夢のあと

釣りには夢があります。夢を釣っていると言っても過言ではありません。よって、ここに掲載する総ては僕の夢のあとです。

戦争ってものを知ってもらいたいから・・・恥を偲んで。。。

2015年07月26日 00時58分37秒 | 社会
 釣りが大好きな僕ですが、その発端となったのは叔父でした。その叔父は大きなヘラブナ釣りの大会で優勝してその世界では有名だったらしく、僕が遊びに行ったときも何人かの芸能人(俳優さんや芸人)が来ていたりしました。叔父には僕と同い年の息子が居ました。要は僕のいとこです。そのいとこと僕はとても仲が良くて喧嘩どころか口論もしたことがありません。わがままな僕をいつも許してくれるとても大人しい相棒でした。そのいとこがあるとき我が家に遊びに来て『釣りして来た。それはとても面白い。』と話してくれた。我が家は父をはじめ、釣りをする人がいなかったので『フ~ン』って感じだったのですが、それが気になって仕方なくて仕事に忙しい母でしたが、つい『釣りに連れて行って!』って頼んでしまったのです。しかし、母には時間的な余裕もなく釣りのことはまったく知らないので母の兄(その叔父)に頼んでくれた。そして連休のある日、その夢が叶うことになったのです。オフクロが前日に彼の家へ連れて行ってくれて、彼の家で一泊して朝早く出掛けるのです。朝が苦手な僕でしたが、前の晩も嬉しくて嬉しくてなかなか寝付けない状況。しかも叔父は友達を呼んで隣の部屋で麻雀をやっているのでその音や時々唐突に起こる大きな笑い声で着床した後も寝苦しい一晩でした。
 朝になって起こされて早速出発です。勿論用意は総て叔父がやってくれたので僕は手ぶらです。外に出るとバイクがありました。当然叔父が運転して僕は叔父の後ろに乗り、いとこは前。出発です。叔父の大きな背中に両手でしがみついて。実はそれだけで僕は嬉しかったのです。我が家では父も母も仕事ばかりでこんなに体をくっつけることはまずありませんでした。時々母は僕を抱っこしてくれましたが、少なくとも自分から人に抱きつくことはなかったのです。加えて叔父は志願兵として予科練に行っていましたのでその厳しさは半端ではなく、一旦怒ると殺されるのではないかと思うくらいの体罰が待っていたのです。僕の中で恐怖の対象だった叔父が僕を連れて行ってくれる、そして僕はその叔父の背中にしがみついている。それがとても嬉しかったのです。
 話はそれますが叔父の恐ろしさの一つを。。。
 叔父の家は地元の有力者で土地も広く、家も大きく立派な佇まいでした。昔の事ですから冠婚葬祭は総て自宅で執り行われ、大広間に沢山の人が集まる事がよくありました。集まる人が多い時は料理が間に合わないので前日に作って押入れに入れておく事もありました。あるとき僕が遊びに行った時も丁度そのタイミングでした。いとこと遊んでいるうちに、その押入れに入っている料理が気になりだしました。大人が食べる料理をちょっと味わってみたいと思ったのです。いとこと相談して代わる代わる見張りをしながら料理が置いてある押入れに二人して忍び込んで。。。押入れは襖を閉めると真っ暗です。時々襖を少しだけ開けて品物を確認しながら賞味して行きました。あまり美味しい物はなかった気がします。で、気になったのは奥にあった一升瓶でした。そう、お酒です。小さい声で『飲んじゃおうか?』と囁いたら、暗闇の中からいとこが『ウン』って応えたので封を切ってラッパ飲みしてみました。お世辞にも美味しいとは思えない代物でした。でも、なんだか大人になった気分です。きっといとこもそうだったのでしょう、代わる代わるラッパ飲みして大人の世界を満喫していました。夢中になって大人を感じていたその時です。いきなり襖が開けられ眩しい光とともに叔父の険しい顔が目に飛び込んで来ました。『キサマら!何をしてる!』との大声と共に二人は押入れから引きずり出されました。その場で何発かビンタを。二人とも酔っ払ってグタグタで立てない状態でしたので、外に引きずり出されていきなり足をつかまれて逆さ吊りにされ、そのまま池に行って頭から水の中に。苦しくて腹筋を使って頭を水面から上げると位置を下げられて。これは恐ろしかったです。まぁ、懲らしめるための事なので決して憎くてやっているわけではありません。僕らが沢山池の水を飲んでグッタリしたところで終了でした。

 こんな叔父ですから近づきたくありませんでした。何か気に触れる事があったら何されるか分からない恐怖がいつも僕にあったからです。でも、そんな叔父が僕を乗せて釣り場に向かって運転してくれている。釣り場に着くまで一言も口を利かない叔父でしたが、なんか涙がチョチョ切れる気分でした。途中、左足のふくらはぎが熱い事に気が付きました。バイクのマフラーが当たっていました。そしてそれを叔父に言おうとしたのですが、もしお気に触れたらどんな恐怖が待っているか判りません。自ら足が当たらないようにできるだけふくらはぎをぃマフラーから離していたのですが避けきれませんでした。我慢を続けていたら釣り場に到着です。そこは広大な水田の中に池とそれを結ぶ水路で構築された場所でした。その周辺を釣り師の間では「小針沼」と呼んでいました。今ではすっかり埋め立てられててその面影はなくなっていますが、多分現在の「古代蓮の里」辺りだと記憶します。しばらく歩かされて池と池をつなぐホソで立ち止まった叔父に「ここですか?」って聞いたら頭を縦に振って。相変わらずのおし。釣竿を取り出し仕掛けを準備してくれて・・・。僕はやる事がないので痛みが残る左足のふくらはぎを見たら二ヶ所火傷をしていて水ぶくれが。用意が済んだおじは『こうやるんだ』と初めて口を開いてくれました。脇で見ていたいとこもいろいろとアドバイスをくれます。何せ彼は経験者ですから。餌はアカムシ。それの付け方を見せてもらって、狙う場所(ポイント)を教えてもらいました。ホソのど真ん中に少しひしゃいで差さっている竹の際です。餌付けも終えた竿を手渡され、竿を持った僕のその手を叔父の大きな手がつかんで、こうやって投げるんだと教えてもらいました。そして浮きが動いたら魚が食いついた合図だから上げろと。・・・とても幸せな瞬間でした。そして一投目。叔父といとこと僕の3人が見つめる浮き。その浮きが動きました。上げると僅かな手応えはあったもののすぐに上がって来てしまいました。バラシです。ちょっとだけ掛かっていたようです。叔父は『いいスジしてら~』と褒めてくれて、もうちょっと強くあわせる事を教えてくれました。アカムシが白くなってしまったので、今度は自分で付けて第二投。浮きが動いて少し強めに合わせた僕の右手には確かな手応え。ブルブルと小気味良い振動を感じながら興奮は最高潮に。そして水面を割って出てきたのは金色の・・・それは太陽の光を思いっきり受けながら体をくねらせてまーるくなって手元に飛び込んできました。叔父が「キンブナだ」と。確かに金だと妙に納得するとともに、この嬉しさを叔父に伝えなきゃと。でも今の気持ちが総て伝わる言葉は見つからずに歯がゆい思いがしたのを覚えています。『ありがとう』しかありませんでした。何も見えない水の中、その見えない場所にいる魚が餌に食いついて来たことを浮きという道具で知り、そのタイミングを逃さずに鈎に掛ける。この昔から人類が脈々と続けて来た『釣り』というシステムの素晴らしさ。いとこが「釣りは面白れ~ぞ」と教えてくれたのが良く判りました。それから見えない水中のことをいろいろと考えながら尾数を重ね、キンブナをはじめ、ギンブナ、クチボソ、タモロコ、子鯉など様々な魚を釣ることが出来ました。これですっかり釣りにのめりこんでしまった僕は、機会があるごとに(というより休みの毎に)叔父の家に釣りをさせてもらいに行きました。叔父の都合がつかない時はいとこと二人で出かけました。いとこの家は埼玉の行田という所にあり、その行田は忍城という徳川直轄のお城の城下町でした。映画『のぼうの城』の舞台です。この城はなかなか陥落しなかったらしく、最終的には水攻めにされて落とされたのですが、その際に水を引いたり落としたりした水路が沢山ありました。要は小針沼まで行かなくても沢山の釣り場があったのです。そして休みの毎に快楽に浸っていました。
 そんな僕でしたが、一つだけ嫌な事がありました。釣りは朝が早いので前の晩に彼の家に泊まることが最低条件だったのですが、彼の家は叔父がほとんど毎晩友達を連れ込んでの麻雀大会をやっていたのです。うるさくてなかなか眠れません。これがなければ最高の釣り旅なのですが。でも、翌日の釣りのことを思えばこのくらいの我慢は些細なことでした。麻雀に来るメンバーはいつも同じでした。叔父の戦友だとか。一人だけ左手がない人がいました。きっと戦争で敵の銃弾にやられたのでしょう。そんなふうに思っていました。そしてある晩、いつもと同じに麻雀をされて、こちらは寝付かず目を閉じて横になっていた時のことです。メンバー4人で“あの時の事”を話し出しました。そうです、戦時中のことでした。『貴様らに手を食われたからナ』と。そしてそれに応えて他の人が『オメーの手は不味かった。』と。すると『ふざけんな、貴様らがここにいられるのは俺の手のお陰だ。』って。えっ?・・・手を食われた?・・・不味かった?・・・もしかして。。。
 とても恐ろしい会話でした。そして眠れなくなってしまって。。。でもあの恐い叔父ですから、やたらな事を聞いたらどんなことされるか分りません。その恐怖からその件について叔父に聞く事が出来ませんでした。でも、やはり気になって仕方がありません。いとこに聞いてみると「そういうことは聞いた事がない」とのこと。でも彼も気になったらしく、ある時その知りたい気持ちが恐怖を超え、とうとう夕食の後にその事について聞いてみました。一瞬表情を強張らせた叔父ですが。「そうか、聞いてたか。それじゃー話してやろう。戦争ってモノはこういうものだ」と前置きした後、話し出しました。以下はその聞いた話の僕の記憶の要旨です。

 叔父さんは志願して兵隊になった。予科練ってやつだ。霞ヶ浦だった。毎日の訓練は厳しく上官も厳しくて付いて行くのがやっと。敵はいつ何時攻めてくるか分らないのだから早メシ、早グソは当たり前のこと。一番辛かったのはボート漕ぎだ。ケツが擦れて尻っぺたが水ぶくれになって。そのままだと辛いから自分で切って水を出して。すると翌日のボート漕ぎではその皮が剥けてしまって血だらけ。痛いからちょっと手抜きをすると上官が来て「甘ったれるな!ケツを出せ」と。言われるとおりにすると血だらけのケツをバットで殴られる。そんな日々を送っていた。それでもこの訓練がお国のためになるんだと信じていた。そんな辛い日々を送っていたところに特攻命令が来た。その後船で鹿児島の鹿屋基地に行き、そこから出撃する予定だった。特攻命令が降りた後は相手に大きな打撃を与えるためにどこに狙いを付けるかを日々考えていた。恐くはなかった。強がりじゃない。このために今まで辛い日々を送って来たのだし、覚悟は出来ていた。そして出撃の3日前に一緒に出撃する仲間から極秘の話があるからと内緒の召集がかかった。行って見るとそこには同日に特攻予定の6人が揃っていた。そして召集した隊員から信じられないような話を聞いた。「ある信用できる情報によるとすでに日本は終戦を決めている。残念ながら敗戦だ。数日もしくは十数日で敗戦となる。つまり我々の特攻はまったく意味を持たない。・・・逃げよう。命を無駄にしてはダメだ。当日は自分が先頭を飛ぶ。そして無人島に不時着する。そして終戦を待つ。・・・どうだ。な、そうしよう。でも来たくない奴は来なくていい。生きたい奴だけ着いて来い。」とのこと。こちらの意見は聞かずに一方的な話だけ。数分で終わった。もしもこんな事を話している事がばれたらそれこそ大変な事になることは全員が知っていたので、彼の話を聞いた後はみんなそそくさと散っていった。叔父は“逃げるだと?そんな非国民な事が出来るか!みんながそうなら尚更俺は一人でも行く。そしてこの命で相手に大きなダメージを与えてやる”と最初は思っていた。でも、他からも日本は負けるらしいという情報がちらほらと聞こえ始め、特攻当日にはかなり濃厚な情報となっていた。飛行機に乗り込んでもまだ決心がつかなかった。みんなはどうするのだろう?みんなに敬礼され、手を振られて離陸したはいいもののまだ心が決まっていなかった。しばらくは6機編隊で飛行をしていた。叔父さんは最後尾に着けていた。そして先頭を飛んでいた飛行機がいきなりルートを変えた。と思った瞬間、正面から敵機襲来だった。ここは一旦逃げなければ。一発撃ち込まれたら大爆発だ。何せ自分は特攻、沢山の火薬を背負っているのだ。一斉に他の飛行機も一番機の後を追った。だから叔父さんも彼らの後に着いた。敵の攻撃で一機は撃ち落された。逃げている自分に情けなさを感じたがこの状況下では仕方がないと思えたのだ。先頭の飛行機は知らない小さな島の鬱蒼と茂った森の中に消えて行った。そして後続機も次々と後を追った。不時着だ。そしてその中の一機は不時着時に爆発したのが見えた。叔父さんも不時着に挑んだ。滑走路がない場所に降りた事はないが概ねの予想はついた。死ぬか生きるかだ。下降して島が近付くと川が見えた。少しでも衝撃を少なくしたいのでその川を狙った。機首を上げ、出来るだけ速度を落としてソフトランディングを試みた。判ってはいたものの、その衝撃は思ったより大きくて気を失った。気が付くと飛行機は川に橋を掛けたようになっていた。翼を渡って陸地へ。無人島らしいが、敵がいるかも判らない。森に逃げ込んで姿を隠した。みんなは大丈夫だったのだろうか?一機はダメだったろう。そして一日彷徨い歩き、二日目に同僚と出合った。「他のみんなはすでに合流しているので来い」と連れて行かれたのは岩穴。防空壕のようにも見えるが掘ったような形跡はなかった。そして、仲間3人とここで、間もなく訪れるだろう終戦まで生き抜くことを誓い合った。水は岩穴を伝う水を溜めておけたので苦労しなかった。食料は動物を捕るために簡単な罠を仕掛けたりしたがほとんど捕れず、近くの雑草だけが食料だった。それもだんだんと無くなり、みんな空腹で苛立って来ていた。6日目になってある隊員から提案があった。「このままでは全員が餓死してしまう。誰か手の一本でも提供してくれればそれを喰って一週間くらいは生きて行ける。どうだろう?」と。誰も乗り気にはならなかった。しかしそれから3日目にはそれが決定された。腕の提供者はじゃんけんで決めた。最初に二人が勝って、残りが二人になった。叔父さんはその一人だった。このじゃんけんで負けたら腕が一本無くなる。でもそれは仕方がないこと。そもそも生きているだけだっておかしい非国民だ。そのくらいの罰はあってしかるべき。そう思って臨んだ最後のじゃんけん。叔父さんが勝った。負けた人は「頼むから左手にしてくれ」と哀願した。食料としての腕なので右でも左でも量はそれほど変わらない。一人が銃剣で腕を根元より少し離れた所から切断。まったくの根元だと止血できないからだった。一人はもう一方の手を押さえ、もう一人は大声を出さないように口を押さえて。すぐに残った腕の部分を蔓で縛り上げて止血処置をし、加えて止血と化膿止めを兼ねて、傷口を焚き火で焼いた。切断された左手はそのまま他の人の胃に収まった。切られた本人は食べなかった。それから6日後、拡声器で終戦を知らされ、この地を後にし本国に帰った。一人の犠牲者も出なかった。しかし、それは奴の手のお陰だ。そしてこの4人がいつもの麻雀のメンバーだ。

 こういう話を聞かされた。僕の頭の中ではその光景がリアルに再現され、恐怖というよりは人間の存在そのものを否定するかのような気持ちになっていた。当然その夜は眠れずに朝を迎えた。
 翌日も釣りでしたが、朝からいとこは無口。それはそうだろう、自分の父親がそんな酷い事をした人だったのだから。とりあえず釣りには行ったもののやはり冴えない表情。『オヤジさんの話は凄かったね』って言ったら、僕の話を遮るように「もうそのことは黙ってて」と。僕はどうしていいのか判らずただじっと浮きを眺めていました。そしてそれからしばらく彼と会うことが出来ませんでした。

 戦争を知らない世代の僕ですが、このように当時のことが今でも僕らに影響を及ぼします。人が人を殺したり危めたりすることは絶対にあってはいけないことです。そしてその可能性があることにも自分から近づくことがあってはいけません。人の肉を食った人を叔父に持つ僕です。正直申しまして親族の恥でもあります。しかし戦争という極限の状況下ではこんなひどい事さえも肯定されてしまうのです。この恐ろしさを忘れてしまっている現代において、こういうことが日常的に起こり得るのが戦争というものだと皆様に知っていただきたくここに書かせていただきました。将来の日本人に叔父のような経験をしてもらいたくはありません。

 安保法案・・・「そんなの決定したって実際に戦争なんて起こるはずはない」という方もおられますが『君子危うきに近寄らず』です。集団的自衛権を発令し、同盟国を護衛したとしても、相手国にとって日本は『敵』となるのです。となればこちらからも『敵』になります。要は『敵』が増えるのです。敵が増えればその報復が繰り返されて個別的自衛権の発令が出る可能性まで出てくるのです。ここを訪れる方は君子なのですから危うきに近付く安保法には最後まで抵抗して行きましょう!