弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

価値づけ-悪戦苦闘

2017-02-08 23:00:47 | 思考
他我問題について。

認識できないので存在不存在は分からず、故に、認識への意志を放棄する。
(日常感覚に訴えて)

認識できないので不存在とみなす。故に、他我に意味はない。

これらでは大きく隔たりがある。

まあ、実際に他人と接しているときに、相手の意識や自我を疑うことはないので、結局自分にとっては本質的な問題ではないかもしれない。
(あまり納得できなかったが、CiNii上の論文で永井均の他我問題についての解答が示されていたし、哲学的な解答も勿論あるのだろう。)

それより、


死後の客観的世界の存続について。

死後には少なくとも今までの意味での認識など出来ない。
そして、認識の喪失という事態を考えることに意味が無いため、死後の現世界の存続については沈黙する。
と、
死後には少なくとも今までの意味での認識などできないので、現世界は死の時点で消滅とみなす。故に、自分の生の範囲内でしか世界に意味はない。

これらでは導かれるものが大きく異なる。
そして、前者を取ったとしても、宇宙論的な地球消滅(太陽の膨張により地球が飲み込まれる)の必然性や人為的な消滅(環境破壊や戦争)の可能性によって、人類が消滅すれば、自分の行為などただの塵に消えるという終末論により、自分の人生に意味を付与するのが困難になる。
後者は堕落や自殺に直結しかねない。

・・・これらは認識と(それを統合する)自我で、およそ認識できないものは不存在とみなすということから出てくる。不可知論に耐えられないからだ。ならば、そこからしか出てこない倫理規範を構築しなくてはいけない。

だが、思考によってそれに迫るのには限界がある。
根底にある経験として、
・父の死(亡くなり方に問題があった)
・親友の自殺
・自身の入院・手術体験
がある。

何か、衝撃的な原体験がなければ、知的直観は生まれないだろうが、これらに比するものは意図的に体験できないしおそらく今のままでは体験しない。
生死に直結するものなど人生でそうそうない。
どうすればいいのか。山籠もりでもするか・・?

無神論?からの倫理規範

2017-02-08 20:08:19 | 思考
「神」という概念を含まない宗教はあるのだろうか。
いや、その場合、「それ」は宗教なのだろうか。

日本人はよく無宗教と言われるが、「千と千尋の神隠し」
で、日本にはアニミズムの精神が息づいている。
みたいな言説を目にしたことは記憶に新しい。(ちょうど、テロの後だった気がする。)

実際にそんな精神を持っている人に出くわしたことはない。
まあ、しかし、欧米の文化がキリスト教的なものに基づいていたとして、アニミズムというのは何らかの倫理規範を内包しているのだろうか。。

そうとは思えない。少なくとも教典などの形で明示されるものなどないと思う。
故に、日本文化は・・・
などと大風呂敷を広げる気は全くなくて、個人的なニヒリズムの由来が現代日本の社会・文化にある部分は否めないと思う。
それ故に、日本社会全体を分析・・
するつもりも全くない。

遵法意識がある訳でもなく、法を守るのはそれが自分の利益にかなうため。
それならば、内面に倫理規範・価値規範があるかと言えば、それもない。
基本的に人畜無害であるのはそれが自分の感性にかなうから。

だが、その感性は生き方について全く指針を与えてくれないことに気付いた。
~するなかれ。
と命じるだけで、能動的な作為を命じない。(昔は違ったが今は。)
故に、前に書いた「抵抗」という概念と「ただの意地」から実際の活動を導こうとしたのだが、上手くゆかない。

今なら怪しげな宗教の勧誘に引っかかってしまう。
・・ということもない。

冒頭で出した「神」の概念はというべきものは、自分の中では無色透明で不安定であるから、他の何物も寄せ付けない。
しかし、これまた何の作為も不作為も命じない。困ったものだが、少し考えてみよう。

宇宙の始まりを考えた時、
A(量子の揺らぎでもなんでもいい)があった。
という端的な事実があったとしかいいようがない。無から有は生まれない。生まれたとしたら、それは「無」の概念に反する。
では、
Aはどうやって存在を始めたのか。
-B
では、Bは?

といういわゆる「無限後背」に陥る。
なので、Aで止めておく。(恣意的中断)
Aとは何かをめぐる議論は、確実に「同語反復」になる。
これらはトリレンマだ。

だから、個人的に恣意的に区切った最初のものを「神」とするが、それは何かというと端的な「存在」(という概念)に過ぎない。
人格も持たなければ、全知全能など有り得ず、何も保証しなければ、何も命じてこない。(非人称的存在)
仮に言語で表すとこうなるだけで、言語化にはなじまない。
それを「神」としただけ。

或いは、認識しなければ何物も存在しないのと「同じ」だから、あらゆる意識を持つ生命体が神、いや意識というものが神なのかもしれない。(汎神論に近づく)
だが、独我論的に考えると対象が意識を持っているかを確認する術がない。
故に、「世界の開け」が確実にある私の意識にのみ神に宿っているのかもしれない。(※「私」=「神」ではない。)
だが、それを確認することはできないし、何かを命じることもない。基準を持たない。


もはや、有神論なのかも無神論なのかも分からない。
また、始まりがそうであるなら、終焉も神であるかもしれない。
始まりと終焉が物理的に或いは概念的に同じな場合、それらは同一の神だ。
異なる場合、神は二種類存在するのかもしれない。

いずれにしても、
何も命じない。
のが肝で、こんなことを考えていてもせいぜい、
自分の命や他人の命を絶つことなかれ。
という市民社会では当たり前の規範にしか辿り着かない。

・・・生きる指針が欲しい今、こんなことを考えても意味が無かった。
少なくとも俗的な宗教を私は嫌悪するだろうということくらいか。

哲学的には、「神の存在論的証明」(※)に少し考えさせられたが、それを考える必然性を感じない。


神は完全である。
完全という概念には存在するというのも含む。
故に、神は存在する。

最初の定義が違うんだよなあ・・キリスト教神学を学ぶつもりもないけれど。

抵抗の形-大学院という道筋

2017-02-08 17:48:10 | 思考
カミュに依れば、不条理とは、
明証性への希求とそれが叶わないことにある緊張関係
である。

ずっと、不条理への「抵抗」というものを考えてきた。そして、それに前の日記の「意地」というのが合わさって出来たのが大学院進学という道である。

ただ、単純に大学院進学ということが目的化してはならない。
内的な不条理というものは常にあるものだから、存在し続ける-明晰な視力で認識し続ける。それだけで、抵抗という形は出来上がるのかもしれない。だから、それに「意地」を加えるなら、それに加えて-抽象的な意味を超えて-何かしらの行動の形に落とし込んでいかなくてはならない。

カミュの意図するところでは全くなさそうであるが、大学院という道は、自分にはやはり明証性への希求を常に意識し続けるということになるだろう。
そして、その不条理というものには、内的なものを超えた部分で顕現している類のものがもある。

生と死(始まりと終焉
意識
他者(他我
社会

世界

生と死だけ後で別枠に見るとして、

意識・他者(他我)、これらは認知科学・人工知能・脳神経科学と密接に関わる。
そもそも、高3の時点ではこれらへの進路を考えていたはずだし、他の問題は意識、それからしか生まれない。
だが、幾多の書物の影響と思考の末に、
科学はこれらに関して究極的な説明を与えはしない。
という考えが形成されてしまった。そして、グランドセオリー(意識とは何かみたいな根本命題)を築く上での個別の些末な研究に興味が持てない。(論文レベルで関心が無い)
何より、脳科学への苦手意識とコンピューター(プログラム)への苦手意識が足を引っ張っている。

それならば、と、「こころの哲学」や「科学哲学」という分野の本も読んだが、理系出身の学者や海外大学院出身の学者も多く、おそらく能力不足だ。
(高2の頃や2浪の頃に理系にいたが、自然科学的な考えが馴染まなかった。今で、理論的な部分だけやれは分からないが・・・)
ただ、科学哲学は人間の知を包括的に捉えることが出来るという意味で大変魅力的なのだ。

社会-これは生きている枠組み自体がそうであるし、社会というものはミクロでは一個体間でもみられるので個体間相互作用も不条理だ。
ただ、ミクロの対人相互作用より、より大きな構造という目で集団や組織の方がより規模の大きい不条理が発生する。
それを見つめるのだったら社会学。
社会心理は抵抗という意味では「ひ弱」で「こじつけ」だ。

もっとマクロ(環境的な意味での世界)に見るのだったら国際関係学(論)。
ただ、地球の裏側での悲劇を見つめていけるほど想像力が豊かではないらしいし、学部でも興味が持てなかった。

最初の、生と死(誕生と終焉)という意味では、(死生学なるものに興味はないので)、根源的なものに至るには宇宙の誕生という意味で宇宙物理学、生命の誕生という意味で生命科学が自然科学の分野としてあって、思弁と言葉だけで捉えるなら哲学があるさ。
かの、有名な哲学者の言葉にも、
何故、一切何もないのではなく一切があるのか。
というものもある。
だが、思弁だけで捉えようとする哲学には抵抗があるし(なので科学哲学なのだ)、突き詰めようとしたら面白くなくなってしまった。
向いていないのだろう。
理論物理学で食べていけるのなんて天才だけだろうし、生命科学にしたって学部レベルからやらなくてはいけないし、個別の研究には興味が持てないだろう。(以前、「原始生命とは分子機械の相互作用で生まれた」みたいな分厚い本を何とか読み終えたが、明らかに前提の知識不足だった)

おおよそ決め手がない。食べていくことを考えても。
それだから、精神症状と精神病理という実体験での不条理を元に、臨床心理学という道を考えたのであった。
実践と研究を両立できるし。
だが、
・興味のある研究テーマが見つからない(というか、興味を無くした
・学問という意味で抵抗がかなりある。(精神分析系、精神力動系への反発が物凄い。
・昔より他人に興味が無くなったし、援助にも情熱を持てない。
・自分の症状が残存する中では、同族嫌悪もしてしまう。
・パーソナリティの安定性という面で実践に向かない
という所々の事情からやめてしまった。

もはや、「抵抗」という唯一の価値基準を捨てるしかないのかもしれないが、その先に待っているのは全くのニヒリズム。
その先には自殺も有り得る。
しかし、代わりの価値基準が見つからない。