弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

防衛としての救いとしての死-ニヒリズム1

2017-02-04 22:49:54 | 思考
何故、何事にも価値を見出せないか考えた時に、やはり、
死ねば全て終わる。
というのがあり、それには、
終わりまでにいかなる経緯を辿ったとて、本質的に全て死が無意味にする。
という考えがある。

そしてこれには、(人格神的な意味での)無神論、彼岸を想定しない無宗教性、が根の部分である。

死自体は再体験できないし、(現代の科学技術的には)死後の世界など無く、いや、そもそも認識の枠組みが消滅している。
ニーチェが最初に読んだ哲学者であり、その読書経験が高3-父の死前後にしていたことから、これを根底の部分で覆すには何か、絶対的で啓示的な経験が必要だったが、入院と手術によってむしろこれが凝り固まってしまった。

しかし、この凝り固まってしまったニヒリズムで楽になっている部分があると気付く。
それは、過去への後悔と劣等感、という意味でだ。

前者は、昔は充実してそうな高校生や大学生(特に男女ペア)を街でみる度に自殺願望がちらついていたのに、それが無くなったこと。
現在の中心化、焦点化というという暖かいものでも何でもなく、ただ、過去の可能的な自分を排除した結果だ。
野球をやっていなければ、男子校に行かなければ、一浪で滑り止めに行ってれば、大学で別の部活を選んでいれば・・・現状は違ったかもしれない。
等という言説、思考、妄想の排除。
「いかなる経過を辿ったとて」という意味はここにある。すなわち、過去から現在の可能的な自分(特に症状が無い自分)を想定したとして、結局、死は遅かれ早かれやってくる。いかに充実していようが楽であろうが、これから迎える死という結末は変わらず、過去は過去で切り離せる。
(厳密に言えば、いかなるルートを辿ったとて発症はしていたし、そういうルートがあったら今の思考内容自体が無くなっているという決定論。そういう道筋のうえに、浅い思考のまま死んでよかったのかという疑念。)

後者。
これも決定論的色彩が強いが、いかに世間的に認められようが、贅沢な暮らしをしようが、死ねば過去の人となる。
死後、多少の美化はされようが歴史に残る偉人にはなれないし、仮にそうだとして、死んだら認識というもの自体が消え去るので、現世の間だけでの名声に過ぎない。そして、華美な暮らしも世間での名声や評価も望んではいない。

有体に言えば、死に方は平等ではないけれど死は平等だ。
せいぜい傲慢無知のうえに築いた束の間の幻影の中で生きて下さい。
という、現世的な価値秩序へのある意味で見下し。

(補足:自殺願望が今発生とするとしたら、何にも価値を見出せず、今後すべきことも見つからないという倦怠ゆえだ。)