goo blog サービス終了のお知らせ 

アンダンテのだんだんと日記

ごたごたした生活の中から、ひとつずつ「いいこと」を探して、だんだんと優雅な生活を目指す日記

ピアノレッスン: 和声進行マニア

2009年12月17日 | ピアノ
三月の発表会のために練習を始めた、フォーレのノクターン第四番は、お指ばりばり動かないと弾けないテクニック系ではないし、そんなに長くもないのだが…

譜読みはかなりてこずって、ようやくレッスン三回目の今週、最後のページまで「めくった」。この曲は、出だしがまず「フラット三個」で、真ん中の盛り上がるところでは「フラット六個」になる。臨時記号もいっぱい、和音も凝ったのがいっぱい出てきて、CDでは聞きなれた曲なのだけれども、耳で聞いた音が鍵盤上でどのキーを押せばでるのか私にはわかってないということだろう。

とりあえず最後まで辿り着いたものの、その「フラット六個」のあたりがなんだか「わかるように聞こえない」と先生が指摘し (当たり前だ。わかって弾いてないのだから)、先生は、和音でとって弾いてみるようにと言い出した。



一拍目とかの場合、譜面にある音を全部いっぺんに弾いてみればどんな和音なのかがわかる。しかし、進んでいくとどんどんややこしくなってきて、どれかの音を省かないと和音としてまとまらない。先生は弾きながらどんどん、「ここはこれとこれが余分な音でこう…こういう進行だと思う」などと進めていく。

こういう場面は前にもよくあったのだが、今回の私は「今後の方向性について考えようとしている人」なので、初めてそこでツッコミを入れてみた。

どれが余分な音で、どうなると和音として『つじつまの合う』進行になるといえるんですか??
…すると先生、ぐぐっとつまって…そ~れ~は…話すと長いんだけれども…

先生は、「ドミソ」「ドファラ」「シレソ」を例にとって、Ⅰ-Ⅳ-ⅠやⅠ-Ⅴ-Ⅰというシンプルな進行、あるいは「おじぎ和音」の「シからドに戻りたい強烈な力」が和音進行の最も基本の部分であるというような話を早口で始めた。

そう、かろうじてそこらへんまでは私も本で読んだことはあるし、例えば子どもの童謡に「ドミソ」「ドファラ」「シレソ」の伴奏をちゃちゃっとつけて弾くくらいのことはできるわけですよ。でも、そのことと、今現実に目の前に並んでる、ごちゃーっと「余分な音」のついたフォーレの譜面との距離がありすぎるんです。

そこで、「先生がこれまでにも、和声についていろいろおっしゃったときに、意味がわからなかったんですべてスルーしてしまい申し訳ありませんでした」とカミングアウトして、「どうするのがいいでしょうか??」と聞いてみた。

すると先生は、自分こそすまなかったというようなことを言い、和声の勉強は、当然音大に行ったりすればやらされるけれども、それはそれで何年もかかって身につけることで、あまり簡単な話ではない。そして、和音がわかったところで、それをどう表現すべきなのかというとまたさらにその先があるので、相当膨大になる。まずは、楽譜を見て自分なりに試しながら、「感じて」くれるだけでいいかな…

先生がすまながる必要はまったくないのであって、大人なんだから、わからない話をスルーしてきたのも、自分でコソ勉して追いつこうとか思わなかったのも、自分の選択である。

先生がいうには、自分はピアノ弾きの中でも相当な和声マニアであり、演奏のときも「そっち側から」いく人なのだけれども、そこまでではない人もいるとのことだった。マニアなのは知ってたけど。なにしろ修士論文が和声進行なんだからね(参考:「アバンギャルドなモーツァルトと古典的なプロコフィエフ!?」)。

一方私は、「コドモのピアノ」で書いたように、長年、ただそこにある音を並べるだけの、頭を使わないピアノを楽しんできて、正直いうと、「フラット六個」ついてるのが「○長調」なのかも暗算できないくらいなのだ。頭で音階を作ってみて「シドレミファソラシ…いやこれは違うぞ…ソラシドレミファソ…あ、これか…」とかやらないとわからない。当然、曲を弾いている最中にも、その調で何が「Ⅰ」の和音なのかすら頭に入ってなく、ただ「ファ以外はフラットつけなきゃ」と思って弾いてるのだから、先が長すぎる。

さて、これからどうするか…


今日の弁当:

肉団子、にんじんとこんにゃくの白和え、れんこんきんぴら、ピーマン玉子炒め

またろうの「作業日報」大作戦

2009年12月16日 | 高専生活
またろうの勉強を進めさせようとすると、これがいつもいつもたいへんで…

五分ごとに監視でもしていないと、エンストしたり、横道に逸れたり。要するに「そのとき、またろうは」の漫画のとおりになるわけである。
(注: これは今年の二月、こじろうの受験は終わりまたろうの受験は終わっていないときにまたろうが描いたもの)

しかしいつでも五分ごと監視という進め方をしていては、本人の自律的勉強はちっとも始まらない。むしろ、親の目がなければ「今はせっかくだから遊んでいよう」という発想の手助けをしているようなものだ。ここから脱却しないと、明日はない。母の「優雅なシンプルライフ」もない(-_-;;

さりとて、ただお任せにしていたら、今日もあしたもあさっても、せいぜい公文をしたかしないかくらいで過ぎていき、一週間たってもそういえば宿題もまだだし小テストの勉強も手付かず。。となるのは目に見えている。

先日、「物理がやばい」という話になったときだって、「そうだ、やらなきゃ」という気持ちもそれはそれで真実のものではあったのだろうけど、実際にやったことは、「物理の本をベッドに持ち込んだら眠くなってきてうとうと」というもので、母が踏み込んでいって起こすといったんは本を開き、母の足音が遠ざかるとふとんの中からラノベが出てきて…というぐあい。

それで何も進まず夜になって、結局今日何もできてないじゃないというと「いやちゃんと読んでいたよ」とかいう。読んでいたのは一瞬(まさにまばたきの時間くらい)で、それは勉強とはいわない。第一、物理の問題集なんかただ眺めていたって何の足しにもなりゃしません。

「いやちゃんと読んでいたよ」と言うときのまたろうは、半分は取り繕う気持ちがあるだろうけど、半分はほんとに自分で「多少はやった」というのを信じてしまっているふしがある。この乖離をどうしたらいいだろうか。

そこでよしぞう登場。やはりまたろう族のことはまたろう族に聞くに限る。ここはまず根本的な方針として、やるもの・やりかた・やる時間帯は「本人に任せる」ということを据えて、監視するのではなく報告させるようにする。「作業日報」を書かせて成果が何なのかを親子で共有する。

大前提として、「作業日報」に書く「成果」は目に見えるものでなくてはいけない。公文であれば当然書き終わったプリント。物理は読むだけではなく必ず例題を解くところまで一日のうちに辿り着き、ノートに書く。ノートには日付を入れて、日が変われば必ずページを変える。英語の小テスト勉強も、「見て練習した」というのはダメで、必ずルーズリーフに書くとかして残る形で練習する。ルーズリーフにも日付を入れる。

「作業日報」といっても、ノートなどにすると「作業日報はどこ??」問題が必ず発生する(我が家では)。探す時間ももったいないし、見当たらないから書かなかったとか、別のメモ用紙に書いたとかいう事態が重なると、システム全体が崩壊する。

そこで、作業日報はExcelで書くことにして、毎日メールで父と母に提出する。提出は夜九時から九時半の間として、そのあとやるつもりのことがあっても、それは次の日に提出する作業日報に入れることにして、とりあえず〆。

ここまで話し合って、初日の作業日報は
12月9日 公文数学 L16~L20
…公文だけね(-_-;; まぁ、作業日報ルールの練習ということでよしとしよう。

その後はほんの短時間のものとはいえ、プラス一項目ついて二日間:
12月10日 公文数学 L21~L25
12月10日 オーラル宿題 レッスン8プリント
12月11日 工学基礎演習 ニューステップP56
12月11日 公文数学 L26~L30


そして土曜日なので、おいしい昼食を食べながらなごやかなムードの中、およその週スケジュール(それぞれの曜日でしなければならないこと)を書き出させた。

けっこう、レギュラーメンバー(毎日やることと、毎週やること)だけでもたくさんあり、その他に宿題が入る。そして、物理や化学のフォローもしていくとなると、着々とこなしていかないと話が合わないということが自分でもわかる。

その後、なんだかんだで結局「~はやったの??」などと不本意にも巻きを入れているので、自主・自律とはいいにくい面もあるが、まぁ常時監視モードからは脱却し、これまでよりは課題も進み、昨日までのところこんな感じ:

12月12日 オーラル宿題 PC
12月12日 物理テスト直し 物理ノート
12月12日 オーラル宿題 ルーズリーフに練習
12月12日 公文数学 L31~L35
12月13日 公文数学 L36~L40
12月13日 科学テスト直し プリント
12月13日 幾何テスト直し プリント
12月13日 オーラル宿題 ルーズリーフに練習
12月14日 公文数学 L41~L45
12月15日 公文数学 L46~L50
12月15日 オーラル宿題 ルーズリーフに練習
12月15日 物理 ルーズリーフに練習
12月15日 ディベート PC


「科学」じゃなくて「化学」だろとか、14日の作業日報後にやった項目が漏れているとか、つっこみどころはあるが、ともかくわかるように書けているし、なによりこれまでに比べれば破格の進捗がすばらしく、「やったやらない問題」に陥らないところがさらにすばらしい。

いつまで続けられるか?? わからないけどいちおう「三日坊主」ラインを越えたのでご報告~(^-^)

愛着ピアノ

2009年12月15日 | ピアノ
我が家のピアノは、「我が家」とまったく同じ年齢。結婚のときに、「立派な箪笥を買う代わりに」といって私の親が買ってくれたもの。

       にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ←「シンプルライフ」から「ピアノ」に変更しました。よろしくお願いします。

ちなみに、箪笥は近くの古道具屋で4000円だったから自分たちで買った(笑)

そのころの私は、別にピアノを習っているわけでもなく、ピアノはときどき弾いていたけどそんなに頻繁ではなく…はっきりいって、ピアノはずいぶんと身分不相応な品だった。

ヤマハのごくふつうのアップライトピアノの、真ん中くらいの価格の品で、デザイン重視で買ったので(茶色の木目調、ネコ足)、ピアノそのもののランクとしては中の下くらいか?? 背はあまり高くない。

始めは、調律のたびに「もっと弾いてあげてくださいね~」といわれつつ、弾く頻度もさっぱり上がらないのでなかなかこなれてくれなかった。とはいえ、最初から弾き心地といい響きといい、素直な感じのピアノだったと思う。

そして、結婚後二年たったとき、ピアノの置けないアパートに引っ越すため、よしぞうの実家に二年間預けることになった。これはとても残念なことではあったけれど、同時に腕のよい調律師さんとの素敵な出会いのきっかけにもなった。

よしぞうの兄のピアノを長年調律してくれていた調律師さんに「ついでに」お願いしたところ、これがことのほか具合よく、とても気持ちよく弾けるので、我が家に再び引き取ったあとも、継続的にお願いするようになった。

ピアノを引き取った新しい家は、マンションの中層階。邪魔な大きな梁のあるリビングに、このピアノはぴたりと測ったようにおさまった。また、この置き場所は湿度と温度も比較的安定しているためか、よい調律師さんと環境に恵まれてピアノはすくすくと育ってくるようだった。

私がピアノを習い始めて、弾く頻度が上がってくると、さらに調子がよくなってきた。調律師さんがピアノを褒めてくれると、なんかわが子を褒められているようで、うれしい。

そうやって長年信頼してピアノを任せてきた調律師さんだけに、ある年に「玄関を開けたら知らない人」だったときはぴっくりした。いつものとおり電話をかけ、いつものとおり日時の予約をして、そして来た人は別人だったのである。

別人といっても、元の調律師さんの息子さんだったそうなのだが、別人であることに変わりはない。しかもその息子さんは、今回突然代わりに自分が来たことについての説明も、自己紹介もなく、ただ黙々と調律をして帰っていった。息子さんであることでさえもクレームの電話をかけたときに初めてわかったのである。

その人の調律は、音程という意味ではいちおう合っていたのだが、音色や弾き心地からいえばまったく話にならず、しかも調律してから一ヶ月もたたないうちにどんどん狂ってきた。

クレームの電話をかけたら、次回は元の調律師さんが来てくれるということはいってくれたのだが、何の相談もなく別人を派遣したことの謝罪はなく、調律の品質が劣ることを認めるセリフもなかった。私はもう再び信頼できないような気がしたので、子どもたちのピアノの先生を通じて、まったく別のルートから「凄腕」折り紙つきの調律師さんを紹介してもらった。

この調律師さんは、プロピアニストのコンサートや国際コンクールのチューナーとしても活躍している人で、値段はやや高くなったけれど、納得の出来栄え。もっとも、ピアノの表情はちょっと変わったかな?? という印象だった。ただし、一度下手な人が調律して二ヶ月くらいたったところだったから、そんなに自信を持って比べることはできなかったのだけど。

それからはずっと安定して同じ方に調律していただくことができ、我が家のピアノとはとても仲良しになれた。

ときどき、友人宅や楽器店のフェアで、ベヒシュタインや、ベーゼンドルファーや、スタインウェイのピアノを弾く機会があって、もうそれはそれは惚れ惚れするくらいすばらしくても、それでも我が家のピアノは愛着ピアノ

高級ピアノを「いつか」買うための貯金はしても、今のピアノと置き換えようとは思わない。いつも安心の我が家のピアノは今のまま、信頼のアップライトを置いといて、まったく別の個性が楽しめるピアノがあったらどんなにすてきでしょう(^^)

よしぞうは、私が買い替えじゃなくて買い足しをもくろんでいることについて、信じられない気持ちで見守っているが(現実問題、置き場所もないし、いくらなんでも邪魔だろう??)、私は、子どもたちを追い出して広くなった我が家に二台目ピアノを置く線を狙って長期戦の構えである。

でもほんとに、高いピアノじゃないのにいい具合に育ったんですよ。ホームコンサートに弾きにくる、ピアノにはなかなかうるさそうな方々にも、「とても弾きやすい」と評判です。まだまだがんばってもらいましょう(ただ今20歳)。


にほんブログ村 ピアノ ←ぽちっと応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 ヴァイオリン
にほんブログ村 中高一貫教育

【中学受験】 こじろうインデックス
【高校受験】 またろうインデックス
ピアノ・インデックス


今日の弁当:
なんか無理やり、焼きがんもで埋めた弁当。冷蔵庫すっからかんです。

豆腐入り肉団子、焼きがんも、枝豆、プチトマト、昆布煮、ピーマンじゃこ

コドモのピアノ

2009年12月14日 | ピアノ
我が家には三人の子どもがいるが、昔風の意味で(バイエル→ブルグミュラー→ソナチネ…)ピアノを弾ける子は一人もいない。

しかし、生まれたときから家に「ピアノがある」ということに慣れているので、何か気に入ったメロディーがあるときにはとりあえずピアノに向かってみる。耳を頼りに訥々と辿っていき…台所から聞いていてオィそこはその音じゃないだろう(-_-# とむずむずするがそのまま放っておくと、徐々に音が訂正されて、あぁそう、この節だった!!

再現できたら、気持ちはぱぁーっと明るく、ピアノで音が並んだことがただうれしい。

うちの子たちのピアノは、そういう素朴なピアノ。左手なし、メロディーだけでも、知っている節を楽器で再現できると楽しい。音は、並べただけ。味もなにもあったもんじゃない。またろうだけが、ややその域から抜け出して、何かを表現しようとするところに足を踏み入れたらしいが…

と、上から目線でいってみるが、実は、私のピアノは、そういう「コドモのピアノ」。うちの子たちと違って、基本、ピアノは両手で弾いているが(^-^)気に入っている曲の、音を(あまり)滞りなく並べられたらそれでうれしい。先生がいろいろ難しいことをいってくるのを、いやそこまで求めてません、という感じ。

私が子どものころ、正しく古典的な「ピアノのおけいこ」をしていて、バイエルからブルグミュラーへ、そしてソナチネをいくつか弾いたところで、小三の発表会で「エリーゼのために」を弾いてやめた。練習が嫌いだったから。練習をしないまま楽しみで続けるピアノという概念はなかったから。やめたいというと母は「あらそう」と抵抗なく即やめさせてくれた。

そしてこじろうがヤマハのグループレッスンから個人レッスンに替わったときに、「親がいっしょにやってればつられてやるかな」と軽い気持ちで習い始めたのが今の先生。こじろうはすぐやめてしまったが、なぜか親だけ続いて早七年目。

最初は練習をほとんどしないで行ってその場で映画音楽など…そして先生の勧めでブルグミュラー18番をやってみてそのおもしろさにハマり、以降どんどんいろんな曲に挑戦している。慣れてくればだんだん難易度の高い曲でも「音が並べられる」ようになってきたが、これを称して「上達している」と言えるのかどうか??

次々自分で曲を選んで、「これが弾きたいです」と先生に持っていくところは「大人のピアノ」。しかし、音が並べば満足で、表現の中身についてあまり興味がない、というより自分の中になんのとっかかりも感じられない。そういうところは、まったくの「コドモのピアノ」。いや、子どものほうが素直に自分が出せるだけたいがいマシかもしれない。

いちおう弾けば満足、の路線でも、世の中にピアノの曲が尽きることはないし、死ぬまでこの延長で楽しめるだろう。趣味なのだから、別にそれじゃいけないということはない。

でも先生はさすがに飽きてきた(?)みたい。「これからどういうふうにしたい??」「これまできちんと弾く路線で来たけど、ほんとはアンダンテさんがもともとこうやりたいっていうのがあったはずと思うの。それが出てくる前にいつも私がああだこうだいっちゃうからいけないかなーと」

いや先生、ハノンもツェルニーもバッハもなしでやってて「きちんと路線」とはいいません(-_-;; 先生が本音でいいたいのは「内から染み出してくるもの」がないということでしょう。そういわれても、元からないですよ。先生のせいじゃないです。

と思っていたが、習いたてのバイオリンでもののけ姫を弾いたり、娘のピアニカを借りてラプソディー・イン・ブルーを弾いたりしたのを録音して自分で聴くと、ピアノを弾いているときよりは「何か(うたごころ?)」があるように思う。ピアノだとなぜああも平板になってしまうのだろうか?

これから、路線を変えるのか変えないのか、変えるとすればどちらへ…?? ということを考えてみたいと思う。という決意表明も含め、「シンプルライフ」から「ピアノ」カテゴリーに変更させていただきました。(ちっともシンプルなライフになっていかないし家は散らかってるしで、浮いてるからそっちは当面あきらめました)


今日の弁当:
火曜日が生協なので月曜当たりになると弁当用ストック品がほぼ空に。
かきあつめた感じになりました。

肉団子、プチトマト、ブロッコリー、ゆで卵、えびしんじょ、枝豆、青菜ふりかけ

またろうの金属工作: アルミ・ジャイアント

2009年12月13日 | 高専生活
一年次の実験・実習は「ものづくり基礎工学」という授業になっていて、ここで機械・電気・電子・情報・物質の五学科につながる分野の実習をすることになっている。

またろうはこの中で「機械」に進学したいと思ってるわけなので、「機械」は特に力が入るらしい。やっぱり金属を削ったりできるのは高専の醍醐味だよね。

こんな作品を持ち帰りました。

となりの、DVDパンフは大きさの比較のための…いえいえ、あまり似てたんで飾りました。でも、アイアン(鉄)じゃなくてアルミなんですけどね。

母はこういうの(金属加工)まるで疎いので、またろうに製作方法メモを書いてもらいました。

---------------------------
本体底面・フライス加工
タイヤ切り出し、みぞつけ・せん板
本体穴あけ・たく上ボール板
おねじ加工・ダイス
めねじ加工・タップ
頭・ちゅーぞー
---------------------------

「卓上」の「卓」が書けないのあんたはっ!! 「ちょっと、忘れたんだよ」
はい、しっかり思い出していただきました(しばし漢字練習…)。ってか、「旋盤」のばんがそもそも違ってるよ。「旋盤のない高校には行かない」といって、立派な高校二つも蹴ってるんだから「旋盤」くらい書けてください。

車に乗っているドクロの頭はアルミ鋳造です。まず発泡スチロールで形を作り、それを「砂型(でいいのかな??)」に埋めます。そこへどろどろに溶けたアルミを流し込むと、発泡スチロールはあっという間に蒸発して、代わりにアルミが入るという寸法です。発泡スチロールの蒸気を逃がす穴がいくつかついていたので、細い棒状のものがいくつか生えてます。それをふつうは切り落とすのですが、またろうは二本残して「腕」にしてます。



車輪と車軸はネジではまってます。「おねじ」(差す側)は車軸のほうの溝切りのこと、「めねじ」は車輪のほうの溝切りですね。これを切るのが「ダイス」と「タップ」ですって。母まったくわからずに書いてます。

実習では、各自このような車を作ったあと、規定の斜面を転がして、どこまで行くか距離を競います。バランスよく、かつ摩擦を少なく作ると遠くまでいく「はず」ですがまたろうのは造形的なところばっかり興味がいってたらしくて(ドクロを磨くのに必死)、距離はほどほど、平均的な出来だったようです。

摩擦を減らそうとして油を塗った子たちもいたようですが、かえって悪い結果になることが多く(ネトネトする!?)、中には斜面を転がりきらずにコースアウトした車もあったとか。成功したのは一例で、その子は油を塗ったあと布でよーく磨いたところ、またろうの1.5倍くらいいったそうです。



かわいいので別ショット撮ってみました。本体下の穴は、車軸にちょうどハマる大きさなので、こんなこともできます(^^) 泣いてるように見えるのは棒を切り取った跡。