弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

死刑囚-唾棄・放棄

2017-02-02 22:42:03 | 思考
我々は、例外なく死刑囚である。服役などしなくても、不確定期限の元で確定的に死刑は執行される。

・・・このブログの最初に、
死は唐突に不条理にやってくる。
と書いた。ベッドの上で段々衰弱していき、少しずつ命が消えるような終わり方。
そんな死も確かにあろうが、基本的にはいつまで経っても不条理であり、唐突性というのはいつでも潜んでいる。
事故、事件、身体の突然の異常(心筋梗塞、脳出血など)、災害・・・

日々起こっているそれらに対し、我々は常に鈍感だ。
いや、鈍感であるように社会が仕組んでいるし、実際上、そんな暇もない。

・・・自殺というのを、手術してからあまり考えないようになったが、逆に、そのせいで生に対する切迫感が消えてしまったようにも思われる。
社会的猶予が減っていくという意味で時間が過ぎていくことに焦燥感は感じ、常に心休まらないが、何か切実な想いが無い。

不条理には抵抗しないといけない。
そうも書いたが、どうやら、いつ死んでも構わない、という消極的自殺願望が恐怖と併存していて、抵抗という形を取れない。
というか、死が不条理なものとしてあっても、それにどう相対すれば、抵抗になるのかがまるで分からない。

死が不条理ならその過程である生もまた不条理だ。
ならば、自殺というのが不条理の最たるものであっても、生の強制終焉-不条理の自発的終焉というものも否めない。
不条理なものが不条理なものを終わらせるという・・・

そんなこんなで、何が抵抗なのかも分からなくなる。
いや、そもそもが「抵抗」というのが唾棄すべき概念なのかもしれない。
新しく生を形どる枠組みこそが必要だ。