他我問題について。
認識できないので存在不存在は分からず、故に、認識への意志を放棄する。
(日常感覚に訴えて)
と
認識できないので不存在とみなす。故に、他我に意味はない。
これらでは大きく隔たりがある。
まあ、実際に他人と接しているときに、相手の意識や自我を疑うことはないので、結局自分にとっては本質的な問題ではないかもしれない。
(あまり納得できなかったが、CiNii上の論文で永井均の他我問題についての解答が示されていたし、哲学的な解答も勿論あるのだろう。)
それより、
死後の客観的世界の存続について。
死後には少なくとも今までの意味での認識など出来ない。
そして、認識の喪失という事態を考えることに意味が無いため、死後の現世界の存続については沈黙する。
と、
死後には少なくとも今までの意味での認識などできないので、現世界は死の時点で消滅とみなす。故に、自分の生の範囲内でしか世界に意味はない。
これらでは導かれるものが大きく異なる。
そして、前者を取ったとしても、宇宙論的な地球消滅(太陽の膨張により地球が飲み込まれる)の必然性や人為的な消滅(環境破壊や戦争)の可能性によって、人類が消滅すれば、自分の行為などただの塵に消えるという終末論により、自分の人生に意味を付与するのが困難になる。
後者は堕落や自殺に直結しかねない。
・・・これらは認識と(それを統合する)自我で、およそ認識できないものは不存在とみなすということから出てくる。不可知論に耐えられないからだ。ならば、そこからしか出てこない倫理規範を構築しなくてはいけない。
だが、思考によってそれに迫るのには限界がある。
根底にある経験として、
・父の死(亡くなり方に問題があった)
・親友の自殺
・自身の入院・手術体験
がある。
何か、衝撃的な原体験がなければ、知的直観は生まれないだろうが、これらに比するものは意図的に体験できないしおそらく今のままでは体験しない。
生死に直結するものなど人生でそうそうない。
どうすればいいのか。山籠もりでもするか・・?
認識できないので存在不存在は分からず、故に、認識への意志を放棄する。
(日常感覚に訴えて)
と
認識できないので不存在とみなす。故に、他我に意味はない。
これらでは大きく隔たりがある。
まあ、実際に他人と接しているときに、相手の意識や自我を疑うことはないので、結局自分にとっては本質的な問題ではないかもしれない。
(あまり納得できなかったが、CiNii上の論文で永井均の他我問題についての解答が示されていたし、哲学的な解答も勿論あるのだろう。)
それより、
死後の客観的世界の存続について。
死後には少なくとも今までの意味での認識など出来ない。
そして、認識の喪失という事態を考えることに意味が無いため、死後の現世界の存続については沈黙する。
と、
死後には少なくとも今までの意味での認識などできないので、現世界は死の時点で消滅とみなす。故に、自分の生の範囲内でしか世界に意味はない。
これらでは導かれるものが大きく異なる。
そして、前者を取ったとしても、宇宙論的な地球消滅(太陽の膨張により地球が飲み込まれる)の必然性や人為的な消滅(環境破壊や戦争)の可能性によって、人類が消滅すれば、自分の行為などただの塵に消えるという終末論により、自分の人生に意味を付与するのが困難になる。
後者は堕落や自殺に直結しかねない。
・・・これらは認識と(それを統合する)自我で、およそ認識できないものは不存在とみなすということから出てくる。不可知論に耐えられないからだ。ならば、そこからしか出てこない倫理規範を構築しなくてはいけない。
だが、思考によってそれに迫るのには限界がある。
根底にある経験として、
・父の死(亡くなり方に問題があった)
・親友の自殺
・自身の入院・手術体験
がある。
何か、衝撃的な原体験がなければ、知的直観は生まれないだろうが、これらに比するものは意図的に体験できないしおそらく今のままでは体験しない。
生死に直結するものなど人生でそうそうない。
どうすればいいのか。山籠もりでもするか・・?