天災が起こるのは己が罪だと自然を掌る神々のお怒りと慎み恐れて、神社への祀りを徹底して行われ、その罪は我にあり民にはないとして、復旧に力を入れられた。その陛下のお姿を見て、藤原良房以下当時の官僚たちは、それは陛下だけの罪ではない。我々民にも自然を掌られる神々への慎み惧れが足りなかったのだろうと、自分の俸禄の減額を申し出、被災地救済に力を入れた。この地震の一部始終や多くの記録が日本の史書(三代実録)などに残されている。
 天皇のご姿勢、そして国に仕える百官の公務員たちの気持ち、それは現在の公務員や学者・専門家たちの姿勢とは全く違う。だが近代の学者たちは、西欧の技術のみに的を絞り、我が国の貴重な記録などは軽視して、自らがこの種の震災にどう接するかの気持ちも忘れて進んできてしまった。

 「想定外」の言葉の持つ意味

 これは現代日本の大きな欠陥であると思う。西欧を先進国とみて、西欧のみを見て日本の歴史を見ようとしない傾向が今では強く、その弊害は日本の各部門に出ている。地震や津波に対する対応も、ほとんどが関東大震災以降の西欧的統計数値のあるものだけに絞られ、これに基づき避難法などが練られてきた。こんな発想をして、全体を見ようとしてこなかった学者たちは、今回の災害に「想定外」という言葉を連発している。だが、その背後には西欧の自然科学のみに依存し、日本の歴史を軽視してそれで良しとしてきた彼らの頭の固い「想定の偏向」がある。「想定外」とは、専門家と称する者の視野が狭かったことを糊塗する無責任な弁だと知るべきである。
 明治維新ののち、一国だけで鎖国の夢を追って生きていけないと知り、国際社会に生きて独自の国柄を維持していく覚悟をした日本は、「和魂洋才」を基本的姿勢にして今後は進んでいくことにした。西欧の最新技術も存分に取り入れながら、精神面、国民生活の意識においては、大いに日本らしさを生かして日本文化の個性を保持していこうと決断したのだが、いつしか西欧技術の前に日本の文化意識を見失ってしまい、西欧に礼賛してかぶれてしまった。こんな日本の新知識人によって、いつの間にか日本は伝統軽視、西欧追従の形になってしまった。
 先にも触れたように、日本文明はこの世界を「万物の調和の下での共存」を基本として出来上がっており、この世の中にあるあらゆるものは、我々人間と同様に、すべての動植物から石や海山川、風雨や空気が価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに、また仲間同士で協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんな思いから「すべてのものには皆、霊性があり、それを掌る神がいるとする神道が文明と価値のある大切なものであり、人はそのことを忘れずに協力し合って生きていかなければならない」との基本姿勢に立っている。そんなすべてを掌る神がいると大切にする神道的感覚が文明と不離一体になって継承されてきている。

 西欧では自然は挑戦し克服する対象

 西欧の学問はキリスト教の旧約聖書を基礎にして自然に対して「人間が挑戦し征服する相手」ととらえる発想で成り立っている。それは日本と西欧の人々の歴史的な複雑な相違から生じたものだが、厳しい自然に対しても、完全と勇気をもって立ち向かい、これを征服することによって自らの存在を主張するというのが精神的基礎にあるといえるだろう。集団を重んずるわが文明よりも、多くの民族が共存していたため、人の発想がどうしても一つの宗教の信者に絞られて、自立した個人を追及する文明精神の上に成り立っているが、それでも最近はかなりの異教徒間の広がりも出てきた。
 そんな違いに対する前提の認識もなく、西欧の産業革命以来の素晴らしく発展した技術の発展を状況を見てあこがれて、己たちの積み重ねてきたものを忘れて暴走してしまったのが我が国の専門家や公務員など、いわゆる日本の知識人と自認する者には多い。その軽薄さが露骨に表に出てしまったのが今回の地震・洪水騒動であった。
 だが、その西欧文明の積極果敢な自然に対する勇気は評価するとしても、現実的にそれでは人間がどれだけの力を持って自然そのものと対抗するだけの力を持つことになったのかは冷静に知らねばならない。
 地球上では異常気象といわれるような現象が繰り返される。水害ですべてを流される事故、旱魃で農作物が全滅する事態、台風や竜巻、地震、津波・・・・。異常な生物の突然の発生、地球上にはこの種の我々人類にとっての予想もできない事態はいつ起こるかは分からない。だが人間はまだ、それらから身を守るためにあらかじめ天気予報や地震予知などで被害を事前に予知することもできないし、ましてや台風ひとつ、そのコースを変えることなどまだまだ当分できそうにない。
 自然のもたらす災害に対しては、人間のエネルギーではとても「征服」などできるものではない。人間と大自然、その持つ力はあまりにも違いすぎる。そうなれば、我々は傲慢な力を持って自然の威力を押しつぶすより、その膨大なエネルギーの前に、我々がいかに被害を受けずに生き延びて、ほんの少しずつであっても、治山治水に努力して、環境を住み易いものにするために自然を汚す水や空気を浄化して、いま、急速に増加しつつある人間の営みのもたらす地球汚染の累積が、人類そのものの将来の絶滅から逃れうるかに努力する以外にないのではないだろうか。そうなればその結果は、西欧文明で行こうとしても、日本が今まで自然そのものに霊性があり上がいるとして、その神々のために祭りを欠かさず、神を敬い、また神を畏れて生きていくという方針と同じ道を歩む以外にないのではないだろうか。
 私が決して「和魂洋才」の精神を日本人は忘れてはならないと主張する根拠はここにある。

 今回の東北大震災に向かって主張したいところ
 
 二年前に起こった東北・東関東大震災に対しても、私はあの清和天皇の同地に起こった震災に対する基本姿勢を基に、全国民が協力してことに当たる純粋な精神姿勢を維持するべきだと考えている。そして恐れ多いことだが、天皇陛下の報道されるご日常を漏れ聞くに、陛下はあの時の帝と同様のご姿勢で、地震からの民の生活回復を祈り続けておられるのを感ずる。今上陛下のこれらの災害に対するご姿勢は、中越大地震においても、関西大震災においても、その他の災害においても変わらないし、これは日本国の歴史とともに、代々続いてきた日本国統合のまつり主として少しも変化することがなく続いてきている。
 問題はそのもとに行政を担当する役に就いていた百官の役人たち(政府や地方の公務員、政治家や専門家と称する集団を含む)の精神姿勢、そして国民たちの取り組みである。貞観地震のあの時のように藤原良房以下時の官僚たちが、自らの報酬を辞退してでも、一刻も早く津波や震災に襲われた地帯の原状回復に身命を賭して打ち込んでいるのだろうか。それを見て企業や国民が「震災の解決がなければ日本の明日がない」との思いを共有して震災復興にすべてに優先して取り組んでいるのだろうか。どこまでの復興を持って良しとするのか、どの程度の耐震・対津波対策を立てて、それ以上はどのような対応をするのかなど、具体的なことにまでは触れない。科学技術は1200年前とは比較にならないように進んでいる。それに応じて耐震・対津波対策も相当当時からは発達している。情報量なども比較にならない。そんなものに基づいて精一杯に進めるべきだろう。一刻も早い、避難している被災者たちが再び集まり、明日に向かって明るい笑顔をして和やかに働ける郷土の復活、明るい笑顔のあふれる被災地への復活を望むものである。

 最後に原発について

 今回の東北大津波に関して、我々が最も大きな反省をしなければならないのは原子力発電所のもたらした処理不可能な事態への収拾策である。まき散らされた放射能は現代の科学技術では完全に回収して無害化できないものである。汚染処理などという作業が進められているが、それは危険な放射能を含む物質をかき集めるだけで、まだ集めたものの無害化はできず、また除染などと言って水で洗えば最終的にその水はその水は海中にまき散らされるなど、やはり放射能を含んだまま拡散される。人類はまだこの放射能の無害化技術を発見していないのだ。それなのに、なぜこんな状況で原子力発電所を開発したのか。こんな決断は人類文明にとってなんの理解もない許されぬ暴挙であったと私は思っている。
 いままでに人類はフッ素ガス、アスベストを始め様々な有害物質など、放置すれば人類文明を破壊する恐れのあるものが出てくると、国はそれらを次々に製造禁止にした。それなのに、なぜ原子力発電所から出る危険な放射能物質が比較できないほどに有害であることを知りながら、これを実用に供することにしたのか。
 「電力需要があるからやむを得ない措置であった」という説明は論理の整合性が立たない。「いま、贅沢をしたいから、子供や孫の名で膨大な借金を作って遊び歩く」というのとよく似ている文明の将来を考えない弁解だ。残留放射能の安全な消去技術が開発されてから原発利用は北朝鮮のミサイルや今回のような地震や津波に対しても万全な対応措置を固めてのちにいうべき言葉であると私は思う。
 福島原発の放射能が消えるまでは、たとえ鉄筋コンクリートに密閉して保管をしておいても、密閉容器の耐久寿命のほうが短く、膨大な放射能物質があふれ出る危険性があるし、これは全国にある既存の原子力発電所にも共通する問題である。
 また、私は神道人である。日本人はすべてのものは神々が作られた大切なもので、それらは神々の感謝して大切に使わせていただいて、使用ののちには立派に元の姿に復元してお返しするのが常識だとの精神で暮らしている。だが、放射能物質は神々がお認めになる大地の資産といえるものだろうか。また、今回もなかなか原状に回復できない放射能に汚染された国土も、大切なその土地を見守られる神々の統べられるわが日本の領土である。それを人も住めない荒野にして放置する。これが神々のお気持ちに沿うことなのだろうか。天かける神々ばかりではない。そこには大切な我々の先祖の墓もある。先祖が子孫のために残した鎮守や美しかった田や畑もある。美しい山や海や川もある。神々は我々に御利益を与えてくださるだけのものではない。我々の行い次第では大きな神罰をもおあたえになるものであることも忘れてはならないと思う。

東北大震災から二年過ぎ(上)

2013年04月02日 20時43分45秒 | 私の「時事評論」


 天皇陛下と東北大震災

 先月、あの東北地方を中心に襲った大地震と、それに伴う巨大津波から二年目の記念日が過ぎた。災害に遭った各地、被災者が疎開する避難地、首都東京で多くの殉難者の慰霊祭があり、早期復興が誓われた。東京の国立劇場での慰霊祭には天皇・皇后の両陛下も臨席され、犠牲者の標柱の前に深い哀悼の意を表明された。
 天皇陛下は、現憲法では国政には関与できないことになっている。国政の責任を担うのは政府をはじめ国・県・市町村などで、とくにそれを束ねるのは首相の責任となる。だが式場での陛下は、災害の責任はすべて御自ら背負いになっておられるとの沈痛なご表情で、痛切な哀悼の言葉を述べられた。国のすべてを背おわれる「祀り主」としての伝統のお立場は、悠久の歴史の中のほんの一時、しかも一部分を律するにすぎない憲法などで定められた軽いものではない。そのことは全国民が知っていて、陛下のお言葉には被災者に対し、未曾有の災害からの救助のために懸命に復旧の作業に励む人々に対し、心からの励ましのお気持ちが込められていて人々の心を打った。
 今回の震災の一部始終を、外から眺めた外国の人々が最も強く感じたのは、あの驚天動地の大災害の中でも、日本人が蜘蛛の子を散らすように我がちに四散するのではなく、秩序を乱さずに行動したことであった。日本人の歴史文明の中で長い間に培われてきた行動方式は国民に遺伝因子のようにしっかりしみ込んでいて、緊急の事態に日本人らしい進退をはっきり示す。これは世界の他の異文化の地には見られない特徴だと外国人記者などは驚嘆して世界に伝えた。震災の報に接して天皇陛下が被災者に対してお述べになった言葉は、全国民を被災者救済へ力を合わさせるものになったし、被災地をお見舞いになった陛下のお姿は、何よりの被災者たちへの励ましとなった。首相はじめ政府関係者たちに対しては取り囲んで、遅々として進まぬ救済に苦情や罵声を挙げていた同じ被災者たちが、陛下のお見舞いには涙して感激する。これを見て、日本人が昔も今も、変わらぬ日本人であり、片片たる憲法や法制度の変更などでは変わらぬものであることを実感させられた。
 戦後の日本は憲法や法制度などを中心に大きく変わり異質の国になったなどと述べるものは国内にも多い。だが、戦後70年も経過して、現在の陛下と国民の間には、数千年も続いてきた同じ心がいまも生き続けていることが明瞭に示された。こんな日本の姿を見ずして、地につかない空想的復興策を練ってみたところで日本国の円滑な運営はできない。言葉を代えるならば、政治や行政も、その日本人である意識を軽んじて70年間歩んできたが、その空回りした復興策が、早急な成果を上げるのを遅らせる結果になっていると言えるのではなかろうか。
 顧みれば関東大震災で首都近辺が壊滅状態になった時、その復興の先頭にたたれたのは当時摂政の宮であられた昭和天皇であった。あらゆることに優先して復興に進まれる陛下、そのけん引力によって日本は素晴らしいスピードで事態を乗り越えることができた。関東大震災での死亡や行方不明者は10万5千人、その大変は火災による焼死者だったが、津波も神奈川県などで10メートルにも達し、1000人を超す津波による死亡・不明者を出した。それでも政府は全力を復興に当て、この震災が特に焼死者の多かった事実を見て、都市災害に強い街づくりを中心に、内外にも国債を大量に発行せざるを得なかったが災害強い都市づくりを基本に大英断を持って進められ、その復興の姿が今の東京の基礎となった。復興計画は震災直後から後藤新平など多くの指揮官の将来の都市つくりの基本プランに沿って進められたが、災害の悲しく暗い思いを転換させるにも、それを超えて人々に希望を持たせる未来への設計図は必要だ。それが示されたのが大きな力になり、陛下がだれよりも早期復興を願っておられるというお姿が復興を可能にした、これに比べて今回の震災直後、政治はお互いの批判合戦に終始し、復興計画には、国としての将来の東北発展の青写真も復興計画もはっきりせず、しかも放射能汚染といういつ解決するかも分らぬ危険は手をつけられずに放置されたままで進められている。これで災害を受けた人々に明るい気持ちを持たせることができるのか。どうも未来への期待も希望も感ぜられないような気がしてならない。
 
復旧できるものできないもの

 大津波から二年が経過したが、被災地からは、復興が遅々として進まない情報が続々と伝えられ、被災者ばかりではなく、全国民の心を暗く沈んだものにしている。日本という国はそこに住む人々が心をつなぎ合って、苦楽をともにしながら築き上げてきた共同して助け合うことを基本にした国である。避難のために四方に散っている東北地方の人々が震災前の故郷に戻り、希望を持ち明るい気持ちで心から楽しみ、日々を建設的に暮らすことができない限り、日本はこの災害を乗り越えることができたとは言えないだろう。いまでは昔住んでいた地域に、まとまって住む土地さえ確保されていない状況だが、そこに人々が戻ってきて、再び人々の明るい共同社会が復興されて、はじめて震災の爪痕が埋まったと見るのが常識だろう。
 今回の復旧には時間がかかりすぎている。全国の人々、さらには外国の人々までが被災者の救助、被災者の立ち直りの資金募集などに協力をした。応援の手は世界中に広まった。だが、そんな善意はどのような形で生かされたのだろう。私もささやかで取るに足らないものかもしれないが精一杯の協賛をしたし、復興支援協賛のためのイベントなどにも積極的に加わって集めた資金を自治体などに提供をした。国自身も膨大な応援をしたのだと思う。だが現在の被災地の光景を見て、一体それらはどこに消えてしまったのかと、ため息をつきたい思いでいる。
 復興には、同胞たちの支援、諸外国の応援も生かされて、もっと効率的にかつ迅速に効果的に当たらねばならない。もたもたした姿ばかりが目についてならない。聞くに、従来のままの状態に復興しようと、最低限度の復興を目指しても、集まった資金はまともに振り向けてはもらえずに、中間にいる役所などが「書式や制度などが整わず、合理的な再建企画に合わない」などと言って滞ってしまっていると聞く。善意の資金が官庁の定めた将来の復興計画に、「有効て使えるか」などとの会議費や会合費などに使われてしまったり、災害復興とは直接つながらない部門に費消されたりして、存分に被災者の復興に活用されていないとのニュースも多い。これでは行政がこれでは復興を阻害しているといわれても仕方がない現状ではないか。
 どうすればよいのか。災害には復興できるものとできないものがある。あの大震災、とくにそれに伴って起こった大津波において、行くえ不明者を含む二万人の尊い人命が失われた。これなどは復興できないものの最たるものである。犠牲者には多くの子供たちや老人が含まれている上に、自分だけなら逃れることができたのに、同胞・仲間たちの避難を進めるために命を失った人柱も多い。だがこれらの命はもう、冷たいようだが以前に戻すことができないものだ。これに対しては、そんな人たちが生きていたら、おそらく全力で助けようとしただろう遺族たちの世話を行政が負担して、応援するだけでやむを得ないとする以外にない。そんな部分に支援の資金が使われることには意義はない。
 ただ、それだけでは足りない。次にはそのような犠牲者が増えないように、今回の犠牲の教訓から現段階でなしうる最低限度の教訓を学び、次の災害で急増して増えることのない対応策を固めて、次には現在も30数万人もいるといわれる避難被災避難者の一刻も早い故郷復帰を図りながら、東北復興の未来に向けた青写真を即刻立てて取り組むべきなのではないだろうか。
 地震や津波に襲われた被災地には以前にも勝る活気ある街を作り、そこで人々の明るい営みを再興させる策に万全を期すことだ第一だ。併せて、次に災害が襲ってくるときには、どう対応するかの、災害の程度に合わせた準備にも手をつけておかねばなるまい。

 どこに防御の節目を作るか

 そう思うのだが、いまでも津波の被災地は閑散とした膨大な原野が広がっている。再びあの大津波が押し寄せてきたらどうするか。これを考えるのは大切だ。ただその対応策にのみ時間がかかり、街の復興にまでブレーキがかかっているような現状をどうするか。考慮しなければならない問題が多い。
 今回、東北を襲った大津波は、ところによっては山を越す30メートル、40メートルの高さに達したという。そんなものを防ぐ防波堤などを完璧に作るプランを立てようとしたら、日本領土の沿岸は、見上げるような防波堤で取り囲まれてしまい、国土全体がまるで監獄のように殺風景なものになってしまう。それに第一、そんな大工事をするだけの原材料も資金もない。それを延々と協議する間待てというのか。これに関して、今回の地震や津波では「想定外」という無責任な言葉が政治家や関係学者の間で流行した。この言葉は無責任以外の何物でもない。災害に対しては、数年に一度程度は起こるもの、100年に一度程度は起こるもの、数百年に一度程度起こりうるものなどの程度に応じた対応策を「想定」し、それぞれに応じた対応を準備しておくのが行政の義務だと思う。
 特定の限界をもうけてでも、一刻も早い、そして災害にも耐える街づくりをして、直ちに対応方針は定められなければならない。そこの明るい暮らしを復旧するためには、数年に一度クラスまでの津波防御策を良く調べ、それらに加えて台風、高波などへは安全な機能を復活させ、まずその対応策を立てるべきだ。そして一生のうちに一度あるかどうかわからないそれ以上の大津波に対しては、避難体制をしっかり固め、避難道路の整備をするなどの順部が求められるだろう。加えて、老人や子供など避難弱者には、それ以上の事態がやってきて、万一彼らが不幸に流されても、攻めて命だけは安全なライフジャケットなどを要所に配備して、一日でも早い復興を期すべきであると思う。



 今回の大津波に際しても、調べてみると、海面からはそれほど標高は高くないところでも、被害に遭わなかった地域も多い。昔からの神社などが多く被害から免れて残っているし、古い集落が新しい住宅より津波の被害が明らかに小さい。津波の跡をつぶさに見ると、我々の知識は、先祖たちの知識にはるかに及ばなくなってしまっていたことを痛いほどに知らされる気がする。先祖たちの歴史には、その長さ故に蓄積された知恵が込められている。日本人は最近、身近にあるもの、郷土の歴史がかたりかけようとしているものを無視して、西欧科学知識にのみ依存して、それらの語りかけるものを無視しすぎたのではないか。
 対応策には、そんな我が国の歴史の知恵も生かすべきだと思う。
 また今回の津波では、津波による水死者が他の死者に比べて圧倒的に多かった。それらの死者を増やさない最も簡便な方法は、ライフジャケットの活用である。ライフジャケットというと首をかしげる人も多いと思うが、あの飛行機や船には座席の数だけ用意され、それをつけていれば水が来ると自然に膨れて水に浮き、しかも頭が水面上に出て、装備されている無線機で数日にわたり浮いている場所を発信続け、救助の人に救助を促す。これを装備していれば、8割9割の人が助かることは統計的に確かめられていて、しかも費用は一着当たり数千円の代物だ。これを学校や病院、養護施設をはじめ各家庭に装備しておけば、命だけは助けることができるのではないか。
 他にも、災害ごとに様々な工夫も浮かぶことだろう。
(次回に続く)


「閑話休題」 水難用ライフジャケットがやっと子供の手に

2013年03月05日 23時43分02秒 | 私の「時事評論」





 津波を想定していなかったわが町

 先日、孫が通っている小学校の父兄通信を何気なく見ていたら、そこにライフジャケットが子供たちに贈られた話が出ていた。息子は鎌倉市の第一小学校在学中、学校は鶴岡八幡宮から、源頼朝が妻・政子のために設けたという由比ガ浜海岸にまっすぐ延びる太い参道・段鬘(だんかづら)を海に向かって一直線に進む途中、一の鳥居のすぐそばにある。段鬘は太い国道の真ん中が神社へ参拝する人専用の桜並木の参道になっていて、その両側を車は左右に分かれて通る。真ん中は参拝者専用に使用した通常の道路とは一味違った参道だ。こんな参道は一キロほど、鎌倉駅の手前で終わるが、そこから二キロ近く、太い国道が一直線に昔の砂浜の後を海岸まで通じている
 鎌倉は東西、北を重なる山に囲まれ、その山から海までの狭い平地を、この参道を中心に街づくりされている。問題の小学校は大きな津波がやってきたならまず、そこを通過することが避けられない、以前は海岸から砂浜が続いていた地域にあり、昔からの様々の地震や津波に関する伝承なども多い地域だ。中には未確認の話もあるが
 そこで二年前の東北地震の時、震度5を超す自信が来たのだが、驚いたことに、学校では子供たちを校庭に集めて地震がおさまるのを待機させた。津波など、全く想定していなかったのだ。学校はほとんど海面から高くないしかも付近を川が流れる土地にある。しかも低い手いつなので、時々来る台風の高潮の時には、直ぐ横の滑川は増水し、私の記憶する豪雨のたびに学校付近は冠水し、床上浸水などの被害が続出する。震災の津波に関しても、この近辺が襲われたという古伝承もいくつかある。しかも海は湾になった一番奥で、右と左から戻る波を加えて、もっとも危険といわれる地形なのだ。もう60年も前になるが、私も私の弟たちもこの小学校に通い、津波の話はたびたび聞いていた。
 校舎は最近、鉄筋三階建てに改修されたが、わざわざ子供たちは校舎の屋上ではなく、最も津波に弱い校庭に集められていたのは、関係者はまったく津波など予想もしなかったのだろう。
 その話を聞き、そしてテレビでは、同時に起こった東北の激しい津波の話を見て聞いて、鎌倉に運よく津波のこなかった幸を思うと同時に、何とかしなければこのままでは次の震災はどうなるだろうと深刻に思った。

 東北津波の話に胸痛め

 ここまでが前段階の話である。実は私は今回の津波に襲われた南会津に極めて親しい後輩がいる。これからの日本、そしてこれからの世界を思い、なんとか浦安の世界を実現しようと地道な活動をしているグループのリーダーで、私のところには毎月のようにやってきては、私の話を聞き、聞くだけでなく実践活動を展開している。
 彼らは砂漠の中近東の地で、自分らの手で緑豊かな大地に復活することを夢見、何十年も前から現地でコツコツと活動し、自分らで開発した機械で海の水を淡水化し、その粘り強く堅実な働きで中近東アラブの世界で大きな信用を得、アラブの王族や指導者たちから絶大な信用を得るまでになったグループのリーダーだ。その活躍の中心はアラブのオマーン国とその周辺に広がっている。彼らは現地の指導者たちに、「現在の日本はエコノミックアニマルといわれて、すっかり商人になってしまい、商売のやり方などもえげつなく、決してきれいではなくなってしまったが、君らは日本の文化にはぐくまれた『武士道文化』を持つグループだ」と評価されて信頼され、格別な待遇を受けている。
 そんなグループの指導者が良く私のところにやってきては、日本人の心を世界に認めてもらうのにはどうすべきか、と、数年前から通ってきてくれている。
 私は私の思う通りの日本文化論、集団で生きる日本民族論、日本人の理想観、明治維新に際して先人たちが考えた日本人の求めるものなどを語り、オマーンからたびたびやってくる彼らから、逆に貴重な話を聞き、またときには素晴らしいプレゼントや珍味なども頂いたりして、その活動に微力ながら協力をさせていただいていた。
 そんな訪問者の彼は東北・南会津の出身者、そこには彼を支える協力者がたくさんいる。彼自身、今回の震災で、とくに津波で壊滅的な被害を受けた地域の出身者であり被災者でもある。彼は砂漠の緑化活動などにも、東北のまじめな中小企業者が工夫を重ねて作成した塩水から真水を作り出す機械などをコツコツと利用して、オマーンはじめ周辺の砂漠を再び緑の大地に戻し、農園を作り、時の王侯貴族を始め人々に高い信頼を得ていた。
 その彼が私に震災後会いに来て、力を込めて話したことの一つが、ライフジャケットの話だった。
 東北の津波は、想像をはるかに超える大きなものだった。防波堤を作ろうといっても、あんなものにやられない防波堤を作ったら、東北地方全体が監獄のようなコンクリートの壁の中に入ってしまう。今回の震災で、とくに津波で東北は大きな被害を受けたが、彼も本気で地元ばかりではなく周辺の震災の跡を見て回り、大きな被害が出たのを見て真剣に考えた。せめてあの災害の中から、人の命だけでも助かる方法はなかったのだろうか。
 そして思いついたのがライフジャケットの各地への整備だった。飛行機や船などには必ず積んであるあれ、あれさえつけていれば、必ず津波でも体が浮き、身につけたジャケットの発する電波が数日間は被害者の存在を救助隊へ知らせ続ける。カタログ通り全員ではなくとも、8割以上のものは確実に救助ができる。
 しかもライフジャケットは数千円(3000円少々)のもので、なんと日本の東北や北陸地方で世界中に出すものが作られている。東北は日本漁業の中心地でもあったからだろうか。いま産業が壊滅状態にある東北で、これを増産して日本中の津波に危険な地域の、せめて子どもたちや老人たちに配布したら、何十年もかけて何百兆円の防波堤を作るまで待たなくとも、数十分の一以下の資金投下で日本人の生命の防災機能は格段と高まるし、それを東北でつければ、東北地方の産業もこれで大きく元気が付く。
 彼は東北の被災関係地を見て回り、その中には事前にジャケットを準備していたところ、これを機会に準備することにしたところなどの話をし、この話をしたら、彼の活動の本拠地オマーンの王侯たちも、「日本を再び明治維新当時の活気ある国にするお役に立てば」と、進んで協力する話になったという報告だった。

 首都圏の鎌倉でやろう

 私は彼と、彼の地元にである南会津に救援活動に行ったこの鎌倉のボランティアたち、そして鎌倉の市長にこのことを伝えた。津波の危険も高く、観光地としても名高い鎌倉でこんな運動のはしりができたら、それが大きな展開のきっかけになるのではないか。
 オマーンの国や大使館も大いに賛成し、まずは数百着のライフジャケットを鎌倉市に提供したいと申し出て、一昨年の秋には大使館がわざわざ鎌倉市長を招いて贈呈式と激励のレセプションを開いてくれた。市長も、まず鎌倉から、そして相模湾沿岸の諸都市にもこの動きを広げたい、と積極的姿勢を示してくれた。
  だが、話はその後消えたようになってしまっていた。
 「やっぱり今の我が国の行政機構では、市民のための本気の安全策などは進まないのか」
 「あのライフジャケットはどうなってしまったのだろう」
などと思っていたら、ここにきて、ちょっと話が変わった形にゆがめられてはいるが、ライフジャケットを子供たちに配る話が初めて表に出た。読むと学校近辺の有志の方から寄贈を受けたと書いてある。そうなると、オマーンの小学校への寄贈と話が別のもののようにも見える。オマーン国の王様以下の日本にかける思い、それに懸命にその実現に努力した私の友人などの話は出てきていない。
 それは彼らの情熱を知る私としては残念だが、私はそれでも良い話だと思う。彼らも立派な武士たちだ。日本にもまだ「武士がいる」と信じて動いてくれた人々だ。オマーンの王侯貴族だってこれは前進のあかしだと素直に思ってくれるのではないだろうか。何かおかしな道に脱線していきつつあるが、役人が介在しているから仕方がない、そう考える度量があると期待している。
 オマーンの国の人々は度量が大きい。地震のあったそのあと、オマーンの国は日本の外務省に、震災地の水を確保するなど、機材の提供を申し入れたそうだ。それはもちろん、東北地方で私の友人が生産し、オマーンに提供していたあの機械だ。だが日本外務省はオマーンに対し、「我が国は高度工業先進国だ。貴国からの物資の提供はお断りする。くれるなら金にしてくれ」と答えたという。オマーン大使館は傷ついた。だがそれでも、アラブ諸国に諮って石油をタンカー一艘分満載にして寄贈をしたと聞く。
 そして、工場を津波に流され、多くの行員の命を失った水再生産の東北の工場に対し、工場を新規に拡大しても何年もかかる量の真水製造機をわざわざ発注してくれた。それは単にオマーン国用だけではなく、周辺の彼らの友好国にまでオマーンが積極的に注文を集めてくれての発注だった。しかもその条件たるや。「震災で困っているところがあれば、君(私の友人)がそちらに回して存分に使い、中古になったものでも最後に納めてくれればよい。それを新品として受け取ろう」という内容だったという。

 本当は胸を張りたいところだったが

 最後に蛇足、その友人を通じて、私どものところにオマーンで流鏑馬を奉納してくれないかとの内診があった。私はしばらく考えてお断りした。彼らは日本にまだ、明治維新までの「武士」の心そのままの日本人がいて、私どもの本物の「東洋の道義」「日本人としての伝統的な進退」があると強く確信してくれている。
 だが現在に日本はどうだろうか。私は流鏑馬の関係者であり、神道に関わるものだ。胸を張って、これが日本人の本来の姿だと示すのには、いささか心が傷ついている。
 うれしいけれども胸が晴れない。そんな心境で過ごしている。

写真はライフジャケットの広告より

母の命日に思うー44年目の母の命日

2013年02月20日 09時08分26秒 | 私の「時事評論」

妻より若い母の写真

 雑務に追われて遅くなってしまったが、二月七日は私の母の四十四年目の念祭の日であった。亡くなったのは私が三十二歳、母はまだ五十二歳という若さであった。クモ膜下出血であるから、いまなら脳外科の手術が長足に進化していて、外科手術により延命は可能であったかもしれないもの。事実症状は時々意識が回復しかかり、もう少しというところで、意識が戻り始めた痛みで暴れ、また再度の出血を重ねて、当時はまだ鎌倉に、その手術のできる病院がなく、三日三晩、止血剤と麻酔を打って、出血で脳周辺の圧迫を抑え、それを私らが付添いの看護をする以外にない結果を繰り返しての帰幽であったから、残念と言えば残念であった。ちなみにわが妻も、四十歳になったころに、同じようにクモ膜下出血で倒れた。だが妻は、倒れているのを娘が発見、江の島の脳外科専門病院で手術を受け、その後は後遺症も消えて、いまでも元気に日々を送っている。
 私は男ばかり三兄弟、二歳と五歳下に弟がいる。命日の日、毎年と同じように鎌倉市内にあり、市街を南に見下ろした谷戸の奥の一角にある墓に弟夫婦にも連絡し、孫どもを連れて展墓、一緒に戻った我が家で母の霊璽を拝し、母の思い出を中心に久しぶりに和やかでのんびりした歓談をした。
 母は今、生きていれば九十五歳の高齢になる。だが、若くして幽界に旅立ったため、その残された遺影の写真、そして私の頭に焼き付いている姿は、わが娘のように若い。
 そんな母の遺影を眺めながら、「ああ、俺もいつの間にかずい分年を重ねたものだ」としみじみ思った。母が亡くなった時は、まだ祖母も元気で我が家で暮らしていた。祖母と母とを間違えて駆け付けた参列者もいて、祖母も家族の旅立つ順序が狂うと、こんなさびしい結果になる。「本当に代わってやれるなら喜んで私は代わったのに」と嘆き、私に「親死ね、子死ね、孫死ね」という言い伝えがあるが、これが幸せな家の姿を指しているのだと
涙ながらに教えてくれた。
 
 母の生い立ち

 母は心優しく気丈な女だった。「心に太陽を」という言葉が好きで、これをモットーに苦しい中を明るくふるまって人生を全うした人であった。九州筑後の農村で、郷土から上京、軍人を目指した父親の下の次女に生まれ、それこそ昔ながらの武人らしい厳格な家風の中に育った。昔の家庭では家庭教育はもっぱらその家を継ぐ長子を厳しく育て、子どもたちはその指導のもとに育てる。そんな家庭だったが、母たちの長兄は幼時に小児まひで失明し、家でわずかに「琴」などを若い娘に指導する以外はじっと座っているような障害を過ごし、また母の実母、私の祖母も若くして肺炎で亡くなり、後妻が家の切り盛りをしていた。祖父は陸軍の中将で、連隊を率いて台湾征討などで負傷しながら戦果を挙げて金鵄勲章を拝受したた軍務一本の武骨な男、家庭のことなど相手にしない。後妻は郷土の九州から出てきた農家出身の方であったが、祖母の残した子供達には子らが実母の影響を強く受けていたし、微妙なところが分からないのはいたしかたのない環境にあった。そのため兄に次ぐ次兄はもっぱら自分の好きな道を求め、次第でロシア文学を学ぶや満州を目指し、長女は当時、母の一家は東京杉並に住んでいたので、将軍のお嬢様として有名女学校から女子大へ進み、やさしい人だったが病弱で、九州の有名水産会社の方の家に嫁いだが、一児をもうけて若くして亡くなった。
 そんな中で母は、兄や姉が世話をしないからか、もっぱら目の見えない長兄の世話を一手に引き受けていた。本人も一応、当時の名門のK女学校に進んだのだが、登下校中以外は兄の世話一本に過ごしていたようだ。
 私から見ると、頭は生来良いし勘も良い母だった。それに何よりの気性の良さは人情家だ。兄の琴練習の外出に、また時々の外出に、身辺の世話に明るく対応をしていて、時の新聞などにも孝行娘として紹介されたこともあったというが、だが将軍の娘としては何の素養も身につけず、社交の場にも出ず、あいてる時間は兄の世話、(といっても当時のちょっとした東京近辺の家庭などには、必ず出身の地方の農家などから、家事手伝いの女中さんなどが来ていた。家事全般の手伝いをするが、住み込んでいた彼女らを、ある年齢に達すると、主人は適当な相手を見つけ、衣装や道具、支度金などを持たせて嫁に出す。それが上京して成功した者たちの郷土に対する義務のようになっていた。だから母も、兄の世話はしても、料理や洗濯、掃除などの家事は苦手なほうだった)。
 母はそんな面では住み込んでいた女中さん以下の素養しか身につけていなかった。身に着けていたのは女学校で、根性と素早い動作を認められ、薙刀クラブに誘われて、そこでは師範クラスの技能を持つようになっていたが、家事見習いもしていない山娘であった。

 父によって教育をされて
 
 世の中は面白いものだ。そんな母にすっかりほれ込んでしまったのが私の父の母、祖母であった。私の父の経歴はあちこちに書かれているのでここでは書かないが、当時、事業では独特の経営でかなりの成功をしながら、どちらが本業かわからないが、日本が西欧模倣の流れに乗る中で、皇国日本の西欧化、とくにファッシズムなどに接近しようとする動きに強く反発、明治維新の原点に戻らせようとの政治活動に力を入れていた。父は自分の父(私の祖父)の粗暴だが心根の美しい天皇・神道の精神主義に大きく影響され、自分もそんな活動にささげようと決めていた。そんなことに夢中なために、父は両親がいくら勧めても、「それだけは」と聞き入れないのが自分の結婚であった。
 「俺は人情にもろい。女房・子供ができると、それに引かれてまともな決断ができなくなる。だからいくら大切だと思う両親が勧めても、結婚だけはしたくないと思っていた」と良く語っていたのを思い出す。事実、父にとって結婚して子供ができた後は、妻子がいるために思い迷った経験は大変なものだったと思う。私も父の情けにもろい気性は良く覚えている。何せ幡随院長兵衛にあこがれていた父だ。私は父に愛されて育ったが、大病して父にどれだけ心配をかけたことかと、いまでも申し訳ない気持ちを捨てきれない。
 さて、母の生い立ちから脱線した。しつこく父に結婚を勧める母の説得は止まらなかった。父はついに、「そんなに嫁がほしければお母さんが決めたらよいではないですか。お母さんがそれでよいというのなら、私は何も注文もつけませんよ」。この約束が私に両親ができ、そして生まれて育った根拠になった。
 父の母、わが祖母の妹はいかにも気位の高い、高貴な婦人そのものであった。その夫、葉軍人で、たまたまその娘が母であった。祖母は自らを省みず兄に奉仕する母にほれ込んで息子の嫁にほしいと申し込み、何も教えていないし、花嫁準備もしていないと辞退する母の父親を説き伏せて、母は何も準備せず、身一つで我が家に嫁に来た。女学校は出たけれど、何の素養も身につけていない母に、世間と接する常識を教え込んだのは父の母だった。祖母は福岡・黒田藩の家老の娘、家は維新ののちに零落して厳しい生い立ちで育ったが、気位だけは高かった。神職の家柄であるわが一族に入り込むと、あの人は違うと皆が均しく認める品格を持ち、祖父はもうその頃は身体の調子を壊していたが、敬神尊王の塊のような神道浪人であったが、父もこの母を見てすっかり気に入って、わが娘以上に可愛がった。
 母の実家は決してその時決して豊かではなかった。祖母は母をデパートに出かけて行き、花嫁道具一式を買いそろえ、母を身一つで嫁に来させ、自分の持つ常識で懸命に母に伝授した。夫となった父は、最初は素朴なだけのやまが出で、教養もほとんどない母に驚いたという。だが話をすると、まるで砂漠が水を吸うようにそれをぐんぐん吸収し、質問すると実によく的を射て応答する。それにどこかに連れて行ったりすると、まるで子供のように目を輝かせて喜んでいる。そこで日本の史書を買ってきてそれを基に日本の歴史を説明し、世界文学全集を買ってきて何十冊もの名作を読ませ、その底に流れるそれぞれの国の文化や著者の思想などを、懸命に教え、また自分や父、そして先祖たちの生きてきた道、苦労の足跡などを片端教えた。
 母はそんな中で我が家を理解し、人や社会を見る目を養った。結婚の二年半の地に長男の私が生まれたが、その時はもう、夫葦津珍彦を世界唯一の益荒男だと理解して、信頼してついていく第一の弟子のようになっていたし、祖父一党のものが皆私の祖父母や両親に敬意を表するのと変わらぬ親しさを持って母にも接するようになっていた。


楽しいことがあればつらいこともある

 昭和十二年に私は生まれた。祖母や叔父叔母などはまるで福禄寿のように頭が長くて大きい赤ん坊だったと私に語ってくれた。そのころ父は神社の建設業を経営していて、我が家にとっては最も羽振りの良かった時代だった。いまは渋谷駅前に「渋谷ヒカリエ」という駅前ビルが建っているが、その一角が事務所と所長である我々親子の住んでいるところであった。満一歳の誕生日か、二回の八畳と十畳の和室をつないだところに、ぎっしりと並べられたお祝いの武者人形や玩具類。その前で上機嫌で笑っている私の写真が残されている。ちょうど靖国神社の大神門を父が建て、春の祭りの前だったので、喜んだ祖父は、靖国神社の宮司に申し出て「國」という名を孫につける許可を得たという。だがそのままその文字を使うのは恐れ多いというので、祖父はわたしを一字漢字を変えて「泰國」と命名した。父のほうはその時、私の生まれた渋谷の氏神・金王八幡宮のゆかりの偉人・渋谷金王丸の名前にあやかり、私に「金王丸」と名付けようと考えていたという。おかげで私は靖国神社とつながりの深い人生を歩むことになったのだが、考えるのに、喜びは分かるが、あまり重たい名前を子供につけるのは感心しない。子供にとっては重すぎる。
 私は幼時に大病をし、苦しく危険な日々を二年ほど続けたが、その時わが名を聞いた易者たちが、そろって「名前が重すぎて大病をする」と両親に伝えたという。おかげで「八州邦」とか「安邦」などのいろんな俗名を使われた時代もあるが、「金王丸」だって大変な名前だ。これは子供の名付けではなくて、まるで船の進水式だ。
 野人であることにこだわって、生涯神道浪人を続けた祖父がすっかり身体を弱らせたので、静養のために鎌倉に家を買い、私どもも祖父母とともに越すことになった。昭和十四年の暮である。父は建設会社を経営していたので、そこの職人連中が総出で空き家になっていた家を修理して引っ越したのは翌十五年の早春であった。山を北側に背負い北風は吹かず、東、南、西は存分に日差しに恵まれた立地、家は五十坪を超す和室と洋室の本屋の他、北風を防ぐ裏山中腹には茶室があり、裏庭には車夫や使用人の住む別棟や倉庫もある。井戸際には当時珍しい電動ポンプの動力小屋もあり、便所はこの水を使った水洗で汚水処理の大きなタンクも設られている。公道から門に達する通路は両側にサンゴ中の植わった三十メートルほどの専用道、庭には松、杉、ヒノキ、モッコク、桜、椿、梅、百日紅の木々のあるが雑木林の中を進むと玄関で、通路正面の木戸をあけると藤棚があり、くぐると一万をつつじに囲まれた広い芝生がある。裏庭には果樹や茶室のための庭や竹藪をくぐって進む石段もある。国家存亡の時に有志を集めるのにはこの程度の家が必要だろうと祖父の仲間で頭山満翁の秘書であった方が推奨してくれたという大変な豪邸であった。こんな家を社員のえりすぐりが改修中に、次男が生まれた。父は泰國を助けて勇ましい活躍するようにと「勇友」と名付け、その大東亜戦争の直前に生まれた弟に「雄久」と名を付けた。
 家にはお手伝いさんが常時二人ほど住み込んでいて、若い書生さんなども暮していた。母にとっても、それから四十年以上生きた私にとっても、これが振り返れば贅沢・豪華な生活の絶頂期であった。
 祖父の病気を聞き、全国から親しかった神職や政治家、陸海軍の将軍たちが見舞いに来た。以前にこの欄で祖父の思い出の際に触れた「節句を過ぎてから、また鯉のぼりのやぐらを立てた話http://ashizujimusyo.com/newpage53.htmlなどもこの庭で起こったエピソードであった。
 鎌倉は細い道が多い。それは当時の交通機関が人力車が中心で、メインストリートには馬車がいるという条件に合わせて明治・大正時代の要人が避暑地として、休日を過ごす地として、書斎で読書する地として発展したからである。我が家から十分ほどで海岸に着き、そこには立派なクラシックのホテルがあった。父に生意気にダブルの背広を仕立ててもらい、両親と墓参りの後などに馬車に乗って海辺のホテルまでバナナを食べに行く。そんなことが無性にうれしい幼年時代の私であった。父はそんな私を見て無邪気に喜んでいたように思うが、どこか母が、「つまらぬことを楽しんで」といった表情でいたのではないかという気になってくる。記憶のあやふやな時なので、母や祖母から聞いてそんな気がしたのか明瞭ではないが、母は、父の教育、苦しい生活をしなければならないでいる人々がいかに多いことか、そんな思いを素直に自分の思いとして育っていた。父だって、さびしい暮らしをする人々を見て、西欧の社会主義にも真剣に接し、それと天皇陛下の祈りまつりをされる日本文化への思いが重なって思想を固めたのだ。

 祖父死す、日米戦争が始まる

 そんな私にとって、この楽しい時間もつかの間のものだった。私は幼かったため、ほとんど断片的にしか覚えていないが、毎朝目を覚ますと、私は我が家の洋間のベットに寝ている祖父のところに、まず長い廊下を走って挨拶に行ったものだった。もう病状は重く、ベッドから起き上がることもできない祖父だったが、いつも私を待っていて、私が駆けていくと、両手を広げで抱きとめて浴衣姿の胸の中に抱きしめてくれた。
 いま、我が家にもあの頃の私とよく似た年頃の息子の孫が同居している。生来かわいそうな条件で、ために、半年以上も一人で離れて大学病院に入院しなければならなかったような境遇にもあった子だが、この子も朝起きると、まず祖父である私の寝室に飛び込んでくる。一年半ほど前、この子が入院が決まった時から、私は近所に二つある鎮守様に「私の命とこの子の境遇を、できることなら代えてくほしい」と、毎日祈願を始めて今も続けている。この子が同じように毎朝、寝ている私どものところに飛んでくる。そのたびに私は自分が祖父のもとに走っていったことを思い出す。そんな祖父の思い出も、幼い子供であった私からは、少しずつ消えて行ってしまったように思う。私の祖父に関する思い出は黒い霊柩車に乗せられた後ろ姿と、いまのわが先祖が眠る墓地に多きま穴が掘られて、静かに地中に埋められていったショッキングなシーンで終わってしまっている。
 世相は日中戦争が深刻化して、その背後で中国を操る米国と日本との間が、どうにもならない時期に進んでいるときに、祖父は亡くなった。自分の友情を交わしていた人々が見舞いに来ると、息子であるわが父が、すべてを擲ってでも日中事変に終止符を打ち、日米戦争を避けようと動き始めているのを話して、「この息子の心は私とまったく一致している。私はすべてをこの息子に託した。私亡き後は、息子を私自身だと思って、同じようにご厚誼願えないか」と、それのみを願い続けた。明治大正時代の長老たちがそろって祖父に約束した。祖父はそれがすむと安心して、十五年の六月の三十日に息を引き取った。ついでなのでちょっと触れるが、敗戦直後から父が猛烈に活動してそれまで国の組織に組み込まれていた全国の神社をまとめて神社本庁という組織を作り、その機関紙の全権を任されて占領に懸命に抵抗した。その背後には祖父と誓いを固めた祖父の友人たちの、子供のような年齢のわが父に、全力を傾けての協力が大きな力となった。
 祖父の死後、時代は父の周辺の国々と協和したいとの願いもむなしく、日米決戦の時代に突入した。やがて米国の本土への爆撃も始まり、武器や資源で圧倒的に劣勢であった日本は敗戦し、占領時代に突入した。
 
 環境が暗転した大東亜戦争

 祖父の死後、我が家の環境も暗転した。大東亜戦争に日本が突入し、環境がすべて変わったからだった。開戦直前には私の下の弟が生まれた。そしてその直後、私は急に元気がなくなって、全身がむくんで倒れ、「ネフローゼ」という子供にとっては命取りになる大病に倒れることになった。父は日米開戦に強く反対、政府要路に働きかけ、秘密出版を全国会議員や各層に配布して、懸命に非戦を訴える言論活動に没頭しているさなかであった。
 父の主張は決してアメリカに戦わず負けろと主張していたのではなかった。アメリカのアジア太平洋制覇の野望は十分に知っていた。ただ、父は「戦争は感情におぼれず、背後に科学的な勝利のできる根拠がなければ、そして時を選ばなければするべきでない」という確信があった。我が国と太平洋やアジアの覇権を狙い、潰そうとするアメリカとの戦争を、まともに続けうる能力はない。両国の力を徹底的に比較、国内に資源も原料もない我が国が、いまこの時期に、アメリカと戦うことになれば、米国の思うつぼとなり日本はつぶされる。
 日中戦争でも戦況がはかばかしくいかないのは、背後の露骨な米国の応援があるからだ。冷静にみて、日本が戦いに勝つ可能性は零に等しい。其れを政府や軍は、ドイツなどに起こったファッショの興隆に期待をかけて、その力を過信して「日・独・伊」の三国同盟を結んで戦えば、うまくいくかのように計算している。ドイツが戦っているロシアに対しては、日本との間に「不戦条約」もあることだしロシアは動けまい。これを頼りに満州や東南アジアに武器や燃料の供給先を求めて、まず最初の一撃で米国の海軍力を絶滅させて制海権を確保し、条件を有利にして戦おうとの軍が主導の作戦を検討していた。だが父はそれを「亡国の行為」だとして厳しく批判していた。
 父はファッショが日本にとっては民族文化を破壊する途方もない思想であること、ナチスの思想などを深く学べばそれは明白に浸透的文化の国ニッポンに敵対的な思想であると断じていた。また。日露不戦の国際条約などのもたらす安全性もいつ破られるかわからない。国際法を日本は国際社会に食い込むために、守らねば国際社会の袋たたきにされるから懸命に守ろうとしてきたが、なりふり構わぬ生存競争の中においては、どの国も自国の存続が第一で、国際条約などは、さほど拘束に思っていない。ロシアの動きの中には日独開戦以来、それに対抗するために米英と秘密に連携する動きもすでに出てきているのだし、この条約があるからロシアが動かないということはあり得ないと信じていた。
 だが、そんな活動の中でも気になってならないのが自分の子供のことであった。晩年になって父の散歩の供をして鎌倉の街を歩いた時、駅から我が家に向かう裏道で、「お前の病気が助かる見込みがほとんどないと知らされて、誰もいないここに座りこみ、強く生きなければならぬこの俺が、何という弱さだ」と、他人に見せられない自分の弱さにおぼれる自分を克服しようとしたか、と何度も話してくれたことだった。
 父は全国から、この病気に専門だという医者を次々に招請してきては私を診させた。様々な治療がなされ、点滴や静脈注射で私も結構ひどい状況になったが、身体はむくみ、いよいよ悪くなるばかり。だが父は最後に秩父の山奥に住む山寡の医者に巡り合い、彼の秘伝の薬草を煎じて飲むことにより、一年半も立ち上がれずにいた私は急に快方に向かうのだが、その間には「私には妻や弟子たちもいる。子供の命とわが命を交換しても攻めて息子が大きくなって、世の中が見えるようになるその日まで、長生きをさせてください」と自がんをするような状況であった。
 
 父を支えて活躍した母

 そんな父を助けて、私ばかりではない。三人の子を育て、同時に夫の活動を支えたのは母であった。家での母は、まさに我が家の大黒柱になっていた。私に対しても、やがて病気を克服したら父を継ぎ、一日も早く活動できるように育てたいと、我が家一門の先祖たちがどんな人々でどんな苦労をしてきたかを教え、文字も知らない幼児だった私に文字を教えて本を読ませ、いまの我が国がどんな状況にあるのかを教えた。また、「お前は病弱だが、お父さんの跡継ぎだ。どんな時でも弟たちの立派な指導者として育ち、立派な大人に育とうとする気力を失うな」と教え、弟たちにも兄を立て、兄と相談することの大切さを教えた。
 私にとって、病床にあってもどんどんいろいろの教育をする、そんな母はある意味で厳しい母であった。だが何でも教えようとする母のおかげで母より実に多くの幅広い教育を身に付けた。母はは私の師でもあった。おかげで私は病気を克服したのちも、虚弱な児童の少年期を過ごさざるを得ず、小学校は特別養護クラスに進み、子供同士の社交力もなく、通学は母の自転車に乗せられて往復するありさまであったが、大人のような口を利き、ずいぶんと憎たらしい子供であったろうと思う。だが、それをしっかり身につけさせてくれた親の努力がったからこそ、何とか皆に遅れずについていけたのであった。
(続く)

 わが一族の共同疎開

 戦況がひっ迫してくると、私たち子供はいとこ兄弟従妹を含めて一団となって群馬県の山中の農家に疎開した。父は子供の存在が、日本国のために動こうとする自分にとって気になる存在、足手まといになるから安全なところに避難させ、弟や妹夫婦も自分とともに神道のため、国のために憂いなく戦わねばならないと子供たちの家族集団疎開を決めたのだ。
 戦況はいよいよ悪く、日本の降伏は近々不可避だ。厳しい戦況は次々に追い積まれているが、もう日本には物理的に抵抗をする余力はなくて、軍や内閣、それに通信社などからの情報は、無条件での「敗戦」ははっきりしたことを示していた。だが、経験で学ばず、本の知識しかない役人たちには其れがわからない。世にカンガルー症候群というのがある。追いつめられると砂漠の月のなかに首を突っ込みあたりが見えなくなる以外に手がなくなり、猟師に簡単に捕獲されてしまう。日本政府もそれに近かった。この機に及んでソ連(ロシア)に仲介を依頼して、何とか有利な敗戦条件を期待して動こうなどとの交渉を始めたが、伝統的ロシアの領土野心に燃えたソ連軍はもう、ドイツとの大戦も終わったので、対日参戦用に陣営を整えてきている。これは冷静にみると最後にロシアは参戦して満州から朝鮮、北支や千島、あわよくば北海道までを奪う作戦を始めたと父は見ていた。時々刻々情勢は悪くなったいる。国際法での中立の条約があるからなどと思って、ロシアに望みをかけている政府は、完全に時の状況を読み違えている。
 そこで父は、自分の弟妹たちの子供を全部まとめて、戦禍の最も及びにくい地域に疎開させ、残ったものは全力をあげて祖国のために尽くそうと決意した。これには弟妹たち全員が同意した。疎開先は妹の出身地である群馬県の夫の育った農家。そこに祖母が引率者になって祖父母の二人の娘、それに次弟の嫁が引率者として同行することになった。
 私の母は、夫の活動を自分も最後まで手伝いたいと熱望し、いざとなったら薙刀をふるっても夫を助けると熱望して残った、まだ当時は独身で我が家に寄生していた末弟は日ごろから母を姉と思い、父を父親代わりと動いていたが、かれも父の行動秘書として鎌倉に残った。下の妹の夫は、すでに軍部により応召されて出征していた。そこで十人を超す子どもたちが、群馬で共同生活をすることになったのだ。
 父は私らが疎開中に万一の場合があればと私に注射器と何本かのアンプルを持たせた。万一の事態、お前がこれ以上生き続けるのはこの家の跡取りとして恥となると思った時は、おばあさんの許可を取って、これをみんなに注射してやれ。誰も苦しまない。あの世で待っているお前を大好きなお祖父さんやほかの人たちが迎えてくれるだろうと。冷たい光を放つ数本のガラスに入った薬剤だった。

 そして敗戦
 
 疎開の列車は一面焼け野原になった東京をのろのろ進んだ。米軍の無差別爆撃で焼け跡では人たちが緩慢な動作で何かを探している。列車は途中で米戦闘機に狙われるような疎開行であった。そして群馬の渋川に着いたのは二日めの夕方、親切な町の人の家に一泊させていただいて、次の日は終日歩き、夕方、群馬の山奥、いさま村というところに着いた。親戚たちはすでに集まっていて、共同生活二カ月。八月十五日敗戦の勅語がラジオ放送を通じて全国に流された。私たちはこの群馬の家で、祖母とともに全員でそれを聞いた。
 母は敗戦が決定するや、父の末の弟とともに、代々我が家の先祖がご奉仕していた福岡の筥崎宮に出かけたそうだ。蒙古来襲のときは朝野を挙げての祈りで神風が吹いて、蒙古の支配をまぬかれたと伝えられる八幡様だ。米軍上陸の際に、神社に粗相があっては命懸けでお守りしてきた先祖に相すまぬと、叔父と二人で父の身代わりで決死で戦うためにの福岡行きだ。しかしこれはさほどの混乱もなく終わったようであった。母は栄養不足で育ちが悪かった私の末の弟・雄久を鎌倉に残しておいたのを連れてきて、その子を皆に預けてすぐに戻って行った。終戦は知っていた母だが、それは、日本国民にとって深刻な情報だった。我々には事情を話さず置いていったのだと思う。
 敗戦の情報は皆に深刻で、その日は大人たちは泣いていた。私は兄弟やいとこたちをまとめてこれからは父母の息子でいとこ頭として祖母を助けていかなければならないと覚悟、いま父や母はどんな気持ちでいるだろうかと、南に連なる山々を眺めた。山はみな青々として美しく、こんな事態とは無関係のように毅然とその姿を示していて、なんだか自分が浮き上がっているのではないかと思えるほどだった。小学校の二年生の時だった。

 仕事を辞めた父

 父は敗戦の日を期して、神社建築の事業を辞めた。会社は台湾のヒノキなどを用いて立派な神社や寺院の建築をしており、台湾やその他に出向している社員も多かった。父は敗戦の日が来るのを確信して、鎌倉や東京の世田谷・杉並などの山の手に何軒かの家を買い、また所有の財産を処分して自分の辞めた後の職員家族の救済に充てることにして、資金を集めていた。自分の収入もその後一切受け取らないことにして、これからは向収入で国のために働こうと決意していた。どんなことをしていたのか、それはここではもう触れまい。
 戦後一カ月少しして、祖母と私ら兄弟は引き上げ第一陣として鎌倉に戻った。進駐米軍が割におとなしく進駐したので、まず先遣隊として私らが釜kらに戻ることにしたのだ。家を空けること数カ月、我が家は庭中、びっしりと雑草が生え、恐ろしいほど荒れていた。それに父が無収入になったので、家族がそこら中の庭の垣根を崩し小屋を壊し、裏山の枯れ枝などを集めてきてはそれで炊事をしふろを焚き、海岸に出かけては海藻を抱えて帰り食卓に並べる。大変な生活が始まっていた。
 父は厳しい仕事で身体を弱らせ、栄養失調と皮膚病で身体はガタガタ、帰ってくると草津から持ち帰ってい王を溶かしたふろに入ってそのあと死んだように寝た。私ら兄弟はそんな父のために集めたまきでふろを沸かしたが、倒れるようにふろに入った父は、やがて落ち付くと、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に叩き落とす」などと調子外れの大声で歌を歌い、風呂から出ると死んだように寝た。
 だがそんな中で、愚痴の一つも言わず、明るく皆を指揮していたのは母であった。母は我が家の指揮官だった。我が家にまだあった売れそうな衣服やものはすべてリヤカーに乗せて、清算会社のタイピストとして当時住み込んでいた女の人を連れて近郊の農家に行き、すべてを食料に交換してもらった。父が生きる道の亡くなった旧社員の世話をするために設けた清算会社に残っていた人で、戦時中からいつも父の文章をタイプに打っていた若いけれども恐ろしく気の強い父の腹心であり、母の妹分の人だった。鎌倉は米軍の将校用住宅にと、洋間が二つ以上熱い絵を片端接収した。我が家も大きな二部屋と水洗便所やミニ浴室までが付いていた。だがここに大至急で畳を敷いて、部屋を飾って何と言われても和室だと言い張ってきかず、軍を追い返したのも母であった。この部屋がなくなれば、我が家を訪ねてくる旧社員や親せきの人に対する仕事ができなくなる。傲然と立ち向かって猛烈にがんばる母は、柄は小さいが女弁慶のような威厳があった。
 母はもう、自分の服や化粧品などは一切買わなかった。物々交換にも使えない古い夫の服を不器用な裁縫で裏返し着て、屋根の修理から庭仕事、大工仕事まで、すべてを自分でこなしていた。また父の書く原稿の推敲をしてタイピストに渡し、新聞や雑誌に資料を集め、父に提供していた。子供らに手伝いをさせて庭を野菜の畑にし、父の秘書役を一手に受けてこなす気力には我々はいつの脱帽させられていた。我が家には戦地から復員したり外地から引き揚げてきた人たちが毎日のようにやってきた。そこで新しい仕事を求め、戦後の時代に生きていくためであった。その人たちの世話も母がした。
 
 子珍彦(うずひこ)

 珍彦・照子夫婦の戦いはこの終戦からいよいよ厳しいものになっていった。それの関しては私もすでに書いたものも多いし、この辺までにしておこう。父の親族一統は、強い親近感で結びついていた。そしてその結束は今も続いている。群馬から帰った父の兄弟姉妹たちもすっかり父と母を尊敬していたし、敗戦後の厳しい中でも、必ず正月と祖父の命日は鎌倉に集まって皆で楽しい団欒の時を持った。叔父・叔母たちは母をいつしか「子珍彦」と呼ぶようになった。父のところに来て勉強し、父のために働いて、父の服を着て父と同じようなことを言う。「あの家には珍彦兄さんが二人いる」。
 父は親せきどもの社交などは妻のすべきこと(これはのちには母が亡くなりすべて私がすることになってくるが)と決めていた。終戦対応で手が回らなかったのだろう。それらはすべて母にまかせっきりであった。だが、「珍彦さんが来てくれない」と不満を言う声は聞かなかった。
 ただ面白いことに、母は酒が大好きでしかも強く、明るく話をしながらいつも楽しげにに酒は飲む。また、これはのちになって知ったのだが、母は本来はヘビースモーカーでもあった。父と一緒に過ごす間に、いつ間にそうなってしまった珍彦の悪いところを引き継いだようなところもあった。団欒の席で、父に次がれた酒にはだれも手をつけない。ところが隣にいる母は、無造作にそれをスッと飲んでしまう。だが祖母が頑固な人で、自分の気に入って育てた嫁が酒を飲むのはまだ許せるが、たばこを吸うなどと知ったら、さぞや驚き悲しむだろう。そう思って、皆の前で酒も控え、たばこを吸うのは我慢していたのだそうだ。私でさえも騙されていた。母はいつもタバコ臭いと思っても、父の古着を着ていて、父とともにいるのだからそうなるだろうと、大学を出るまで思いこんでいた。
 その癖、母の死後、祖母に質してみたのだが、「人前では吸わないことにしてたんだろう。だからお吸いなさなんかったとよ」とどうともとれるあいまいな返事をしてにやりと笑った。
 あの家には珍彦が二人いる。そう言われても明るく笑うだけだった母は、自分を抑える力の強い女だった。私らに対しても、あいまいな態度は決して許さなかった。
 子供のころに母を失い、先の大戦で兄の死亡広報を受け、最もかわいがっていた弟を学徒出陣で沖縄沖で失った。信頼していた姉も早世した。また戦時中、我が家に出入りしていた仲間と親しく交わったが、次々に失った。そんな母が自分を隠せなくなって狂喜したのは昭和二十七年、死亡したとされていた兄が実はソ連軍の強制収容所にいて自分が軍の特務に勤務していたので名前も所属も隠していた。
 それが舞鶴に帰還する日本派遣の引き上げ船の中で名乗り出て、諦めていたのに急に無事に帰国することになった。無事に本土の帰ってきたのだった。その時の母の、自分が何をしているのか、丸だわからぬ興奮ぶりであった。伯父は高校入学当初の私が弟を連れて迎えに行き、無事鎌倉に連れてきたが、考えてみれば、母は両親を、愛する兄弟を、親のように慕ってくれた末の弟以外全員を失った、だが自分の悲しみを表に出して、皆を嘆かせるようなことはしなかった。

 私には厳しかった母

 私には厳しい母の姿が印象深い。古い日本の家庭では、父母はその長子を主に厳しく育て、長子はそれを受け継ぎ兄弟姉妹をまとめて家を守る。葦津の家もそうだった。この方針に母は徹底していた。そのためずいぶん母には叱られた。その代わり、年が長ずるにつれて、母は我が家の苦境や自分の思いを私にだけは相談してくれるようになったのに気がついら。しかし小さな遊びの場面でも、私が弟たちを見捨てて勝手に動いたとき、弟よりも自分が分け前を多く取ろうとしたときなどは、母は心の底から悲しそうにして、激しく私を叱責した。
 長じて私が中学生になったころ、次弟を連れて小田原まで自転車で遊びに行ったことがある。サイクリングというほどに洒落たものではなかったが、途中でチンピラ少年のグループに取り巻かれた。弟が逃げそこなったのが原因で、私は弟を助けようと、数人いたグループに命がけでぶつかっていき、服はズタズタ、顔は両腕は血だらけとなり、そのすさまじい抵抗にチンピラ達は怖気づいたか、無事に弟を無傷で奪還したことがあった。ちょうど近くの鵠沼海岸に叔母の家があり、血が流れて目もかすむのでそこで顔を洗い、応急措置をして家に戻った。その時のことを思い出す。いつも私をずる賢いと言っていた叔母は、私の弟を守ろうとした勇気を、想像以上にほめてくれたし、母は、いままで見たこともない温厚なやさしい母であった。
 弟を大切に扱うのは兄の義務だ。自分は弟たちのリーダーだとの意識はいつしか自分の身についていたので、それは社会に出てからも大いに役に立つこととなった。私は日ごろの同級生たちとの地元での野球や散策の時にも、必ず仲間の同意を得て二人の弟を連れていった。だから今でも、私の古い友達は私の弟たちのことをよく知っている。弟たちも私を大事にしてくれる。

 やさしい母の夢を見た

 母が倒れて、そして亡くなるまでの数日間の私らのろうばいぶりにに関しては、私はいぜんにこのブログで書いたことがある。http://ashizujimusyo.com/sub26.html だから今回はもう書かないことにする。
気抜けをして立ち直れなかったのは父も一緒であった。父にとっては、母はそれこそ分身であったのだ。
 だが今年、私としては思いもよらなかったことだが、やさしい愛情たっぷりの甘い母の夢を見た。母親に私に対しての深い愛情があるのは、母の生前からしっかりと認識していたつもりだ。だが夢に出てくる母の姿は、いつも私の生き方に厳しくて、私だけに「そこまで厳しくしなくても」と、弟たちへ接する母の姿をいつも見ていただけに愚痴が出るようなことの連続であった。ところが今年見た私の夢は、そんな思いをつゆ感じさせぬ、べたべたの愛情あふれる母だった。私は夢の中で最初は驚き、次いで安心して母に抱きついた。なんとその母は、四十年以上前、私が記憶しているわたしのむすめとちがわないような「お母さん」の姿であった。
 夢占いなどは得意ではない。なんでこんな夢を見たのか、考えてみたが理由は思いつかない。「もうお前の役割はほとんど終えた。待っているからいつでもおいで」と幽界から私を誘ってくれているのかもしれない。
 私は今、生来の肉体条件に恵まれず、それを自分らの努力で何とか最小限に食い止めて、孫が立派に育つようにと、彼が病院で生死をかける治療を始めたその日から、「わが命を、この子のためならいつでも差し上げますから、この子の将来を見守ってください」と祈願を始めて欠かしていない。中には数日、私が親族の通夜のため、あるいは離れた九州の総本家の年債のために欠かした日があるが、それらは神社参拝を慎むべき時だ。それ以外は雨の日も風の日も、熱がある日でも欠かしていない。私はそんな祈願を始めて、自分が父親でありまた祖父であることの実感を強く認識するようになったのだから、孫に感謝をしなければならないと思っているのだが。
 そのために、危急存亡の国難に当たって忙しかったわが父が、先祖が代々奉仕してきた福岡の筥崎宮の末社に、私と同じ祈願に飛行機や汽車を乗り継いで祈願に行ってくれた思いも実感としてわかる。私は家族の愛情というものが、いかに強くて本物であるかを知ることのできた幸せな男である。
 日ごろそう思って、父をしのびながら毎日生活をしているので、母の命日の直前に見たこの夢を、私の今年の初夢とすることにした。白状すれば、私の正月に初めて見た夢は、人の命などに露ほど憐れみを感じない現代の子供たちに取り囲まれ、ガムテープでぐるぐる巻きにされ、メスでグサグサ刺されても身動きできず、死んでいく夢であった。こんなひどい夢を見たことはめったにないが、母の夢は、この悪夢を私の心から、奪い去るのに充分であった。
 母が亡くなったのは昭和四十五年二月、もう四十三年も前になる。だがそれでも母は私のそばにいて私をそしてともに生きている仲の良い弟たち一家をその孫たちを見守り続けてくれている。子供は親を選ぶわけにはいかない。でもそんな厳しい条件の中で、素晴らしい母から生まれ、育ててもらったことに感謝をする次第である。
 
註、終戦に日本がどうして進んで行ったのか。これに関しては戦後の厳しい米軍の圧力のもとに葦津珍彦が書き、戦う社員用のテキストにした「神社新法終戦始末記」というものがある。米国などの情報は全く隠されていた時代であったが、父はそこで、ほぼ正確にこの戦争の推移を観測した。其れはいつくかの本になって出ているので、関心のある人は読んでみてほしい。
写真は終戦直後に一家で鎌倉の裏山をハイキング。筆者撮影。

安倍内閣の一カ月

2013年02月03日 18時08分01秒 | 私の「時事評論」
政権発足から一カ月

 昨年暮に、安倍自民党政権が発足て一ケ月が過ぎた。施政方針に続き、安倍内閣が作った補正予算、次いで明年度予算も審議される183通常国会も開かれて、また時期的にも新政権がどう動くかの方向性も国民の前に示される時期となった。施政方針演説、それに関する代表質問などを見ながらこの文を書いている。
 
 しかし、今のところ安倍政権の評判は、おおむね実際に行った行政活動成果というより、その前に三年続いた民主党政権が、現実の政権を担当する政党としての力を持っていなかったこと、突然政権を握ったので、我が国を運用する能力がなく、思いつきの素人政治のみを積み重ねた無能かつ方向も見えぬ混乱状態になった。これに日々の生活をかき乱されて、
「もうこんなことばかり続けられては日本は直ちにダメになる」
と呆れ果て、将来に深刻な不安を抱いたことに伴う国民意識の急転換に支えられているともいえるだろう。
 
 どこに向かって飛んでいくのか、あるいはいつ落ちるかわからぬ飛行機に乗ってしまった国民が、せめて安全に未来に向かって飛びそうな飛行機に乗り換えたくなるのとよく似て、安定と目的をもち将来を予想できそうな政治を望むのは当然の心理。それが過去において、目的はあいまいだったが、無難に行政を続けた自民党政権のほうがまだましだったとの空気を作り出し、国民が口をそろえて民主党政府批判を始めた中の年末だった。だがそんな自民党も、バラバラな主張を持つ連中の集団で、明日への統一した方向性を持たなかった。それが国民の迷いであり、いったんはそんな自民党を見捨てて民主党に期待をしたのが国民だった。
  
 だが期待した民主党に絶望したところで、安倍晋三元首相が自民党を本来の日本の伝統を回復させ、経済も強硬に立て直すと宣言して動き出した。それが時のよろしきを得ていて、国民の湧き上がる期待につながった。そんな国民の人気が雰囲気として自民党総裁選にも影響し、自民党内では必ずしも一番人気ではなかった安倍晋三氏を再度総裁に選出させる世論として働いた。安倍氏は一度、病気を理由に就任直後に首相の座を退いた人物である。だが日本の戦後の保守党の嫡流であり、過去の経済繁栄の時代への国民の郷愁にもつながり、しかも安倍氏は戦後の我が国の混乱した世情を曲がりなりにも持ちこたえてきた政権の主流の末裔である。しかも今、安倍氏は在来の戦後の政治の潮流に対して必ずしも肯定的でなく、さらに首相経験もある。加えて彼が「戦後の日本にはびこった悪しき風潮は将来のために除去すべきだ」と訴えているのも、国民の共感を得る時代になってきている。
 
 政治の中心を強い経済力の回復と、日本の伝統の美点を回復し、憲法なども改正し、国が明日を期待できる日本にしようと訴えていた。それが国民にもう一度安倍氏に政治を託してみようという力となった。
 
 こんな世論の動きが、総裁選の党員投票では二番手であった安倍氏を、自民党の総裁に選ぶ追い風となり、続いて行われた衆議院選挙で、安倍氏の率いた自民党を圧勝させる結果となり、彼はついに首相に選ばせることにつながったのだった。国民が安倍氏を選びだして、彼を首班に選んだというのは言い過ぎかもしれない。安倍氏本人も大いに日本の改革を訴え、再度日本の舵取り役を果たそうと活動し、その力で首相の座に復帰したことはもちろんだ。だが彼の政権掌握の背後には、時の流れが安倍氏有利に明瞭に働いた。また、中国・韓国との尖閣・竹島の争いや、中・韓と日本の対立、経済摩擦などの緊張した雰囲気も、国をまとめて対応するという彼に大いにプラスした。
  
 そんな大きな時流と国民心理の流れがあって、国内には現状への不満と将来への危機感があって、安倍政権は成立した。もちろん、この時の流れに乗ろうとしたのは安倍氏ばかりではなかった。昨年末の総選挙には、日本の現状を改革しようと訴える新政党も乱立したが、安倍氏にはその中で、国民の期待をもっとも実現してくれそうな信頼感を生んだ。まさに時の流れが彼に味方した結果が生んだ一カ月の動きが主であると判断せざるを得ないだろう。
 
 
 首相に就任以来、安倍氏はそんな国民の空気を巧みにつかみ、次々にまず経済政策を中心に政策を公表しはじめた。辛辣な表現といわれるかもしれぬが、政策というものは効果が上がるまでには時間がかかる。だが安倍政権ができたということだけで、まだ何も具体的な政策が成果を得たという実績もないのに、止まらなかった悪性円高の基調にも頭打が見え、株価も上昇を始め、西欧はじめ世界の我が国を見る目にも変化が出てきた。
 
 日本をめぐる国際環境は必ずしも好転していない。日中摩擦、日韓摩擦はいよいよ厳しくなっているし、北朝鮮との環境も厳しい。それらは、小手先細工では簡単に改善されないだろうし、加えて新たにアルジェリアでのテロ事件、改善の見通しの見えない米国や西欧の経済環境も改善に向かったとは言えないし、一昨年起こった東北大震災からの回復も遅々として進まない。それが生み出した原子力発電への国民の恐怖と拒絶反応はいよいよ募り、国際環境の緊張を反映した石油や天然ガスの暴騰にも頭打ちの気配は見えない。
  
 そんな中でも、安倍政権支持の空気が依然として国内に高いままで推移しているのは、実に安倍政権にとって恵まれた環境の中に首相に就任したといえるだろう。話は少し合理性からはみ出すが、こんな状況は、安倍新首相にとっては「神意を受けて首相になった」と言えるのではなかろうか。何せ日本という国は、国難が襲ったときには「神の声」というほかにない空気がどこからともなく現れて、日本は断続することなく現在まで歴史を重ねてきている。

 
国会が始まって

 安倍氏は自分の立っている「時の神」の恩恵を知っているようだ。そして首相就任の直後から、相次いでめまぐるしいほどの改善策を打ち出している。「強い経済力は国力の源」であると、まずは続いているデフレ体質からの脱却を目標に、年間2%の物価高を遮二無二進める共同声明を発表、公共投資の急増や進まぬ東日本災害復興事業の在来の政府方針を急転させ、日本経済の新技術開発能力を高め、国内産業の活力回復への地盤作りに懸命である。
 
 民主党政権の定めた基本方針の多くも、「実効が上がらずに低迷していたもの」は迷わず再検討の方針を定め、急速に「安倍政権で国の流れは変わった」との意識を作ることを目指している。
  
 だが、国会が始まると、安倍氏の政府牽引にも、総裁選での公約の全面的実施から、少し工夫を加え始めたようだ。それは「まず強い経済力の回復から」という方針に中心を絞ってきている。
 
 現実に混乱した政局の中で政治を展開していこうとすると、総選挙では三分の二に近い議席数をしめた自民党も、参議院では連立している公明党の勢力を合わせても、過半数をわずかの差で制するのみ。国会の議決を通して政策実現に向かうのには回りくどいが技術も要る。日本の行き詰った戦後体制を打開するために安倍氏の掲げた「憲法の改正」はじめ多くの政治目標は安倍氏にとって不可欠だ。だが国会を制するには、公明党の賛成しないものは、安定過半数のめども立たず、成立は困難なのだ。しかも与党議員である自民党の中にも、伝統尊重を首相と同じように掲げる立場ではないものはいる。そこで安倍内閣としては、国民に最も望まれている「円高・デフレ」や「倒産・失業危機からの脱却を狙う経済政策一本に絞り、その実効をあげてから次のステップに進む。そんな対応に進まざるを得ないことになっていると私は見ている。
 註
(憲法の改定はじめ多くのスローガンを掲げ我々に期待させなが、ら結局はそれをそのうちにやると繰り返しながら時を稼ぎ、だんだん我々の期待から離れて行った自民党。その焼き直しを始めたのだとの安倍政治批判の声もあるが、再発足一カ月の安倍自民党に、そこまで言うのは遠慮しよう)。
  
 
 また、日銀を巻き込んで、通貨の大量増発という国債発行で通貨の大量増発を図り、その資金で国際通貨市場での円安、企業の帳簿上の増益、震災被災地の復興、経済拡大を目標とするのは、明瞭なインフレ化政策である。この副作用として生ずる経済的な弱者の負担を国の赤字に振り向けながら、またときに応じて社会で大きな問題に発展する時事問題には、国家の秩序優先手を考慮して素早く対応して、国の将来に備える姿勢を明白に示して、いまの人気を維持しながら、参議院選で勝利を収める時まではとにかく粘ろう。これが安倍首相の方針で、彼はこれ以外に手はないと思っているように見える。
 
 一億を超す人口を擁する日本が、しかも政府の国の指導力が極端に弱まり、政府自体も信頼されなくなっていた状況において、政府が交代し方針を転換したといって、簡単に成果が現実のものとなるものではない。彼の掲げる経済政策が現実に実効を上げるまでには、短く見ても半年以上の時間もかかる。しかしその間に、国民に安倍政権になってやっと変わったとの実感を感じさせないままでいくと、国民は「やはり政治方針が変わってもダメか」という感情を生み出す。時計の振り子のように揺れ動く国民意識はまた逆転し、本年七月に予定される参議院制度の成果に大きく響きかねない。そんな基本認識が現在の安倍首相の基礎になっているのだろう。
 
 参議院選挙は半年ののちだ。安倍政権の経済政策転換の実効が成果として数字になって示されるまでには、やはり早いものでも半年以上かかる。安倍氏が首相になるまで憲法問題、国防問題、外交問題、教育問題、社会福祉の問題などに多くの政策を掲げたのにもかかわらず、国会において、それらの問題があまり表面に出てこないのは、そんな実情によると見るのは好意的にすぎるだろうか。


 
 
 にじみ出ている保守への意欲
 
 
 
 安倍首相は日本の伝統的精神基調への回復を目指すと公約した。彼は我々がいままで苦い思いを経験してきた自民党の党員だが、国会での首相の答弁などを見ていると、随所に首相が本気で思い、安倍らしさも出していると期待させる。
 
 現在の社会問題になっている悪しき現象の数々は、戦後の日本人が、日本民族がかつて一貫して培ってきた社会意識・道徳意識・そして自然を神として共同して生きるつつましさを放り投げ、なりふり構わぬ自己中心の精神、たとえ日本人の育んできた共通の道徳観念を離れても、「法に触れなければ何をやってもよい」との傲慢さ、無責任な個人主義に侵されているところから生じている。国の教育方針までが、戦後はそれを認めて助長しているのだから、戦後の日本は本当に困った国である。
 
 そんな教育を受け、日本人の良心を失い、我儘勝手を自由の権利と勘違いした人々がどんどん増えて、そこに現代文明の個性無視の軽薄な風潮が加わって、現代日本の文化は、法律で決める政治や法ばかりが重視されてきている。言葉では「法は道徳の最低基準」といわれるが、現代日本人は権利には必ずその裏に義務があることもにも思いがいかないようになっている。そんな法制度下でも我々が生きてこられたのは、一般の日本人に謙譲の心が残り、道徳心があったからなのだ。ところが最近は、道徳と法との隙間をずる賢く狙うことが、成功の秘訣とされるような風潮さえも生まれてきた。
 
 生活には、法とかかわるこれを守らねば国から処罰を受けるという部門以外にも、守らねばならないものがたくさんあり、その第一が道徳だ。相互愛だ。国や社会に対する務めもある。だいたい我々の社会の生活は、政治の関わる部門の外にも大きな広い分野を持っている。生活にとっては、法とかかわる部門も大切だが、法や政治に関する部門の背後に、もっと大切なものがあるもの。お互いに睦みあった家族や社会の関係があり、芸術や美術・文化、信仰生活や風習、人間関係、皇室や寺や宮、地域の集団、職場と自分の関係があり、個性・ファッションからグルメ、友情・信仰・いたわり・喜びなどの世界があり、それが日々の生活を潤し、生活を作り上げているという事実が見落とされるようになってきた。
 

 安倍首相の国会などでの答弁は、そんな部門に属する課題は政治的に、何党ならば賛成だがどこは反対するというものではなく、日本人ならだれでもがたがいに胸を開いて協力すべき問題であると指摘しているように見える。
 
 人間として生きる上の道徳、そんな意識が日本人に最近薄れてきて、日本人の生活が寸断されて、感情も情緒も旧来の日本人とはつながらないロボットであるか仲間意識を持たないばらばらの集団(それは社会とは言えまい)になってきているところが目立っている。そんな状況下の国会答弁で壇上に立つ首相は、結構その種の国民常識を意識して重んじているように見える。
 
 かつて、民主党を崩壊に導いたボスのO氏のように「法に触れなければ、それが善人の証拠だ」などと居直るような姿勢を国政を担当する政治家や公務員はとってはならない。
 
 どこかの党の代表のように、いつどんな理由で攻めてくるかもしれない相手に向かってでも、「自衛のためであっても、紛争はとことん話し合えば起こるはずがない」などと主張する、絶対に話し合いに応ずることがありえない頑固な教条主義のじぶんを恥じない議員。
 
 国政を担当する者は国の見本となる人格者にならねばならない。安倍首相の発言を見ていると「与党も野党も一致して、日本人の模範的常識でともに進みたい」との訴えかけが随所に出ていた。私はその点は甘い判断といわれるかもしれないが評価する。
 
 我々伝統保守的な日本人が、現在の政府に大きな不安を感じていたのは、政治の問題よりも、日本人の文化そのもの、基礎にる皇室の軽率に変えようとする取組みだった。
 
 「皇室」とはどんなものか、西欧に同じような例もないし、憲法条文などを見てもわからない。連綿と続く三千年の歴史があるものをたかが六十年間、それも日本を戦勝国のいいなりにしようと占領した米国軍人が作った条文などを基にいじくれば、うっかりすると歴史ある国宝に安易にメスで修正をしたり、仏像の観音様の多くの顔を「現実に合わない」とひとつに切り落とすような結果となる。だがそんな日本民族の精神文化に無知で軽薄な政府や官僚、学者や文化人・マスコミと称するものは多い。その非常識な理解によって崩されかかっているのが最近の皇室であった。
 


 
 軽率に皇室はいじらない
 

 
 日本人と皇室との精神的なかかわりは、日本国という国が長い歴史の中で強く結びあって固まってきた短く見ても三千年近い連続がある。気象条件が比較的に安定し、四方を海に囲まれて異民族の侵略もなく、穏やかな環境に恵まれた国は世界にない。そんな日本ではもちろん狩猟や漁労も育ったが、中心的には祭祀王を頂点とする農耕生活が社会生活が続いた
 
 私はここで私の信奉する神道は持ち出さない。ただ日本の文化に最も大きな影響を与えたのは天候や気象であり、天変地異をもたらす自然であった。それら自然の動きを神の行為として尊び、自然に対する「まつり」を生活の基礎に据えて暮らし、祭りの主宰者を神と人との仲介者として社会を構成する文明の中から生まれたのが「天皇」の制度の原点である。憲法などで定まったものではない。
 
 皇室制度は先祖から現代にいたるまでの何十億人の先祖たちが、気の遠くなるような歴史の中で、鍾乳洞の大きな石柱が一滴一滴の水滴の積み重ねでできるようにできたものである。己を捨ててまつりをされる「天皇制度」は、意識しようと意識すまいと、国民一人ひとりの心の中に、遺伝因子のように沁みこんでいる。天皇と国民との関係は特に俗務の世俗政治の権限に関しては少しずつ変わってきたが、今でも日本人の心の中には本能的に(否定しようと肯定しようと)存在している。
 
 
 少し脱線した。元に戻そう。そんな天皇制度も明治時代になって、日本が開国して諸外国と接するようになって、西欧文化にも分かるように、また国民全般にも理解できるように西欧の方式を手段に、その政治機能の部分を取り上げて制定したのが明治憲法であった。そしてそれを見て、占領軍が、欧米的に書き換えたのが今の憲法の「天皇条項」である。
 
 憲法などに記された「天皇」は、政治に関わる一部分の政治権限の規定、日本の天皇制度の全体像のほんの一部にすぎない。天皇制度は我が国ではこんな条文よりも限りなく大きい重みをもったものだ。憲法で国の政治権限をまとめて持つと定めた首相と、何も持たないと定めた天皇陛下が先の大震災をはじめお見舞い儀式に行かれた際に、国民がどのような受け取り方をするか。その違いは国民が憲法違反をしているのではなく、憲法で権限を持つ首相と、国民の生活全般で尊崇の対象である天皇陛下との、生活に及ぼす範囲の代償に比例しているのだろう。
 
 その事実を冷静に眺めずに、日本が日本であることを示すような精神的にも厳と生きている天皇制度の重みを無視して、歴史も知らずに憲法での知識などのみで変質させようとする井の中の蛙の動きは、国民から皇室への尊崇の心を奪い取ろうとする暴挙というほかない。
 
 安倍首相はそんな動きに対して国会で、「歴史と伝統を考慮して慎重に判断すべきだ」との基本姿勢をはっきり示した。私はそれを見て、やっとまともにものの見える者が日本の首相になったのかとほっとした。
 
 そんな安倍首相だが、いま、進めようとしている金融政策は、一歩間違えば日本が七十年前の戦争時代に採用し、戦争に敗れたそのあとで大変な苦しみを経験した同じ劇薬であることも忘れてはならない。匙加減一つ間違えば、私など老人は、思い出しても体が震える戦中戦後のインフレ時代に逆戻りしかねない政策でもある。
 また、国民の関心事として、注目される原子力発電も、人類が、特に日本人が現段階で利用して良いかどうかを検討しなければならない大きな問題である。自然を尊び、自然には神が宿るとして生きる文明を築いて守ってきた日本人は、どんなものにも神々が宿る、そしてまた神のもとに戻るものだと意識して、それを我々が利用させていただいた後は、きれいに原状に回復させて神々にお返しするという生活を繰り返してきた。だが放射能汚染の新物質は神々のおつくりになったものなのか。またどうやって「原状」に戻して自然にお返しするのだろうか。これで汚染させた土地をつかさどる神々はどうされるのか。ことごとく我々の信仰である「神道」とは一致しない。「終戦のご詔勅」を出され「人類破滅につながる」と厳しく断定された昭和天皇のご判断とも相反していないだろうか。歴史と伝統を考慮した上に使うにしても、攻めて神々(自然)の生み出したものではない物質を、安全に原状に戻す技術を総力を挙げて作り上げたのちに検討すべき問題ではないだろうか。
 
 日米安保を基本として、日本国の独立を米国などの力に頼って維持していこうとする姿勢においても、私などに言わせると、米国との敗戦以降、米国に従い、自国の主権さえも米国に従属することによって守ってもらおうとする発想を一旦払拭して、もっと基本的なところから日本を眺め社会を見て、日本人らしい独自の発想がほしいと思う。外交の姿勢なども、西欧的な発想のままで相手の土俵でのみ外交を展開するのではなく、日本の土俵というものを堂々と示し、そこで互いに交渉すべき時代であると考える。




これからの政治に期待しよう


だが安倍政権に「らしさ」が出てくるのは、すべては夏の参議院選挙まで待たねばならない。選挙で自民党に独力で政局を乗り切る力が出てくれば、日本の政治の基本を定める憲法の問題にも手がつけられることになろうし、自・公の枠組みのみにこだわる現状から、真正面から改憲を掲げる石原・平沼グループとの連携なども生まれてこよう。ただ参議院選を戦うためには、今は国民の「期待値」で上を向いている安倍人気がその辺りから実績によって裏付けられるようにならなくてはならない。
 
 それに改憲など、独立日本の回復に向かう意欲を持った内閣の支持勢力である衆議院自体も、裁判所の「違憲状態」と判決された中で動く暫定組織であることも忘れてはならない。
 
 ただ最後に、私が安倍政権、というよりは自民党政権とは意見を異にする若干私の主張を加えておこう。
 
 私は現在の日本を蝕んでいる情況は、もちろん占領中にできた日本を二流・三流の国にしようという占領目的に唯々諾々と独立回復後も忠実だっただけではなく、日本文化のあるべき姿などを客観的に考えずに、帝国憲法下の体制から、無理強引に変更をさせられた日本が、独立回復のけじめもつけずに今まで来たところにあり、自民党の責任もこの点では極めて多きいと思う。
 
だがこの状況からの真の意味の独立と、日本国が独自の世界唯一の古い文明をもつ国であり、日本文化の体質の中に、いまの世界が見習うべき美点もたくさんあると思うけれども、そんな歴史と伝統を現代に生かす国に維新するためには、憲法の条文だけを変更したとしても、それで満足とは考えていない。
 
 国の姿勢は憲法だけで決まるものではない。国の方向を定めるのはその国を支える全国民の精神文化である。日本は世界に例を見ない民族が力を合わせてまとまって生きるということを何よりも大切にして、人類社会を見回しても世界中どこにも他に例のない文化を数千年も切断することなく維持し、途中でその志を徐々に見失ってしまった面は否定できないが、自然を征服する相手としてではなく、相調和して共存するものとしてとらえ、人間は一人ではなく、たがいに集団でしか生きられない面を重視し、平和を大切に浦安の国を目指してきた「和魂洋才」を柱としてきた唯一の国であることも忘れてはならない。
 
 「人類社会でのガラばコス諸島のような国だ」などという評も受けるかもしれない。だが西欧文明の「個人主義」的な生活方式、それが生み出した産業革命により目覚まし発展を続けてきた世界は、いま、そのバラバラで勝手に動く「個人主義」的文明の持つ基本的性格によって行き詰まり、そろってこのままでは発達を続けていけない危機に加速度的に追い込められてつつある。
 
 そんなさなかに注目すべきは、自然を神として大切にし、神に対するまつりを通して国民が一致し、家族や友人、社会のことをわがこと以上に大切に思う文明を守り続けてきた日本的文化姿勢なのではないだろうか。
 
 明治維新後の日本は「和魂洋才」をスローガンに、日本に定着する精神姿勢を精神的に大切な柱としながら、技術の面では比較にならない大きな成長を遂げた西欧姿勢を積極的に取り入れていこうとするものだったはずだ。そしてそれは維新直後には大きな成果を上げてきたように思う。
 
 だが、華やかな物質文明に幻惑された日本人は、だんだんとその維新の基本方針である「和魂洋才」の原則を忘れ、大切に守らなければならない日本人の精神史を忘れてしまった。そんな動きには特に外国の技術や学問を修めた人が最も侵され、それが日本がまず知識人、政治家、役人、学者などの順に日本人の心を見失う状況を作り出し、いつの間にか、国民一般よりも彼ら知識人が西欧化を競い、その結果西欧とあらゆる面で摩擦を生じ、こんな日本の姿になってしまった。
 
 期待しすぎているかもしれない。だが日本という国が毅然としてこの世界で生きていく将来のために、まず復活させるべきは「和魂洋才」の精神復古であると思う。そして安倍首相はそんな日本に戦後の日本が舵を切るときに際して、日本国の政治的かじ取りを担う最初の男になれる可能性も持っていると思う。
 
 私は勝手に過分の期待をかけているにすぎないといわれるかもしれないが、駄目だと失望して日本の破滅を迎えるよりも、少しでもその糸口に日本を近づけようとしている安倍氏に期待をかけたいのである。


 

天皇陛下のお誕生日

2012年12月26日 06時44分27秒 | 私の「時事評論」
私のブログ http://www.ashizujimusyo.com に天皇陛下のお誕生日の時に、以下のようなブログを掲載しました。お読みの方にはダブりますが、紹介しておきます。

今年で79歳に

 天皇陛下が12月23日、79歳のお誕生日をお迎えになられた。

 陛下は記者団にご会見になり、そして皇居参賀に訪れた一般の人たちに、何度もお立ち台から御手を振られたが、その御会見の御所見やお言葉に私は感動した。

 天皇様のお誕生日のメッセージは、いつものことだが、東北大震災の被害に遭われた被災者たちに向けられている。

 彼らのことをまず第一に思わなければ日本の幸せはないというご陛下の御信念。

 政府も官庁などの役人も当局者も、被災者のことよりも規則や法令などを考え、そして我々日本人も、ともすれば、日々次々に起こる現象に目を奪われて、

我々はまず、「何をなすべきか」という日本人としての生き方を忘れてしまっている中で、

しっかり見つめられている大御心にはブレがない。

 朝夕東北の民の身を思われ、その苦しみを己が苦しみとして、ひたすら神々にお祈りをされておられるお姿が拝される。

 我々が同じような心境に一歩でも近づきたいとあこがれながらもなることのできない無私のお心、それこそが陛下のお心そのものである。

 そんな陛下だとよく知るからこそ、我々は「天皇陛下万歳」という短い言葉の中に、万感の思いを込めて奉唱し、天皇陛下を心の底から信仰し、そのもとにある日本人であることを幸せに思う。

 陛下も、ご長寿をお祝い申し上げる国民に対して、その心をしっかりお持ちくださっている。突然、心臓の手術を受けられたり、御体調を崩され、わがこと以上に心配する国民に

「心配してくれてありがとう」

と、素直に我々の心を読み取って手を振ってお応えになってくださる背後には一点の曇りもない。

 天皇陛下は日本の宝、文化そのものの中心なのだとしみじみ思う。


 ご公務多忙と動く官僚の動きに対して
 
 また陛下は、今政府・宮内庁などのもとに騒ぎが起こっている陛下のご公務軽減のために、軽率にも伝統の皇室制度にまで手を付けて対応しようとする動きを眺められて、

 「その必要はない」

とはっきり国民にメッセージを示された。

 「東宮や秋篠宮が手伝ってくれるから心配しなくてもよい」。

 この陛下のお言葉には、多くの意味が含まれていると思う。私は、お言葉の背後に、天皇陛下の日本の伝統を尊重し、皇室がその継続の中にあることの尊さを思う。数千年の伝統を活かしながら、伝統の天皇制度を維持することには、軽率な小手先細工は避けるべきことだ。

「天皇陛下万歳」。

 日本の皇室を中心にまとまっている伝統の文化を素直にありがたい先祖からの贈り物として受け取り、焦らず肩ひじ張らず、力まず軽率に対応せずに素直に大切にしよう。

 穏やかに日本人らしく生きること、これが簡単に見えて最も大事なことなのだとつくづく思う。

いよいよ明日が投票日

2012年12月15日 18時48分39秒 | 私の「時事評論」
いよいよ明日投票


 明日はいよいよ総選挙の投票日、今回の選挙は投票予想などを見ると、前回、三年前の自民党政権への不満が爆発的に高まって、一挙に民主党政権が出来上がった状況の揺り戻しのように、政権の奪還を目指して安倍晋三元首相の率いる自民党が政権奪還をしそうな気配だそうだ。
 時計の振り子のように国民の投票動向が揺れ動く。これは大衆に確たる政治的信念がなく、しかも目の前に不満ばかりが堆積しているときに起こりうる現象で、ほめた見方をすれば、自由な選挙が行われていることの証明のようなものだとも思う。しかも今の選挙制度は基本が51%がすべてを支配する制度だし、比例区がその微調整のような役割を持っている大政党有利の形。結果的には得票数以上に議席数に影響する。
 だが、選挙はそれからの政治の担当を決めるもの。選挙のたびにただ現状に対する不満だけで投票の結果が逆転する左右に振り子現象を繰り返す繰り返しでは、いつになっても政治環境は安定しないし穏やかなものにならない。とくに前回の怒涛のような民主党の躍進は、その二年後に行われた参議院選挙ではやくも反民主党勢力の自民など野党グループに大きな敗北を喫し、その後生じた衆参両院の勢力反転のねじれ現象が日本の議会制度そのものを円滑に運用する力を失わせてしまった。津波のような大波が選挙のたびに右に左に揺れ動くのでは政府の方針は猫の目のように変わり、国政は民主党内閣でなくてもまともに進まない場合が多い。
 今回の予想される自民党などのグループの大勝は、衆議院・参議院をどちらも視野に入れての観測から眺めた場合は、先の参議院選挙と今回の総選挙、そこには同じ方向の国民の選択が見られ、ただ揺れ動く国民心理のみが票の動向を左右しているだけだとみる現象とは言えないのが救いだが、予想される安倍新政権はまともに動くだろうか。政治に不信となった国民心理が今は強く漂っている。不安定化した政治運用に、よほど腹をくくってかからねば、せっかく円滑に政治を行おうとしても、麻痺をしてしまった行政組織が整備される前に、また国内不満が高まって、早くも振り子の第一波が参議院選挙に出てくることもありうるのだと注意をしながら進んでほしい。
 政治の力や行政機能の無能化は各方面で我が国をむしばんでいる。とくに東北大震災のあとを見るとよい。大震災からの復旧は掛け声だけで進まない。こんなにも長い間、生活もできない人々が放置されたままであった震災の例は近年その例がない。津波の傷跡がそのままいたるところに放置され、あたり一帯が荒れ地で復興の元気な槌音も聞かれない。これが今の日本の姿である。
 こんな厳しい状況で東北の人たちが苦しんでいるのをそっちのけにして、選挙は今動いている原発を止めるか、ふたたび再起させるかのみに集中しているように感じられる。こんな冷たい国や国民で良いはずがない。救急活動のような緊急事態と、将来の日本の在り方を問う国家方針との混同である。
原発の論議は確かにあの東北大震災での福島原発が発端になったものだ。こんな福島のような状態が、将来福島以外のほかでも起こるとなれば日本は沈没するだろう。だから原発などは廃止すべきだ。その第一段階として原発の再開はやめろという主張が出てくるのはわかる。私自身も、こんな愚かな原発などに飛びついた連中の将来のわが国を見据えぬ軽率な文化の破壊者には強い憤りを持っている。だがその論が決着がつくまで、東北の人々は苦しんでいろというのは政治というものではないはずだ。
原発に関しては、原発廃止などをすれば、日本の電力需給は需要が供給を上回る。また今までにいったいどれだけの資金や労力を原発に注ぎ込んだのかと反対する連中の意見にも好き嫌いは別にして筋はある。原発自体は我が国が事業として認めてしまったものなのだ。原発発電を止めたとしても、そのあとわが国土をふたたび安全な浦安の国に戻すためには、天文学的な付けを払わなければならないのかもしれない。だがこれはこれで、我々は国民に漂う不安にはっきり説明がつく厳しい決断をしなければならないだろうが、こんな論議に決着がつくまで、東北の被害の復興は放っておこうということはあってはならない迷いであり政治の怠慢である。千年前かそれより前かは知らないが、以前にだって我が国は、東北震災並みの被害は受けた。だが我が国は、皇室以下の全国民が力を合わせ、祈り、働き、助け合ってそんな災害をことごとく乗り越えてきた。
日本国や国民はこれではあまりにも東北の人々に冷たすぎなくてはないか。
今の政府は、在来のわが国のように、国民の一人一人に対してひたすら神に祈り、彼らを大御宝と信じ、すべてをかけて人々を見つめる天皇陛下の臣下としての立場で進退すべきだとされた時代とは違い、選挙で負ければそれでやめればよい政治という狭い分野にのみ責任を負う政治家や役人の組織だからというのかもしれない。新憲法は日本伝統文化とは確かに違うところがある。だがそれであっても彼らは公僕とされている。せめて東北の被災者たちも、自分らと同じ水準の生活ができるまでは、国民の僕である自分らも同じ水準以下で過ごす義務があるとの国民的連帯を持って政治に取り組んでもらいたい。
 安倍さんにはその覚悟があると期待している。


 お断り
 
 私は前回のこのブログで今回行われる総選挙を前に、今回の総選挙のもっている意味づけを連載しようと計画し、その第一章の総論的なものだけ発表した。だが、その後が続かぬままに今日を迎えてしまった。
 弁解は見苦しいが、ちょっと言い訳をしておこう。私の父は二十年前に亡くなったが、その最晩年を父のもとに毎日のように通い、父の話し相手になり、ともに散歩をし、出かけるときは付き添って、私以上にわが父に尽くしてくれた40年来のわが友、私より二歳年下のM君が、夏の父二十年祭には元気な姿を見せてくれていたが、いらいしばらく音信を断っていたが大病にかかり、手術をしたが効なく、「誰にも告げるな」と奥さんと息子さんだけの懸命の看病を受けた結果、つい先日に亡くなられた。それをご家族での見送りのあと間接的に聞いて、ショックをうけて老朽化していた私の頭脳のボロボロである思考回線が働かなくなってしまった。
翌朝、亡父の眠る市内の墓に飛んでいき彼の死を報告したが、さあどうすればよいのかわからなくなった。そのことが気になって文も書けずにいた私を待たずに、時はいたずらに流れ、おかげで書こうとした時期は過ぎてしまった。
だからもう、私のような反隠居しただらしない老人はものの役に立たないのだとしみじみ思う。深くお詫びする次第である。

年末の総選挙始まる (四回連続掲載予定)その一 総論

2012年12月09日 11時47分20秒 | 私の「時事評論」


 年末の味が薄れた巷の風景

 平成二十四年の歳末である。昔は恒例であった商店街の大売り出しや、けたたましいジングルベルの騒音も、最近は偶に聞かれるが、どことなく物悲しく響く。町の商店街がコンビニやスーパーの均一化された無機質な店舗の前に圧迫されてさびれ、夕方になると毎日、近隣の買い物夫人が集まった街角の井戸端社交場も減った。商店も日本人の気質が変わったと商売をあきらめて店をたたんでいく。人々は個性を失い、生活は携帯やテレビなどのメディアに蝕まれ、買い物は全国均一化した大資本の店に集中する。これが文明の進歩というのなら、我々は進歩という名前の、自分らしさを見失った淋しい文化の時代へ進化し突き進んでいることになる。ここにはもう、往年の個性あるふるさとの面影はない。
暮れになると独特の雰囲気が伝わって来て、思わず乗せられてしまったあの浮足立った思いが、もう最近は感ぜられなくなってきた。街は無機質に変わったが、昔より明るくライトアップされ、派手な広告だけはいっぱいで、歩いている人はそれなりにいるのだが、皆同じような服装をしている。大量生産の「個性的」という没個性の行列である。おそらく心の中まで同じように個性なき「個性」によって均一化されてきているのだろう。
 売れないほどに物を作りすぎて、いまは不景気なのだそうだ。そう言われると私も、歳をとって半隠居になったのだが、昔の老人ほど良い表情はしていない。毎日ステッキをついて散歩をするが、消え失せる故郷の名残探しでもしている感じになる。それに最近は随分貧乏になってきた。途中でのんびりお茶も飲めなくなった。ポケットを確かめ、通帳の残高をちらちら見ながら、毎日の出費を調整しながら暮らしている。若かったころの、あの浮き浮きした年の瀬の盛り上がりはほとんど感じられないこの頃だ。

 地元の商店街の一角、少年時代は福引所で、ゴロゴロ回すと弾のでる抽選ろくろを回し、「大当たり!」を夢見て福引券を持って目を輝かせていた歳末風景が懐かしい。ネオンサインとサンタクロースの縫いぐるみ、それが消えると正月飾りの露天がいつの間にか加わって、正月を迎える気分が高まった。今年の暮も明るい色彩だけはあふれているが、吹き抜ける風が殊のほか冷たく感ぜられる。
 加えて、今年は年末に、ボリュームいっぱいの連呼で知られる総選挙までが戦われている真最中だというのに………。

 
 時ならぬ選挙
 
 昨年、日替わりランチ首相の三人目として総理大臣の座につき、歴代首相の積み重ねた無責任を追及されつつも、国会での野党の解散要求を懸命に躱(かわ)し、今年に入ってからは、与党内の一致さえ頼みにならないので、野党である自民・公明両党の協力を受けてまで、緊急に迫った政治案件や消費税の見直しなどの法案を通し、これでもまだ民主党政権かと批判されながらも政権にしがみついていた野田首相が、頑なな姿勢を急遽一転、突然衆議院を解散した。
 解散は首相の専権事項である。首相が突如方針を変えたので、膠着停滞していた政局はこれにより急転して、新しい事態に向かうことになるだろうが、なぜ野田氏がここにきて急転したのか。これは周辺の空気から「おそらくこの状況では、首相は不意打ち解散に踏み切るのではないか」と見ていた私には、矢張りそうかと納得のいくものではあったが、唐突の感はぬぐえなかった。

 だが首相の大決断は、今でこそ注目さるべき関心事にはなっても、長期的な我が国の流れから眺めれば、渦巻く政治の流れの中の小さな渦のようなものにすぎない。渦はやがて、何事もなかったように忘れられ、誰も見向きもしなくなるのではないだろうか。日本の政党の殆どは、政策を掲げる国民を基礎に置く組織ではない。揺れ動く政策を掲げたり降ろしたりする政治を家業とする連中の集合離散の寄り合い所帯であり、政策による結束力などは元々薄い。共産党や宗教的な拘束がある公明党などを別にすれば、私は現在の政党など所詮はそんの程度のもので、票を目当てに政治屋どもが右を向くか左を向くかで政策も揺れ動く程度のものだと見ることに決めている。ところが最近、政治屋どものあてにする地縁や人縁の組織力が風化してきたので、「みんなの党」などという、大衆に媚びて泳ぐことを堂堂と党名に掲げた党派もあるほどだ。そういえば今回の騒ぎの中で「国民の生活が第一」などという、解散騒ぎの半ばで合併し、党名は結局消えてしまったが、衆愚政治を党是と掲げた党までが出現した。

 
 
 政策に大差がない各政党

 政策はほとんどがいまから60年以上前に、日本が戦争に負け、当地のために占領してきた米国が、
「これからの日本はこんな基準で政治をやるべきだ」
と命令し、新聞や学界にまで圧力をかけ、憲法に書き込み、教科書に書かせて国民に教えたことが柱となっているので各党とも大差がないのが現状だ。

 情けないことではあるが、300万の同胞を戦争で失った我が国の我々の先輩方は、もはや明治維新の時のような気概を発揮する力を残していなかった。そんな見えない古きアメリカ統治時代のくさびから、まだ日本は解放されたとは言い切れない。だから政治の見識などを、いま急に望むすべもない日本の政局なのだ。

 今回の総選挙の背後には、明らかに戦後政治のもうこれ以上やっていけなくなった行き詰まりが結果であった。災害からの復旧、国を揺るがす経済不況、周辺諸国からの圧力、みな、国民が力を合わせて、協力して事に取り組むことが無ければ簡単に乗り越えることのできない問題である。ところが、そんな事態に対して、協力する義務、我慢して従う義務があることなどを意図的に外して作られているのが日本の憲法である。戦争に負けて、占領軍に憲法という政治を歩む靴までを投げ与えられ、「靴に足が合わなければ、足を削ってでもそれで歩け」といわれた日本は、負けたのだから仕方がないと、それを忠実に守って今まで来た。だがそれは、所詮は日本の足に合わないばかりか体にも合わないものであったと私は思う。それでも、騙しだまし、歩いてきたのがついには限界にきて、四方八方から問題が起こって、躓いた結果が今回の総選挙を迎えることになったのだ。

 だから日本の政治の混迷は、上面だけでは治らない。この選挙だけでスッキリ解消されるというわけにはいかないだろう。いろいろの事件に遭い、苦労しながら、日本に合い、日本文化に合うところまで、何度も改良を重ねていかなければならないだろう。

 その進展次第では我国の正常化が間に合わず、「日本沈没」という由々しい事態が来ないとも限らない。日本をめぐる経済環境、日本人の生活を蝕む社会環境、あるいは国際環境、日本人のここにきての意欲の低下、未来に対する慎重さの欠如、日本人の思考力の欠如など、日本が沈没しかねない要素はたくさん見えている。だがそれでも私は将来に期待する。日本の文化は3000年という歴史を重ねて、その間、何度も危機的な状況はあったのだが、ここまで一貫したものとして続いてきた。独立を維持し、自然と共生し、国土を美しいままに保全して、歩み続けてきたのである。

 不幸にして近年日本は西欧文明が世界を席巻する空気の中で、自ら国のかじ取りの選択をミスして、疑似西欧化を追い求める結果となって挫折した。だがそんな苦しみも60年、国の中にはそれを反省する機運も再び芽生えて来ている。日本の政治は国民に対して、どのように接していかなければならないのか。その問題意識が認識され出したのが今回の選挙を見ての私の観測である。

 私は日本の伝統愛好者だから、こんな日本をそれでも「日本は神国だから不滅である」との言葉で表現したい気がする。我々を取り巻く自然や営々とこの文化を積み重ねてきた祖先たち、それを神として大切に扱い、次の時代に引き継いでいく。その繰り返しが日本人の文明意識だ。それは絶やしてはならない日本人の道であると私は確信している。そしてそれは、我々の親たちが、先祖たちが、いままで共通して信じ、抱いてきた基本的な精神である。だがそのことばは60年以上の間、それを非常識だと洗脳され、もう、そんな教育や環境の下に育ったものが国民の殆どである時代になった。未来への継続を考えず、今さえよければ、自分さえよければとの価値観が、老人から子供まで徹底してしまったいまの日本で、ただ一言だけで素直に共感される言葉ではないだろう。

 だが、何で私がこんなことを言うのか、少なくとも日本に備わった児童復元装置の片鱗は、次の選挙で現れてくるものと信じている。



 そして第1回目の余談

 1:哀れな首相

 今回の選挙に関して、もう少し私の感想や観測を続けよう。私の文を古臭く苔むしていると思う人、いい加減で読み飽きた人、私の主張に不満な人はもうこれ以上読まないでよい。もっとも、読んでほしいと書いてもそんな人は読まないだろうが。

 今回の解散は首相の立場に立ってみれば、大きな決断だったろうとは思う。解散を決意した野田首相の心中には淋しいものがあっただろう。「末は博士か大臣か」、こんな言葉がかつては飛び交っていた日本である。そこで一国の政治を左右する総理大臣という最高の地位に昇りつめながら、自ら選択を決断した総選挙で、地元の千葉の選挙区への立候補だけでなく、比例代表区にも、誇りを捨てて名を連ねざるを得なかった境遇となった。
 「政治に切れ目を作ってはならぬ」と首相は語っている。外面では意地ででも首相の任務に取り組む責任姿勢を国民に見せ、自分個人の選挙活動には、それは私的なことだし、おのずから本気で取り組めないのが首相の座にあるものの責任であるとの首相の言い分は分かるが、地元で落選してでも議席の一端でも確保して日本のために働こうという決断は、「男らしさ」を殊のほか愛してきた彼にとっては不本意だったであろう。それもこれも、彼自身が、首相の座につくには就いたが、民主党という群の将としての器の大きさを持っているように見えない現状のままで、選挙に取り組まねばならなかったからだろう。個人としては、彼におおいに同情する。
 
 2:与党内の争いに敗れた首相

 
 解散を政治の停滞をこのままではいよいよ大きくすると渋ってきた野田首相は、野党よりもむしろ与党内の不穏な空気を見て、内閣の基盤であるはずの与党・民主党そのものの再編成を覚悟して、ここでは解散しようと決断した。事実、民主党の内部からは、野田首相引きずり降ろしの声が、強まっているとの情報が流れ出していた。国民のための政治などどうでもよい。一日でも長く与党である座に居続けたい。なりふり構わぬこんな思考は与党民主党の中の大きな声であったのだ。
 だが、そんな集団の中にあっては野田首相には、まだ政治家としての立場があり、己の抱く政治主張もあった。彼は自分が就任の時に語ったように「国民のためにドジョウのように最後まで奉仕する首相」をめざしていた。彼はもともと自民党などと非常に近い戦後の保守思想の男である。国民に対する使命感も強そうだ。だが民主党を振り回しているのは彼とは相容れない連中だ。彼は自分の判断で総選挙に取り組むとともに、まとまることを知らない民主党そのものの体質改善までを意図したものと思われる。
  

 3:すっかり変化した民主党の主張

 「彼はあくまで野党と対決するために解散に踏み切ったのだ。そんな暴論を述べるのはいくらなんでも失礼だ」という人もあるかもしれない。だがちょっと、彼がいかに解散を急いだのかを推察させるまだ忘れるには新しすぎる数日前のことを思い出してほしい。
 「選挙の前には消費税の増額によって国民の負担を求めるのだから、違憲状態を修正するだけではなく、議員数の削減などで国会も痛みを共有し、国民の納得を得なければならない」として、首相はつい数日前までは選挙法の改革に強くこだわってきた。選挙制度の再検討や議員定数の少なくとも50名程度の比例区の削減は、野田氏の掲げた現内閣の使命であったはずなのだ。それが通らないので国会は長々と空転までさせた。だがその実現まで内閣は保たないと判断し、解散を急に急いだ。

 野田首相がそこまで解散を急がなければならなかった背後には、さらに多くの政治上のマイナスが存在していたと判断するのが常識的だろう。

 そう思って振り返ると、選挙の直前まで、首相は今度の総選挙を「消費税の増額のほかに、TPPへの参加」を与党の方針にするのだと宣言し準備していた。だがこれらの選挙の柱は揃って表から消えている。消費税の増額は、野党の自民党や公明党も容認して成立したものであり、民主党の独自の公約にするのには無理があると気付いた。しかも消費税の増額は、今の日本の構造的な国家の財政危機を解消する程の大きな財源として期待するのには、あまりに小さく、しかも国民に訴える公約には、必ず反対をされて、効果の上がらぬものである。またTPPに関しては、ただでさえ国民に大きな不安を呼ぶものであるばかりではなく、背後には、急にこの問題に積極的に動き出した民主党に対して、米国側が民主党だけの選挙の公約に掲げるのには難色を示したという情報もある。そんな条件下で彼は解散を急がなければならなかった。

 公表された民主党の公約は例によって、国民に耳触りのよいばらまき予算の社会保障のほかは、親が国会議員であったものの公認を認めないなどという、政治政策とはほとんど関係ない、党内の反対派を潰すためのものなどになってしまった。これだって、慎重に見ていくと、野田政権による民主党内部での二世三世議員の暗躍をチェックして、野田グループの安定化を図る以上の効果は期待しにくい。
 

 4:早晩地盤を失う議員を選ぶ選挙


 
 まあくどくど前文を並べるのはよそう。こんな緊急の事情により、あれほど騒がれていたいまの選挙での全国の一票の重さのアンバランスも、「憲法の求める民主主義とは相容れぬもの」と最高裁よりすでに違憲判決まで出され、何よりも優先すべき選挙の準備作業なのだが無視されて、このうち比例代表区の大選挙区の定員の小手先細工だけは議決(実施はこの選挙の後に行われる)したものの、その後の人口動態により、現状は最高裁の判決のなされた時点より、いよいよ悪化している状態を放置したままの総選挙となってしまった選挙戦となった。制度自体が行き詰ったための選挙が、行き詰った選挙制度を残したままで戦われる。

 考えてみると皮肉なことになってしまった。私は日本の環境を考慮すれば、全国津々浦々の国民たちの様々な状況を知り、それらの声を聞きながら、日本的な単なる多数決だけを全てとしない国政が望ましいと思い、そのためには選挙区ももう少し大きくして、従来の中選挙区に復活するか、あるいは最高裁的な判断も採り入れて、二つの県を一つの選挙区にする程度に拡大してでも、大きめの複数候補が当選できる選挙区にした方が中央と全国の連携が強まると思っている。

 おそらく私のような声は、国民のかなりの層に達するだろう。そうすれば、今回の選挙制度により当選した議員たちは、自らが当選したその地盤そのものを否定する議案を通さねばならない使命を持った議員たちとなる。選挙の結果が注目される。



 5:違憲状態の選挙に乱立した立候補者


 この章の最後に、ちょっと選挙制度を振り返ってみたい。今回の総選挙は、「本来はわが国も二代政党による安定的な政権交代が行われるべき成熟した民主国家になった」などという国会議員たちの提案により、自民党内閣の時代に、自民党と民主党によって、それまでの中選挙区制を変更して採用された選挙制度である。

 私はこの判断は決定的に日本の実情に合わないものであると思うのだが、自民党も民主党も、この選挙法の改革さえしておけば、アメリカやイギリスのように、日本も自民党と民主党で政治が将来とも独占できると思ったのだろう。これらの西欧諸国においては、民主主義とは「51%のものが49%のものを支配する」制度だとの割り切った思想が政治を支配している。対立する二大政党は、どちらもほぼ拮抗した力を持ち、支持者を確り掴んで、いつでも政権が交代できるように準備を欠かさないで対決する。だが、日本は与党と野党の間に明確な政策上の対立がなく、しかもどちらの党も国民に定着していない。どちらの党にも属さないという国民が常に過半数になる国情を見ればよい。政治は様々な問題の解決を、どちらが勝つかの投票よりも、両者の話し合いの妥協で一致させることが理想とする国内心理も支配的だ。そんな中で小選挙区制の強行はどう考えても不自然になる。

 その制度変更により、議員定数は480名に増員され、しかも制度そのものが二代政党を求める小選挙区制の完全実施にはまだ無理があるとして、これとは全く反対の思考の下に比例区などが出来ている、一人定員の少数選挙区とは矛盾した、比例代表選挙の併用は、いよいよ選挙を奇妙なものに変更してしまった。お陰で比例区は、その内容がはっきりせず、選挙区制度で落選した議員の救済や、地域とはほとんど縁のない議員を大量に作り出す小選挙区制度の制度を否定する形のものになってしまった。

 これは地方区で敗れた議員に議席を与え、小泉内閣の時のいわゆる郵政選挙で大量の小泉チルドレンといわれる無名の議員を作り出し、前回の選挙では同じく民主党の小沢チルドレンを大量当選させた悪名高い制度だが、それがそのまま生き残る結果になる。
 
 この衆議院の総選挙に対して、選挙区立候補者は定員300名に対して1294名、比例区は180名に対して選挙区との重複立候補が認められているため、1117名もが立候補することになった。党派もこの選挙制度は米国などに見習って二大政党の対立と、相互の政権禅譲を予想したのに、二代政党どころか、約14もの名前も覚えきれない多くの政党の乱立する形になってしまった。当時の事情を知るものは均しく首をかしげる結果である。

 競争が4倍を超す衆議院選は、数からみれば、近来にない激戦である。しかも選挙区が細分され、定員も選挙区ごとに一名が中心で、選挙区割は国政選挙なのに地方自治体選より細分されたものになり、それに全国を十一に分けた中選挙区より大きい比例区が設けられている。しかも選挙区比例区の重複立候補が認められているため、国民には、選挙区選までが無意味に見える。

 加えて、国会で解散が現実化してきた前後から、僅かの間にまるで雨後のタケノコのように多くの政党が名乗りを上げ、その政党間で目まぐるしい集合離散が重ねられ、それは高次の日まで続いた。この制度、法の前の投票権の平等を原則とする憲法に違反すると指摘されている選挙なのであるからたまらない。総選挙の後には、早晩、選挙区割や選挙制度はもう少し増しなものに調整がなされるのは当然であり、制度が変われば議員たちの議員である根拠も崩れる。定員だって今の議員は多すぎるとの声が圧倒的だ。今回の議員たちの任期は短命に終わるだろうとの予想も有力である。

 いまや、政治において経済において社会生活において国際環境において、全ての点が明瞭に行き詰まりを迎え、大きな転換期に来ているのは明らかである。だいたい現状で満足な行政が実施できるのならば、解散自体がこんな状態のままで、行われるべきでなかったとも言えるだろう。

 だがこんな状況であっても選挙がどうしても必要だったのは、我が国の政治制度そのものが行き詰まり、曲がり角に来ていることを示している。政治環境は、機能マヒを明瞭に示す状況となっている。総選挙は議員の任期は短くとも、今後の政局ならびに日本国事態の進路に、変化が訪れるその第一歩にもなる。いや、そうならなければもう日本の現在の政治は、まともに運営ができない情勢に来てしまっていると言える。たとえ違憲だとされている選挙でも、この結果から、多くの未来に対する展望の足掛かりが生まれなければならない注目すべき選挙であると。